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少年大殺界(短編小説)

 


 間違えたくない。
 とくに人間関係については間違えたくない。人間って影響も価値もひとりひとり大きいから、誰と関わるか、誰と仲を続けられるかって結構大事だ。私はまだ高校二年生だけど、人並みに人間関係をやってきたからわかっている。
 ゆえに私は嫌な噂のある人間とは関わりたくない。異性関係がだらしない人も嫌だ……影響を受けて私の倫理観がゆっくりずらされたら最悪だ。まず関わり合いにならないほうがいい人間っているのだ。これは差別じゃなくて自衛だと思う。
 だから。
 だから私は絶対に、中学時代に六人の成人女性と付き合っていたうえに、卒業前に六人とも亡くした、なんて荒唐無稽な経歴を持つ男の子となんて――関わり合いになりたくない。
 なりたくなかったのに。
「花色ー、握手くらいしてあげなさいよ。これから一緒に暮らすっていうのに、霧奇くん、可哀想でしょ」
「聞いてない!」
 そんな経歴を持つ高校一年生の男の子、秋村霧奇が私とお義母さんの家に住むなんて信じられない。最近父のいた部屋を片付け始めたからなんだなんだとは思っていたけれど。
 因果はある。秋村霧奇は《お義母さんが最初に結婚した人》の連れ子で、小学二年生くらいまで一緒だったけど離婚して、ひとりになったお義母さんは小学三年生の私を連れた《私の父親》と結婚したけれど《私の父親》は三年前に亡くなってしまった。
 そしてつい最近、《最初に結婚した人》が亡くなって、先述のわけのわからないアンタッチャブルなエピソードを持つ秋村霧奇の扱いに秋村家の親戚も困ったようで、それを知ったお義母さんが「養育費くれるならうちで引き取りますよ~」と言ったらしい。
 お義母さんは《最初に結婚した人》の妻として親戚一同の集まりに関わったときがっつり恩を売り信頼を得ておいたらしくて、
「人に好かれると色んなことあって人生が面白いねえ」
 と笑っているが、私は全然面白くない……。《私の父親》の使っていた部屋が余っているから秋村霧奇の部屋こそあるが、私の部屋とまあまあ近い。高校生の男女がひとつ屋根の下にいるのって問題じゃないの? とか色々と困っている私の横で秋村霧奇とお義母さんが、
「霧奇くんごめんねえ、花色って真面目な子だから。花色のお父さん似なんだろうね。でも悪い子じゃないから仲よくしてあげてね」
「最初は打ち解けられないものだとは思っていましたから気にしていません。それに俺は真面目な人のほうが嬉しいです。義母さん、これからよろしくお願いします」
「ふふ、本当の親だと思って頼ってね。小二まで一緒だったし。愛してるよ」
 とかなんとかやりとりをしていて、何を平和ぶっているんだよという気持ちになる。
 愛してるじゃねえよ。
「花色そろそろ機嫌直しな? 高校も一緒なんだから」
「はあ?」
「霧奇くんも恋川高校に通うんだよ? そのほうが便利でしょ何かと」
 高校を卒業したら独り暮らしをしたいなと思った。この義母と早めに関わりを絶ちたい。もちろん秋村霧奇とも。
 まだ高校二年生のゴールデンウイーク最終日だけれど、おかげで将来の見通しが少しできたよ。ありがとう。
 
