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『ライ麦畑でつかまえて』の巧みな伏線

『ライ麦畑でつかまえて』という本があります。著者はJ.D.サリンジャー。1960年代から80年代くらいの若者に大きな影響を与え、ジョン・レノンを射殺したチャップマンが、犯行時に携えていたということでも知られています。

 有名な本なので、読んだことがある人も多いと思いますが、あまりピンとこなかったという話もしばしば耳にします。この物語、ストーリー的なものがあまりないので、展開のおもしろさを期待すると肩すかしをくらい、どこがおもしろいのかわからないということになるのかもしれません。その昔、芥川龍之介と谷崎潤一郎とのあいだで交わされた「筋のない話」の是非についての論争というのがありましたが、「筋のない話」こそ純粋で芸術的だとする芥川タイプではなく、谷崎のようにストーリーの構成におもしろさを見出すタイプの読み手でしたら、『ライ麦畑』がもの足りなく感じるのもわかる気がします。

 どんな話か簡単に述べると、成績不良で高校を放校処分にされた主人公ホールデン・コールフィールドが、実家に戻るに戻れず、冬のニューヨークをさまようという話です。確かに、こんなふうに要約するとパッとしない話ですね。でも、ディテールのつながりを読み取ることができると、この作品は実に巧みに、ホールデンの繊細な内的世界を叙述していることに気づかされます。その山場は、タイトルにもなっているライ麦畑にまつわる空想をホールデンが語るところなのですが、今回はその手前のところ、ライ麦畑の空想を支える「伏線」についてみてましょう。

 それは物語の真ん中あたり、いろいろなことがあって気持ちが滅入っていたホールデンは、妹のためにレコードを買おうと思いブロードウェイを歩いています。そこでたまたま、6歳くらいの男の子とその両親を見かけます。両親は何か話しながら、子どものことを見ていません。子どもは歩道と車道の境の縁石を伝い歩きながら、「ライ麦畑でつかまえて」の歌を口ずさんでいます。そしてそのすぐ脇を、車がスピードを出して通り過ぎていきます。そのような情景が、他のたくさんのエピソードに紛れてさらりと差しはさまれています。たぶん、ホールデンもあまり意識することなく何気なく目にした街の様子の一つという位置づけなのでしょう。

 でも、これが物語の後半、妹との対話の中でライ麦畑の空想的なイメージを語る段になって生きてきます。といっても、そうした説明めいた叙述があるわけではありません。初めて読む読者は、このエピソードが書かれていたことすら忘れてしまっているかもしれません。でもタイトルになっている語句が出てきているので、あれ?と思ったはずです。ただ、このシーンがタイトルとどうつながっているのか、この時点ではよくわかりません。

 先走ってわたしの理解を述べると、ホールデンはおそらく無意識で、この無邪気な6歳くらいの子どもに、自分を重ねて見ていたのでしょう。今にも車道側に転げ落ちそうになっているのに、両親は見ようともしない。そのような境遇の子どもを目にしたことがもとになって、「ライ麦畑のつかまえ役」になりたいという空想的なイメージが語られることになります。それについては、次回、お話ししたいと思います。

 人のイメージは、こんなふうに日常のささいな出来事から刺激を受けて作り出されるものなのだと思います。それを伏線として、ごくさりげなく、驚くほど巧みに描いているサリンジャーの洒脱さには、ただただ感心するばかりです。


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