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「自ら(みずから)」と「自ずから(おのずから)」

 前の記事で、昔ばなし「味噌かい橋」を素材に、意識と無意識の関係について書きました。それに関連して、今回は「自分」ということばに含まれる「自」という文字から、意識と無意識の関係について考えてみたいと思います。

 「自」という文字を訓読みにすると、「自ら(みずから)」と「自ずから(おのずから)」という、二通りの読み方があります。似たような意味ですが、ちょっと違います。「自ら(みずから)」は自分が主体となって、というニュアンスがあるのに対して、「自ずから(おのずから)」は自分を超えた自然とか摂理といった大きな流れによって、というニュアンスがあります。

 意識と無意識という観点からみると、「自ら(みずから)」の場合は、より意識的な考えにもとづいて判断したり行動したりという点で、意識と関連がありそうです。一方、「自ずから(おのずから)」の方は自然とか摂理のような自分を超えた大きなものというふうにとらえると、自分はそこに含まれていないようにも感じられます。しかしながら、人間も動物の一種であり、その意味では自然が生み出し、自然の一部であるととらえたうえで、無意識というものを、意識を超えた自分の中にある自然の摂理(本能のようなものでしょうか)というふうに解釈するなら、無意識と関連があると言えそうです。

 ちょっとここで脇道に逸れて、ユングの心理学を少しだけ参照したいと思います。ユングという人は、精神分析の創始者フロイトより20歳くらい若い精神医学者ですが、それぞれ人間のこころを研究するなかで、無意識の働きに注目していました。フロイトの著書をユングが読んだことをきっかけに、二人は意気投合するのですが、無意識についての見解にズレが生じて、結局別々の道を歩みます。

 フロイトが考えていた無意識は、意識すると苦痛な感情や記憶、あるいは性衝動や攻撃衝動のようなコントロールするべきものでしたが、ユングがか考えていた無意識はそれよりももっと広大なもので、意識的に作り上げた自我というまとまり(言い方を変えると「自分」)に収まらない、自分を超えた働きがあり、ユングはそれを自己と呼びました。自我はとくに人生の前半において社会に適応するために形成されますが、人それぞれが幼いころに作り上げた小さくまとまった自我は、年齢を重ねるうちに窮屈になるので、蛇やカニが脱皮するように、より伸びやかで広がりのあるものへ作り変えていかねばなりません。ユングは人生の後半におけるそうした課題を、個性化の過程としてとらえ、その際、自我を超えた自己の働きを重視しました。

 ユングの自己という概念を参照すると、「自ずから(おのずから)」という読み方が、無意識的な自己の導きという意味合いでとらえやすくなると思います。「自」ということばに含まれるこれら二つのあり方を、意識と無意識という視点で眺めてみると、どちらも大事であることが感じられてきます。


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