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帰省中に地震に遭って

※本記事は令和6年能登半島地震について執筆しています

2024年1月1日午後4時10分ごろ、石川県能登半島を震源とする最大震度7の地震が発生した。私の帰省先の富山県西部でも震度5強を観測した。

地震発生時、私と両親は2階に、祖母は1階に、祖父は銭湯へ出かけていた。

家が大通り沿いに面しているので、大型車両が通るたびに少し揺れる。「相変わらず揺れるな」と思っていたけどそれにしても長い揺れでそこで地震だと思った。

震度3くらいかなと思っていたら地震速報が入り、「また石川か新潟のほうで地震が起きたんだな」とテレビを眺めていたら、3台のスマホから大きなアラートが鳴り、直後に大きく揺れた。それでも私たちは「大きい揺れだね」なんて話して逃げるそぶりすらなかった。

しかしあまりにも揺れが収まらず、家屋が倒壊することが頭をよぎったため、母の「逃げるよ!!」の声の元、屋外へ逃げた。祖母は使っている石油ストーブを消し、私たちの逃げる導線を確保するため玄関扉を揺られながら押さえてくれていたから私と交代した。

その間、ずっと揺れている。父がいつまでたっても2階から降りてこない。私と母が「早く!降りてきて!」「何してるの!」と口々に叫ぶ。揺れが収まったころに2階から降りてきた。何をしてたかというと、「地震でお茶がこぼれたから拭いていた」らしい。なんでそんなに呑気なんだと思った。心の底からありえないと思った。しかし、この行動には理由があった。

富山県民は本気で「立山が守ってくれているから地震は来ない」と思っている。私も富山県は全国で1番安全な県だと思っていた。実際、地震の発生数も全国では少ないほうで、今回の震度5強は観測史上初だったという。


確かに能登地方に比べると被害は少なかった。でも「結局大丈夫だったじゃん」なんて思わず地震が来たらすぐに避難するという小学校で習う当たり前のことをしてほしいと思う。

震度5強の地域(実家周辺)では、家屋倒壊等大きな被害はなかった。シャッターが曲がり開かなくなったり、ブロック塀が倒れたりした。

地震が収まり、ひと通り家中の復旧を終えても小さな余震は続いている。発生した日から帰京するまでの4日間も余震はひっきりなしに続いた。1日はまた大きな地震が来るかもという不安からお風呂に入れなかったし、眠れなかった。ずっと揺れている気がして気分も悪くなった。


震度5強でこの感覚。石川県の方々はこれより大きな被害に遭われ、心身ともに疲弊されているだろう。1日も早い復興のため、私のできることをしていこうと思う。

ちなみに祖父はそのあとしばらくして帰ってきた。昔から家族間で何かあった時の避難所は〇〇に集まろうと決めていたことだけが良かったことだと思う。(今回は避難しなかったけれど)

今住んでいる地域は南海トラフが直下すると言われている。この教訓を活かし、取り急ぎ防災バッグづくりとハザードマップを確認しようと思う。

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