贈り与えることの意義

ものを贈られると嬉しい。
ものを贈る側の立場に立つのは楽しい。
そのことはもちろん念頭に置いた上での、今日の記事だ。

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世の中で広く知られている「経済学」の不完全性を指摘する経済学を学んでいた時期がある。それは、不完全性を指摘しつつも、その経済学の起源をたどり、それを学ぶ、経済人類学と銘打たれた学問である。

当時、選択授業でそれを学ぶ傍ら、必修で経済学も学んでいたので、なんだかビミョーな気分になってしまっていたが。

数字で説明することのできない経済。すなわち、貨幣経済以前の世界だ。狩猟経済、物々交換、農村経済といった言葉がキーワードになるだろうか。

大学の講義を通してその学問に出会った。わずか18コマの授業だった。担当してくれた先生は、アフリカで複数年フィールドワークの経験があったそうで、その話をたくさんしてくれた。自分はその話にすっかり魅せられた。

その講義で自分が得たことを全てあらわすにはもう時間が経ちすぎてしまっているので、一つだけ取り上げたい。

(※履修当時のメモと記憶を掘り起こし、投稿用のものとして自分の意見を織り交ぜながら書いています。学術性の保証はありません。)

贈与経済

何かの記念日やイベントで、私たちは誰かからものを貰う。
もっとそれらしく言うなら、ある一人の人から、自分という存在に対して、ものを贈られる。

私たちは、記念としてものを贈る。
そして、記念としてものを贈られる。

ものというのは、有形か無形かを問わない。

誕生日プレゼント。現像された記念写真。結婚指輪。
お祝いの言葉。開いてくれるパーティー。好きな娯楽施設に連れて行ってくれたという経験。

私たちはその度に、経済学と切り離すことのできない「金銭」という概念を切り落とす。その代わりに、経済学と切り離されて考えられがちな「感情」という概念を堅く結びつける。

その「感情」と「贈与」に焦点を当てて考える。

その講義を担当していた先生も、1回目の講義から頻繁に口にしていた。

「経済を感情抜きに語ることなど不可能である」

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「気持ちのこもったプレゼント」というフレーズが浸透しているように、贈与経済には、金銭の代わりに感情の移動が伴う。
究極的には、ものを贈るというよりは、ものに乗せて、感情を贈りあっているという方が適切なのかもしれない。私たちはそのくらいのことを無意識に行なっている。

身近なところで考えれば、誕生日にプレゼントとして友人からネックレスをもらったとして、もちろん受け取るものはネックレスという有形のものなのだけれど、「誕生日おめでとう」という気持ち(感情)がこもったものに違いない。

それでも往々にしてあるのが形だけの贈り物だ。付き合いで贈るものもあるだろう。比較的、感情の移動は少ない。そのような贈与は、関係の形骸化の現れだ。

(それでも社会にそのような贈与経済が未だに残っているのはなぜ?という問いも取り上げられていたが、今回は目をつぶる。)

自分の感情を相手に贈る。
目に見えるか否か、自分の感情の程はいかほどかというのを抜きにしても、贈ったものには感情が付いて回る。

まあ、そう言われれば。でも、そんなにシリアスに言わなくても。

履修当時の自分の心境でもあるが、きっとこれを読んでいる方も、同じようなことを思っているはずだ。

感情による束縛

意識しなければ、この話はここでおしまいなのだけれど。

一つの見方として提示したいのが、「贈る側の感情が、ものという手段を通して、贈られた側を束縛する」ということだ。

いやいや、大げさだなあ。

私も当時そう思った。講義で扱っている時代・地域と、私たちが生きている令和の時代・地域(そういえば履修当時は平成だったか…(どうでもいい))は、各々主とされる経済形態の面で大きく異なる。

だから、今この見方が必ずしも正しくない、通らないということは分かっている。
でも、これを起源にして今の経済形態があると思えば、ちょっとは共通点を見出したくなって考えた結果がこの記事だ。

勢いよく脱線した。レールを敷き直そう…。

感情が、相手を束縛する。
ものと併せて贈られる、あるいはもの自体として贈られる言葉の裏に、贈る側の意図がある。
それは、「これからもよろしくね」だったり、「いつもありがとう」だったりする。

それ自体、とても前向きなものだ。
それは、時代が今だからだ。

この贈与が地域を動かしていた時代、経済として成立していた時代のことを想像してみる(実際、そのような経済形態を今日まで存続させている地域もあるのだけれど)。

何かものを贈れば、見返りとして何かを得ることができる。確実とまでいかなくても、話を持ち出してそれを有利に運ぶ強大な手段となる。
贈与することでアドバンテージが生まれる。それを使って、人々は生活し、権力をもつようになる。

土地、地位など、少し抽象的なものに考えてみると、なんだかとても怖くなってくる。

有形と無形に生まれる差

ものには形のあるものとないものとがある。
誕生日プレゼントを例として考えてみる。

先ほどと同様に、ネックレスをもらったという設定を考えてみる。
ネックレスは有形であるから、一度貰うと少なくともしばらくは自分の手元にあるはずだ。
贈られた感情も、ずっとネックレスがある以上は、ずっとそこに残っている。

かたや、おめでとうという言葉は無形である。大切な人からの言葉はなかなか忘れないだろうが、その時のことをそのまま全て覚えておける人というのはそうそういない。
あるいは有形でも、お菓子など消費して消えてしまうものもある。これも食べきって、入れ物も破棄してしまえば無形と同じことになる。

そう考えると、私は有形のものを贈ることになんとなく抵抗を覚えるようになってしまった。
考えすぎだし、自分が気に入った有形のものを貰うととても嬉しくはなるのだけれど。

スーパーに売っているようなお菓子を贈られるのでも、袋に直接メッセージが書いてあって捨てにくくなってしまうのはそのせいだ。

文字というその人の表現に乗せられた感情に縛られてしまう。

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人は毎日何かを贈り合って生きている。

考えを巡らせたら、ペアルックとか、ああ、すごい贈与だなあ、としか感じられなくなった。



私は今でも時々、そう考える時がある。
ものに、行動に、言葉に、贈与という観点から見た価値を改めて認識し、付加する(あるいは敢えて差し引く)ことがある。

贈るって、素敵で、その分意味がある。時に怖さという刃を少しだけ見せて。

まあ、いつでもそこまで意識しているわけではないけれど。

今ほど贈与が当たり前になって、飽和した時代はない。