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#476 研究授業について思っていることを雑多に

2023.11.18.
以前勤務していた学校の、学芸的行事にお邪魔してきた。演技や作品を楽しみつつも、一番感じたのは先生たちの力だ。舞台裏の様子をまとめてメイキングムービーにできるのであれば、子供や保護者に見せたい。君たちの先生はこれだけのことに心を砕いて、時間をかけて、趣向を凝らして行事を作り上げているんだよと。みんなは幸せ者だねと。


えー、それについて詳しく書くと色々個人情報に関わりそうなので、今日は研究授業について思っていることをただただ書き連ねようと思う。

いろんなことを考えては頭の中の引き出しにしまっていて、まとまった考えは特になく、取り留めも無い感じなのだが…
どれか共感することやご意見あらばぜひ教えていただきたい。


★研究はやめた方がいい?

この人員不足でひいひい言っている状況の中、「研究の負荷が大きすぎる。今そんなことやってる場合かい。まずは研究から無くせばいいのでは?」という声をリアルでもSNS上でもよく聞く。

のだが、私自身はそんな風には思えない。

恐らく、みんなが無くせばいいと言っているのは、やらされ感満載の研究授業とか、指導案を重箱の隅つつくみたいに直されるとか、体裁を整えるためだけの教具作りとか、そう言ったことを指しているんじゃないか。

授業について考えて、話し合って、試してみたりより良いものにしようとしたり…って大事なことよね。これを…もっと軽くできたらいいのに。


★研究、結構嫌われ者

8年目の分掌は研究主任だった。年度末に出席した研究主任研で、何校かが研究成果の発表をしていた。どの学校も素晴らしい実践と発表だった。
周りの先生とのトークタイムで、「校内で、研究って業務を圧迫する嫌われ者と思われがちですよね〜」という話で盛り上がった。
ふと、発表をした学校の先生にアンケートを取りたくなった。「この研究は、ぶっちゃけ自分のためになったと思いますか?」と聞いたら、どのくらいの人が肯定的に答えるだろうか。逆に、この発表に向けて色々準備するものが増えて、大変だったりしなかったのだろうか。

先生は、子供のやる気に火をつける人であれ。
と言うのであれば、
研究主任は、教員の研究やる気に火をつける人であれ。
ということよね。

こうしましょうという道を整えるより、やりたいな(それも難しいかな…やってみるか、くらい)という気持ちにさせることがきっと必要なんだと思う。


★とある講師の先生に共感

ある年、ICTの研究をすることになり、新しい講師の先生がいらっしゃった。その方は、最初の研修で先生たちの授業を見てそれぞれにコメントをし、その後に研究の持ち方について話されていた。

エースがドーンと素晴らしい授業をするような打ち上げ花火のような研究ではなく、全員がちょっとずつ頑張って、ちょっとずつ明日の授業のためになるような、やって良かったと思えるような研究にしたらどうか、という話だった。

それまで「研究とはこういうもんだ」と、先輩たちの歩んできたところをそのままついてきた超若手の自分にとっては新鮮な話だった。首がもげそうなくらいうなずいてしまった。


★指導案が古文書すぎる

指導案って、なんであんなに血が通っていないお堅い文章なんだろう…と、私は思う。誰かの指導案を読むとき、私には解読というか翻訳のような行程が必要になる。そのままの文章では難しすぎて頭に入ってこないのだ。私でこうなのだから、もっと若手で本を読むのそんなに好きじゃないみたいな人にとっては恐らく古文書。

イラスト入りとか漫画バージョンとかダメかしら。プレゼンではA4・1枚で提案しろとかいうのが流行ったりしたけれど、そのくらいのシンプルさとかはどうだろう。吹き出しで、指導者の心の声ダダ漏れバージョンとか。

あの形式のままであれば、せめて作った人の説明が欲しいよね。どういう思いで作ったのか、どこがポイントか。ゼロから解読するには時間がかかりすぎる。


★研究授業で普段しないことをしたくない

特殊な教材を作る、板書の時間を削るためにあらかじめ書いておいたものを貼る…個人的にやりたくないと思っている。過度に教室の掃除しないとかは思わないけれど(それより普段からちゃんと掃除しよっ)、とにかくやるやらないの基準は「それ、普段の授業でもするか?」ということだ。

普段やらないなら、研究授業でもやらない。研究授業でやるなら、普段からやる。私の謎ポリシー。

ちなみに学校公開の授業でも結構同じことを考えている。魅せ方も技のうちなのにねえ…。


★こんな研究授業をしたい

以前の記事で紹介した、葛原祥太先生の「衝撃の研究授業を見た」という話。

話の中に出てくる先生は、己の想いをもって、そこまでの土台をしっかりと作った上で、普通であれば「いや〜、そのやり方どうなの?」と言われるような授業をしたのだ。これぞ主体性。

良い研究授業って、そこからみんなの意見がたくさん出てくるような授業じゃないだろうか。

そう思うのに、私はどこか保守的で、そんなものありはしないのに「正解の授業」に近づけよう近づけようとしてしまう傾向がある。できるだけ指摘されないように。できるだけお褒めの言葉をもらえるように。

そんなもん、本当にどうでもいいのに!!!

私はこう思ってこんな授業してみたけれど、見ていてどうだった?それだったらこんな風にしてみた方がいいんじゃない?いや、こういう手もあるな。これってあの授業にも応用できる?…協議会でそんな発言が若手からもベテランからも出てきたら激アツ。

知り合いの学校には研究授業ならぬ「提案授業」というものがあるらしい。そうそう、そういう感じ。


★こんな研究授業、どうだろう?

この間ぐーめーちゃんと話していたことなのだが、「みんなに好かれようとして書いたラブレターより、1人のために書いたラブレターの方が胸を熱くし、結果的にみんなにも響く」という理論。
まあそれは例えで、結局は全方向に向けて作られた授業ってあんまり面白くないよねと。「今回は、あの子だけのために授業を考えてみました!」みたいなのはどうかと。

以前のててて商店街の記事で、ユニバーサルデザインとインクルーシブデザインの話を書いた。

◆ユニバーサルデザイン
すべての人が使いやすい商品やサービスを目的としている。汎用性の高いデザインをデザイナーが考案する。
◆インクルーシブデザイン
年齢、身体の特徴や障害、言葉の違いといった「特定の制約のある人」を明確なターゲットに設定する。ターゲットの意見を反映させてデザインする

ということで、あの子へのラブレターのような、インクルーシブデザインの研究授業とかどうよ。ん?もしかしてこういうことをインクルーシブ教育というのか?

誰かのための授業が、結局みんなにとってもいい授業になる…なーんてできたらすごく素敵。



ふう。色々と吐き出した。

先に言っていた通り特にまとめはないのだが、研究がみんなにとって意味のある活動になっていくといい…というのが、根本的な願いである。

良い方向性に向かうためには、やっぱり普段から授業のこと話したり、ちょっとお互いの教室覗いたり、そういうことが気軽にできる環境作りなんだろうなあ。



#教員エッセイ
#研究について熱く語る
#理想と現実

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