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言い訳

枠にしろ、この世の支配体制にしろ、歴史にしろ、聖書預言にしろ、知れば知るほど絶望しかない。枠を打つかどうかで家族が分裂したり、それはインボー論だ!とどや顔する人々。あきらめしかない。それなのに、どうして情報を追ったり、知ろうとするのか?と言われた。

知れば知るほどグロテスクだ。生んだ子が打ってしまったから、負の情報は知れば知るほど辛い。知ることで活路が見いだせるとも思っていない。活路があるとすれば、長崎の被爆地近くの病院で、スタッフが原爆症にならなかった秋月辰一郎医師のやり方と、祈ること以外にないと思っている。


圧倒的な力の前で敗北は見えているし、その中でわずかでもできることも分かっている


結果は出ている。


それでもなお知ろうとする、何故なのか?

一つは好奇心だ。どうなるのだろうと。でもそれよりも、どれほど残酷であろうと、身をよじるような苦しみがあってでも見届けなければいけない気がしている。

Mなのか?

痛みにも弱いし、苦しいのも嫌いだけれど、そうなのかもしれない。この時代を生きた大人の責任のようなものからだ。

原発が導入されたのは、私が生まれる前だ。受け入れた自治体にはやむを得ない理由があったのかもしれないし、知らなかったとも言うかもしれない。言い訳はいくらでも言える。その一方で、あくまで拒否した自治体もある。

私はそのどちらにも与していないが、次の世代にこの負の遺産を引き継ぐ立場にある。

今回の騒ぎは、早く気づいていながら、結局、何もできなかった。しょうがなかったという言い訳はいくらでもできる。でも、次の世代は私たちの言い訳を聞きたいだろうか。

良かれと思って打って、周囲を体調不良にさせている今回の枠、原発と似ているかもしれない。打った人は、知らなかった、しょうがなかったと言うのだろう。

誰に言い訳をしているのだろう?

私の力ではどうにもできなかったと、私も自分に言い訳ができる。でも、次の世代に同じ事を言うような大人でありたくないと思う。見届けたところで、何か変わるものでもないと思うけれど、そうせずにはいられないのだ。

(タイトル画像 http://web-pal-pub.jp/archives/3817/.html)

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