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おばあちゃんの仕事

森田洋之先生の昨日のFB記事より


切り干し大根を作っているおばあちゃん

病院からいろ葉へ入居した時は多量の薬を飲んでいて要介護3。1人では何できずいた彼女。
今は減薬に成功し薬ゼロ。元気になってスタッフとして大量の大根を切り干し大根にしてくれるほど。
「高齢者医療は足し算から引き算へ」

https://www.facebook.com/hiroyukimorita56/videos/432740381751004


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数年前まで、高齢者のことには興味がなかったし、高齢者のために割く税金は、未来を担う子どもに向ければいいのにと思っていた。「高齢者を大事にしましょう!」という”やさしさ”が偽善っぽくて嫌いだった。

本当は、離れたところに住む高齢の姑を、”今時”、次男の嫁である私が、夫もいないのに同居する義理などない。夫は結婚するとき、親は弟がみるから安心しろと言っていた。特に何の感情もなく「ふ~うん」と聞いていたが。

姑は、「私が死んだら、家を壊して、ここを駐車場にして、その収益を子どもたち3人で分けなさい。(姑が頑張って手に入れた)ここの土地は絶対に売ったらダメ!仏壇は○○(夫)のところ(つまりわが家)に見てもらうことにした」と言ったときは、こっちの都合も聞かずに仏壇はわが家か?おい、おい!と思った。20年程前、舅が亡くなったころだったと思う。

舅が亡くなってから、姑はずっと一人暮らしをしている。心臓やら足やら乳がんやら、手術のために入院しても、病院のご飯がまずいと言って、すぐに脱走してくる。ボケたら最後、病院か施設に入らなければいけない!それはぜったいにイヤだ!と思っているから、とにかく、頑張っている。

3ヶ月程前、足が痛くて痛くて眠れなかった。慌てて、整形外科に行ったら、手術しなさいと言われたと、涙ながらに電話をしてきた。原因はむくみ。後日、姑の家に行ったときに、「そりゃ、レントゲンをとれば、骨が細くなっているだろうから、整形外科なら、手術しろって言うのも当然だと思う。もし、私がいれば、整形外科など行かずに、足を高くしたり、マッサージをして様子をみたのにね」と言うと、安心していた。

薬害の問題から、児童相談所や養護施設が精神医療のお得意様であることを聞いた。高齢者施設も同じようなものだと聞いている。施設というところでは、薬で行動をコントロールし、様々なことが管理されるということを知れば、誰であっても施設に入れたくない。まして、今のご時世は、家族とも面会できないとのこと。

私には、誰かを施設に預けるよりも優先させたいものは何もない。ちょうど、家から通勤していた末っ子も、転勤で家を出た。姑が好きか嫌いかだとか、嫁だからという話ではなく、夫がいなくても、身軽な私が行くべきだろう。



祖母の日記

舅が亡くなる数日前に95歳で実家の祖母が亡くなった。亡くなるまでの1年半、祖母は日記を書いていた。なんだか読む気がしなくて、ずっと読んでいなかった。

祖母とは同居していたわけではないけれど、たぶん、孫の中で一番かわいがってもらったと思う。祖母はまあまあ裕福な家のお嬢様だったけれど、若くして夫(私から見た祖父)を亡くした。祖母の妹も同じ頃に夫を亡くしたから、二人で寮母をしながら、子どもを育てた。何でもできる人だったけれど、料理が上手で、私は大学生になっても時々遊びに行っては、ごちそうになっていた。おばさん(祖母の妹)と二人で、相撲談義をし、晩ご飯はどうしようかと相談していた。スーパーの前で二人で座っていたら、「(双子の)金さん、銀さんみたい」と言われ、私たちはあんな年寄りじゃないと怒っていた。

それからしばらくして、子どもたち(父の兄弟とおばさんの子どもたち)が、心配だからと、祖母とおばさんを別々に引き取った。2,3年後、私の結婚式のときに久しぶりに祖母に会った。おじやおばには悪いが、祖母は、陰気で生気がなかった。おばさんと二人で相撲談義をしていたころとは、まるで別人だった。おじやおばは、何もできない年寄りとして見ているようだった。それから、子どもたちの家を転々とし、最期は私の実家で迎えた。亡くなる数日前に、父が老人介護の病院に入院の手続きをした。祖母が、入院させられることを知っていたかどうかは分からない。

日記には、しんどい、腰が痛い、○○が痛い、寒い、暑い、早くよくならなければ情けないという言葉が並びそれから、周囲への感謝の言葉がたくさんあった。

なんだか辛くて、読み進められなかった。

一つは、歳を取って、いろいろと身体の機能が落ちていくのは、仕方がないことなのに、それが情けないことで、治さなければいけないことだと書いていること。

もう一つは、働き者の祖母に仕事がなかったこと。実家に来たばかりのときは、食事を作っていたようだ。でも、火の始末がちゃんとしていないことがあったらしく、危ないからと食事作りをさせないようにしたと、実家の父から聞いている。

「仕事がない」ということは、身体の機能が衰えた自分は、役立たずの厄介者でしかない。皆に迷惑をかけている、ということが、日記を読むと、ありありと伝わってくる。読んでいると本当に悲しい。

95歳まで生きたし、施設にも病院にも入らずに亡くなったのだから、幸せな最期だったと言われるのかもしれない。実家もいろいろと私には見えない苦労があったと思うし、祖母の思い込みもあったと思う。

それにしても、悲しすぎる。人生の終わりは、悲しいものと決まっているのだろうか?


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私は姑の家に行ったら、言われなければ動かない出来の悪い常駐のヘルパーか、居候になろうと思う。色々と思うところはあるけれど、家の中もできるだけ触らないようにするつもりだ。

できることは、今までどおりやってもらい、無理だと思うことは私に言いつけてもらう。その判断も姑にやってもらう。

姑が仕事ができなくなったら、またその時はその時で考えよう。


薬はね・・・。12剤の多剤処方。看取りをしてもらうことになるであろう近所の医師の処方。これ以外にも、手術をした病院で薬をもらっている。この近所のかかりつけ医に、12剤は多すぎませんか?と言ってみたけれど、「これだけ飲んでいるから”数値が維持できている”」と。何年も飲んでいて、とりあえず、自分のことはほぼ全部やっているから、変に介入しないほうがいいのかとも。

どうするかな~

たとえ、別れるのは悲しいとしても、人生の終わりは笑顔で終わってもらいたいと思う。


(タイトル画像:ばあちゃんの幸せレシピ | 40 creations より)


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