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「ライ麦畑のつかまえ役」という突飛な空想

 前回、『ライ麦畑でつかまえて』の伏線についてお話ししました。今回は物語の山場、主人公ホールデンが妹フィービーと対話する中で語る「ライ麦畑のつかまえ役」について書いてみたいと思います。

 高校を放校処分になり寮を後にしたホールデンは、両親には顔を合わせづらいものの、よき理解者である妹のフィービーに会うため、夜中、実家にこっそりと帰ってきます。幸い両親はパーティに出かけていたため、フィービーと話すことができるのですが、クリスマス休暇よりも早く帰ってきたことで、勘のはたらくフィービーに放校処分になったことを見抜かれてしまいます。世の中のいろんなことが気に入らないために居場所を見つけられない兄の問題をするどく突き、好きなもの(なりたいもの)があるなら言ってみて、とフィービーに尋ねられたホールデンは、いろいろ考えたあげく、突飛な空想を語ります。

 その空想というのは、崖の上に広がるライ麦畑にたくさんの子どもたちが遊んでいる情景です。そして、遊びに夢中になっている子どもが崖のふちから飛び出してしまいそうになったとき、どこからともなく現れてその子をつかまえる。そういうのになりたいとホールデンは答えます。

 いささか突拍子もないイメージですが、そのもとになっているのは、前回書いたように、昼間見かけた縁石の上を危なっかしく歩く子どもの姿なのでしょう。ホールデン自身、何度目かの放校処分で、大半の生徒が歩むルートから転げ落ちそうになっているわけですが、彼は役割を転換し、落ちそうになっている子どもをつかまえる側にまわっています(ここには、ホールデンが貸したセーターを着て窓から飛び降りた別の生徒のことが共鳴しているのですが、話がややこしくなるので触れません)。

 ここで興味深いのは、崖から子どもが落ちそうになったらつかまえるという、その発想です。いかにも非効率的で、つかまえ損ねてしまうんじゃないかという気もします。それよりも、そんな危なっかしい崖があるなら柵を作ればいいじゃないか、あるいは、そもそもそんなところで遊ばせなければいい。そんなふうに考えるのが常識的な発想だと思います。でもそうではなくて、子どもが落ちそうになったらその子をつかまえる、というのです。この違いはけっこう大きいんじゃないかと思います。

 安全のために柵を作る。それは言うまでもなく大事なことです。ただ、柵を作ることで、飛び出そうになる子のことを見ていなくても済むということになると、それは問題なんじゃないかというふうにも思います。昼間見かけた縁石の上を歩いている子どもの両親も、子どものことを見ていませんでした。ホールデンがこっそり帰ってきたとき、両親はパーティに出かけていました。ホールデンのイメージの中の「つかまえ役」という役割は、飛び出てくる子どもをしっかり見ていなければなりません。それって、社会から転げ落ちそうになっているホールデン自身が求めていることなんじゃないか、そんなふうにも感じられます。

 ただし、ことはそれほど単純ではありません。ここでサリンジャーの描く巧みなディテールに、もうひとつ、歌詞の覚え違いという要素が加わります。それについては、また次回にお話ししたいと思います。

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