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司馬遼太郎の洗脳


日本人は、司馬遼太郎を通じてかけられた歴史上の最大の洗脳「明治維新」からいつ目覚めるのだろうか。

テレビ洗脳、その呪縛を解く【田んぼの草刈り作業から思うこと】



本が好きだと言っても、小説はあまり読んでいない。特に長編は読んでいない。読んでも、上・中・下までが限界。年を取って暇を持て余すようになったり、入院したら(医療のウソを知らなかったころ)、司馬遼太郎を読もうと思っていた。

今は読もうと思わない。


司馬遼太郎の歴史観が正当になっているけれど、本当にそうなのか。英雄とされる坂本龍馬はどこから資金を得ていたのだろう?


随分前だけれど、NHKで司馬遼太郎のことを取り上げていた。彼は軍国少年だった。戦争に負けてからあの戦争は何だったのだろうと思ったのが、歴史小説を書く原動力になったと言っていた。戦国時代から書き始めて、明治、大正まで来たけれど、昭和だけはどうしても書けなかったと。この話を思い出して、司馬遼太郎は自虐的歴史観を持っている人だったと思った。

だから読みたくない。自虐的歴史観に基づく歴史はもうたくさんだ。


この茶番でありがたいのは、司馬遼太郎史観に限らず、今までヘンだなと思っていたことが「実はこういうことでした」と解き明かされたことだ


でも、困ったこともある。多くの知識人と言われている人がポンコツだということが分かってしまったから。だから、読みたい本がなかなかなくて、書店は心躍る空間ではなくなった。


いや、読みたい本がないことは、困ったことでもないのかもしれない。ガンディの言う「真理」を知ろうとすれば、本以外のものから多くを学ばなければいけないだろうから。


聖書なんてまともに読んだことがなかった素人の私が言うのもナンだけれど、クリスチャンだと言っている人も、案外ちゃんと読んでいないことが分かってきた。カトリックが生み出すイメージをそのまま信じている人も多いのかなと。それと同じように、司馬遼太郎が作り出したイメージをそのまま歴史として受け止めている人は多いのだろう。


何が本当だったのかは、なかなか分からないし、見る人、見る角度でも変わる。結局、自分の中にストンと落ちることを採用することになる。と言っても、採用したこともまた変わるかもしれない。


一つ言えるのは、教科書に書いてあることが腑に落ちなかったら、その違和感を却下しないことだ。


考えてみれば、中二のときに教科書にあった「新大陸”発見”」違和感があったことが最初だ。人が住んでいたのに”発見”っておかしいと思った。この違和感を却下しなかった延長線上に今がある。世間的にはヨロシクナイことだと思うけれど。

この茶番では、大変な目に遭っている人がいる一方で、懐が温かくなった人もいる。分かってやっているなら、罪深い。でも、多くの人は、病原体が悪いのであって、自分は悪くないと思っているだろう。

私もこの茶番で色々なことを知ることができて、恩恵を被っている。でも知っていて罪を犯しているのでもなく、無知の罪を犯しているのでもない。


今、社会的落伍者で良かったと心から感謝している。




タイトル画像:司馬遼太郎「人間というもの」 – いいため話 (goodstory.biz)


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