見出し画像

論破

だが、この「論破」という概念は非常に不思議な概念で、「相手がこちらの論を理解してくれないと、相手の論を破ることができないため、論破できない」のである。

つまり、相手が自分の論を理解してくれるだけの知性を持ち合わせており、かつそれを聞き入れてくれる、というのが前提なのである。そうでない場合、物理的に「論破」できない。

「議論に強い」とされる人の議論をよく見ていると、その人に高い知性があるというよりは、ただ単に詭弁によって議論の方向性をずらしたり相手の論を認めなかったりして、「論破されないように」していることが多いのでは、と思った。

「頭の悪い人は、論破すらされない」より


思わず、家庭科の免許を取ったときの講義を思い出した。先生は、「多様性が大事、多様な家族形態を認めなければいけない」と言う。だから、遊び人のあきおさんはよい。でも、専業主婦のみちこさん”だけ”はダメだと言う。「子育ては大事な仕事だから、そこに重点をおいた生き方を選択する人がいてもいいのではないのですか?」と言うと、ちょっと考えてから「今時、共働きじゃなくてはやっていけない社会です。専業主婦は贅沢品です!」とドヤ顔された。専業主婦という生き方がなぜダメなのかという理由になっていない。

「それに、そういう方向に持っていったのは、あなたたちでしょ?よりよい社会にするには、多様な考え方が大事だとか、議論が大事って、さっき言っていたじゃない?」と思ったけれど、わざわざ東京まで来て宿泊費もかけての講義で、単位をいただかないわけにはいかない。だからそれ以上の反論はしなかった。

その後も、色々とまくし立てていたが、私は黙っていた。一通りしゃべり終えると、「よし!」と小さな雄叫びをあげて、ガッツポーズをしたのを私は見逃さなかった。私を「論破できた」と思ったのだろう。納得どころか、苦笑していたのだけれど。でもね、あれだけがんばっていたのは、私がけっこう手強いって思ったのかもしれない。だから、ガッツポーズなのか?

その後、私が発言すれば、ため息をつかれるし、にらまれるし。

成績は60点だった。できはともあれ、無遅刻無欠席、言われた課題は誠実にやって、全部出したのに。

あちこちで学生をやってきたけれど、60点なんて取ったことがない。本当は単位なんて出したくなかったのだろうけれど、講義代、交通費、宿泊代をかけているから、苦情が来たらめんどくさいと思ったのだろう。その妥協点が60点だったというわけだ。あまりにも分かりやすくて、記憶に残る点数だ。私なら、63点くらいをつけておくけどね。


特に、立場の弱い者が強気な発言をすると、地位を剥奪されたり、なんらかの不利益を負わされたりするので、全くフェアではない。議論は、もともと立場の強い者が圧倒的に有利であるようにできているのだ。

「頭の悪い人は、論破すらされない」より

まさにそう!

肩書きもなく、地位もなく、「それだけはダメだ」と存在を否定される専業主婦に、議論する場などあるわけがないってこと!

そんな私に知性があるかどうかは別として、自分と違う意見に出会ったら、とりあえず、保留にする。

そうするきっかけになったのは「発達障害」という名称だった。専門家ではなかったが、それなりにお金も時間もかけてきたから、「発達障害と言われる状態はあっても、発達障害はない」と言われたときに、思わず「そんなことない!」と否定した。でも、一年後、おっしゃるとおりでした、となった。

たぶん、本当に知性のある人は、私のように脊髄反射のごとく「そんなことはない!」なんて言わないのだろう。それでも、この一つ目を超えてから、私の反応も「え~、そうなの?」となった。少しは知性のある人に近づいたのかもしれない。

今回の茶番はその連続。ひっくり返ることが多すぎて、それが一種の快感になってしまうくらいだった。去年などは、中毒だったかもしれない。


人にはそれぞれストーリーがあって、それに沿わないことを言うと喧嘩になる。それはいやというほど知っている。どうしてもその人と行動をともにしなければいけないときは、その人のストーリーに合わせた行動をする。でも、私のストーリーに合わせる人は誰もいない。合わせてくれるのは、お店の人くらい。当然、疲れるので一人でいるのが好きになるというわけだ。

現実世界で面と向って議論することはもうないと思う。あの家庭科の講義でよく分かった。私がマイノリティで立場が弱い限り、相手のストーリーに合わせた言動が求められるのであって、当然、フェアな議論なんてあり得ないということが。それを越えてまで欲しいものも、もうない。

現実世界での議論はなくなっても、本やネットを見ていると、私がもっているものと違う考えに出くわすことはよくある。その時点では納得できなくても、必ず答え合わせの時が来るのを知っているから、それまで、却下せずに頭の中のデスクトップに貼っておく。



「賢くなりたい!」という長年の夢は潰えたから、今は特に知的になりたいとは思わない。

でも、この国の宝を守るために、周囲の人や世間様とどうつきあうのが効果的なのか、私は何をすればいいのかを知っていく必要がある。個人的好奇心よりも、その思いのほうが最近は強い。動機が変わっても、やっぱり知的水準を上げ続けなければいけないということになる。ということは、異なる意見とドンドン出会わなければいけない。

あ、でも思考停止の意見は、さんざん聞かされてきたからもう要らないから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?