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「ぐりとぐら」VS「1日1食」

夫なしで高齢の姑と同居を始めてもう少しで1か月。姑は、足が悪く、見ていると危なっかしいけれど、色々と工夫を重ね、とにかく自分でなんでもしようとする。心臓も悪いので、何をするにも時間がかかるし、よく横になっている。それでも、他人にやってもらうこと、例えば蓋を開けるとか、重い物を持つとか、そういったことは別にして、足が多少痛くても、心臓がバクバクしても、極力自分でする「根性の人」だ。他人にしてもらうのは、楽(らく)でいいのだけれど、自由が制限されるのが嫌だと言う。

このあっぱれな原動力は何かというと、「食べること」。そして「料理をする」こと。”ボケずに元気”なのは、よく食べることだと姑は固く信じている。

「食べることと料理をすることが好き」・・・といえば、『ぐりとぐら』!

ぼくらの なまえは ぐりと ぐら
このよで いちばん すきなのは
おりょうりすること たべること
ぐり ぐら ぐり ぐら

子どもが幼稚園のお遊戯でやったか、読み聞かせをしているときに私が勝手にフシをつけて歌ったか?そう思うと、姑は、メルヘンかも・・・

それはさておき、姑の最大のおもてなしごちそうすることだ。夫無しで姑と同居する嫁なんて、10人いれば10人がびっくりするらしく、私に何かとたくさん食べさせようとする。また、舅が亡くなって20年、ずっと一人暮らしだったから、いっしょにご飯を食べるというのが嬉しいようだ。

そんな姑にご飯を作ってもらって、色々と注文をつけるのも申し訳ないが、「私は絶対に病気にはなれないから」と言って、二つだけ通すことにした。砂糖は極力摂らない、それから1日1食。1日1食であれば、多少悪い物を食べても大丈夫だろうという計算がある。

今までは、原則1日1食だった。誰かと食事を楽しもうというときは2食、3食になることもあった。でも、その誰かが「おいしい」というものに、それほど”価値がある”とも思わなかった。食べることが生きがいの姑と同居をはじめて、それがますます強くなった。


商売人とはそういうものかもれないけれど、姑は”良い物”を安く買うことに誇りをもっている。洋服だとか日用品だけではなく、食材もそうだ。私も食材は”良い物”を得たいと思うけれど、姑は”良い物”とは「美味しいもの」で、私は食品添加物が入っていないとか、無農薬だとかなど、「身体に優しいもの」だ。

近くに住むおじさん(姑の弟)が、足の悪い姑のために色々と買ってくる(大量!)から、そちらに注文をつけるわけにもいかない。


「人情だとか人の優しさが『食べ物』で表現される」


姑に限らず、これは昔から感じていたことで、もともと食傷気味だった。私も現代人だから、命を繋ぐための食べ方からは程遠いと思う。それでも、姑を含む後期高齢者たちのやりとりは、「過剰」の一言だ。絶対に巻き込まれたくない。だから、完全に1日1食になった。さらに、その1食も飛ばして、時々、1日断食をしたいとさえ思うようになった。

海外赴任中だった夫が帰ってくることになり、夫は前に住んでいた場所に住むことになりそうだ。それで私も時々週末帰ることになりそうだ。そのどさくさで抜いてしまえば、姑も心配しないだろう。

これまでも、周囲を撒くのはけっこう大変だった。面白いのが、「1日1食で身体は大丈夫なの?」としつこく言ってくる人のほうが病気持ちだったりする。「私のことより、てめぇの”病気”を心配してろ!」(言葉が汚くて失礼!)と心の中で思うのだけれど。「1日1食にすると、身体が軽いし、時間もできる。それに直感が冴えるから」と笑顔で返すことにしている。理屈を言ったところで、通じないのは分かっているから。理屈が分かっていたら、”病気”なんてとっくに終了している。

「不食の人」はもっと大変だろうな。周囲に理解者がいればいいけれどね。

でも、食事を減らすと、精神的にも強くなるというのもあるようだ。余裕ができるのかもしれない。傍観できるってことかな。周囲に流されなくなった。「不食の人」は私より究めているわけだから、どうってことないのかもね。




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