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お盆の日に

今、家族は住むところがバラバラ。明確な反枠は私一人。消極的反枠はいるが、オカンはヤバいと思っていることは共通しているようだ。ヤバいというのは、人づきあいがほとんどないから。だから、インボー論にはまるんだ、ということらしい。

お金を稼ぐ=社会に出ていると胸を張るが、そんなに広い世界だろうかと、専業主婦のママ友が言っていた。とは言え、子どもが友達と遊んでいたら安心し、一人で何やらゲームでもしていれば心配したのは私だ。

どの動画だったか、めいこさんは「私は仲間がほしいのではなくて、同志がほしい!」と言っていたと思う。私は、どちらも特に欲しくもないかもしれない。濃度は様々だけれど、同じような考えの人が何人もいるのは分かっている。それぞれの場所でできることをしていることが垣間見えるから、特に寂しくもない。色々気を遣って話さなければならないのであれば、リアル界で話せる人はいないほうがむしろいい。


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ブログにしろ、noteにしろ、ほぼ毎日書いてきた。日によっては、ブログを1日2回書くこともあった。ここ何日かは止めていた。書けないこともなかったが、HEAVENESEのマレさんの『BibleReality』の過去の配信を聴くほうを優先させたかったからだ。過去の配信から順番に聴くようにと言われていて、早く追いつきたいというのもあるが、とにかく面白いから、時間のある限り、聴いていた。

理由は大きいところで二つ。

一つは私の不思議体験の説明をしてくれるからだ。もちろん、私個人に当てはめた話が繰り広げられるのではない。不思議体験があって、生きるのはとても楽になった。でも、苦しみが増えたし、その苦しみの内容が明らかに変わった。近所の教会の日曜学校にも行ってみたが、私が求めていたものでもなかった。今も昔も、おそらくこれからも、クリスチャンにはならない私が求めているものは、信仰ではなく説明

もう一つは、歴史、現代の状況について、不思議に思ってきたことに対して、つじつまの合う説明だからだ。

「それ、ホント?」と思うことも、時が経てば分かってくるものだ。例えば、「発達障害」。関連する本が家に20冊以上あった。特に、教育方面からのアプローチだ。大学で講義を受けたこともあるし、講演などにも出かけていった。だから、「発達障害と言われる状態があっても、発達障害はない」という話を最初に聞いたときには、「そんなことない!」と言った。が、1年後、「おっしゃるとおりでした」となった。自分が労力をかけ、お金をかけてきた考え方をひっくり返すことは難しい。でも、私は、「発達障害はない」という意見を聞いたとき、反発はしても、却下をしなかった。「発達障害」について勉強しているうちに、つじつまが合わなくなっていたからだ。

話が逸れたが、海外でミュージアムガイドのボランティアをしたり、地歴・公民の教員など、なんだかんだと歴史に広く浅く付き合ってきた。勉強したり調べているうちに、つじつまが合わない、偏っていると思うことはいくつもあった。一番最初におかしいと思ったのは中学生のとき。「新大陸発見」というタイトルだ。今は「新航路発見」になっているが。そこに人が住んでいるのに、どうして「発見」なのか。後に、日本で学ばせる歴史は、ヨーロッパ史観で書かれていることを知った。それでもなお、つじつまが合わない、偏っていると思う大きな疑問の一つは、キリスト教の扱いだ。「キリスト教が嫌い」というのは、それもある。マレさんの話は、それに対する驚くような説明だった。「驚く」と「つじつまが合う」が併存しているから、今は「保留」だけれど。

おまけとしては、マレさんが牧師なのに(?)、超保守(と言っていいのか分からないが)の理由にも興味がある。

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「宗教」の意味をコトバンクで調べると、もう、ええわ!というくらいの説明がある。https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E6%95%99-76838 

そこから部分的に引用してみる。

ラテン語の relegere (再読する) ,または religare (つなぐ) に由来するとされている。日本語の「宗教」は古くから漢訳仏典にあったものを,明治に religionの公式訳語として採用して以来広まったもの。一般的にいえば,宗教とは,人と自分の神聖とみなすものとの関係をさし,神 godはその人格的または超人間的な象徴にすぎない。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

読み取れるのは、「宗教」という言葉は、明治時代の翻訳語のひとつであり、”religion”の訳語である。 relegere (再読する) ,または religare (つなぐ)は、日本人の感覚とは異なるものだと思う。そこに、 もともとは漢訳の仏典の言葉をあてはめた。

ちなみに、「宗」は、もともとは、先祖をまつる祭壇のことを表わしていた。

無題1


学術用語としての宗教の定義は学者の数だけあるといわれ、統一した見解があるわけではない。(「コトバンク『知恵蔵』より)

人によって、思い浮かべる「宗教」という言葉の範囲は違っても、一般的には、「宗教とは,人と自分の神聖とみなすものとの関係をさし,神 godはその人格的または超人間的な象徴」あたりなのだろう。それぞれの宗教にそういう共通性があるとしても、それだけではなく、他の要素も当然あって、もしかすればそちらが中心になっているかもしれない。

世界三大宗教と言えば、キリスト教、イスラーム、仏教だ。このうち私たちに一番身近なのは仏教。仏教は、哲学だというのは、わりとよく知られている。もちろん、日本では統治のために使われたし、”宗教”だから、現世利益を求める部分はある。

イスラームについて、何か言えるほど詳しくはないけれど、一般向けの本を20冊くらい読んだ。面白いと思ったことが、クルアン(コーラン)に、ウンマ(イスラームの共同体)の中での、人間関係を円滑にするためのルールが書かれていることだ。

じゃあ、キリスト教って何?と言われたら、「無償の神の愛」とか、「イエスが神の子」という話がまず来る。それから、侵略とセットで布教されたということだ。嫌な思いをした病院、医者がキリスト教系だった。いいことも言っているとは思うが、自分たちが正しいと信じていることを、他人、他の文化に押しつけてくるというイメージだ。それが、結果として、他地域を侵略することが正義であり、医療は絶対に正しいという奢りに繋がると感じる。正義も奢りも大嫌いだ。そのあたりで、もうたくさん!となって、信仰以外の部分は知らないし、知ろうともしなかった。

だけど、「聖書」は面白そうだ。

と言って、すみずみまで読もうという気は、今のところあまりない。マレさんの話を聞いた範囲と、自分の経験したことを重ね合わせると、この先、私自身は助かる可能性があると思う。だけど、私より、助かってほしいのは生んだ子たちだ。マレさんの話と自分の体験から言えば、子どもは助からない位置にいる。

イエスや聖書を信じても、キリスト教に現世利益を求める気はない。助けてほしいと祈る神頼み先は、ご先祖さまのように思う。夫の姓である○○は、先祖が守ってくれる姓なんだそうだ。「宗」は先祖をまつる祭壇。私たちが先祖をまつる祭壇(仏壇)を守れば、その後継者である私が生んだ子たちは、○○の先祖が守ろうとするはずだ。

若いとき、子どもをぞろぞろ連れて夫の実家に帰省するのは、本当に憂鬱だった。わが家にいる若者の「うだうだ計画」につきあっているうちに、帰りそびれてしまった。

お盆。やっぱり帰るべきだったと思った。

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