 
 一緒に登校するなんて御免だったので早々に家を出るつもりだったけれど、早く起きれたら嬉しいってときに限っていつもの時間に起きてしまうのが私で、結局ふたりでバスに乗って恋川駅まで行くことになる。最悪。
「花色さん」
「ファミリーネームで呼ばないで秋村霧奇」
「フルネームで呼んだほうがいいですか? 佐納花色さん」
「指示を間違えたね。ごめんね。話しかけないで」
 学校で話しかけられたらたまったものじゃないから邪険に振る舞っておく。でも秋村霧奇は動じることもなく、バッグから文庫本を取り出し、片手で読む。私は表紙を見て背筋を冷やしながら文庫本をひったくる。
「ちょっと! 私の本棚から勝手にとってくなんて最低!」
「え?」秋村霧奇はきょとんとした表情だ。「俺が普通に持ってきた本なんだけど……」
「はあ? だって……あれ」ためつすがめつして気づく。私の本棚にあるものより文字が大きいし、状態が綺麗だ。奥付を確認すると、刷数も多い。「……本当に?」
「はい。駅の売店で見かけて、暇つぶしにいいかと。『くちびるから青色が漏れる』っていいタイトルだし」
 私は早とちりが恥ずかしくなって、なんとも言えないままそっと文庫本を返した。秋村霧奇は、とくに謝れとも言わずに丁寧に受け取った。
「……面白い?」
「面白いですよ。教科書で読む短編小説とはまた雰囲気が違うっていうか……書き表す手つきが大胆なのに精緻な感じでいいですね。木倉昨日子さんは他の長編もこういう感じですか?」
「……色んな話、書いてるよ。でも物事への手つきは一貫してるから、そういうところが好きならハマれると思う」
「そっか、よかった。今度よかったら借りても?」
「よ……く……ない、から貸さない。勝手に買ってて。……会話終わり」
 危ない危ない。木倉昨日子先生の作品を読んでいる男子なんて初めて見たから話しすぎてしまった。秋村霧奇はまだ警戒対象だ。
 だいたい、六股してた過去のある男子が木倉先生の作品をちゃんと理解できるわけないんだ。そうだ。価値なんてないない。
 私も『くちびるから青色が漏れる』を読んで初めて本格的に興味を持ったタイプだけど、だからなんだって言うんだ。
 こちらが黙っていると秋村霧奇も黙って読書を再開する。興味のないフリをしているうちにバスが恋川駅に着く。
「私は友達と行くから。秋村霧奇は独りで先に行って」
「わかりました」
 と秋村霧奇は私を置いて歩いていく。物分かりはいいようだな……と思っていたら、すぐに後ろから、
「うっす花ちゃん。いまの彼氏?」
 なんていふちゃんに言われてしまう。後志威風だからいふちゃん。高校一年生のときから友達。
「やめてよいふちゃん! そんなんじゃない」
「うわ強い否定。花ちゃんじゃなければ強く否定するなんて怪しい~とか言っても許されたのに」
「どこの誰に対しても許す許さないの判断が要るコミュニケーションを強いないで」
「はいはい。で、彼氏じゃないなら何?」
「それは……」
「花色さーん! どっち行けばいいのかわからないです」
「名前呼びされてんじゃん」
 ふざけるな。
 というわけで、秋村霧奇に道案内をしつつ不本意ながらいふちゃんに紹介する。昨日から血の繋がらない姉弟のようなものとして一緒に暮らすことになった、私は仲よくする気がない、と。
「後志先輩、よろしくお願いします」と秋村霧奇はにっこり笑って手を差し出す。
「おっすよろしく」いふちゃんは軽率に握手を交わす。いふちゃんに後でちゃんと教えておかなきゃって思っていると、いふちゃんは言う。「秋村くんは花ちゃんのことどう思う?」
「花色さん優しいと思います」秋村霧奇はそんなことを言ってのける。「俺が男なんで警戒されてんだろうなとは思うんですけど、だからって強硬手段には出ないし、いまだって案内してくれてますし」
「それはいふちゃんも乗り気だったから!」私は咄嗟に否定する。優しくした覚えはまるでないのだから、そんな風に言われたって居心地が悪い。
「あっはっは。花ちゃんマジで機嫌悪そう。でも言う通り優しい子だし、誰かのこと、嫌いだからって積極的にいじめる子じゃないからさ。まあ仲よくやりなよ」
「はい、花色さんと家族として近づいていけたらと思います」
 こっちは他人として遠のきたいんだけれど……。
 もう何か言う気もなくなる。朝から疲れた。ふたりが話しているのを眺めていると、いふちゃんが秋村霧奇と連絡先を交換しようとしていて流石に止める。理由については秋村霧奇が一年生の教室に入ってから、二年生の女子トイレで説明する。
 いふちゃんは当たり前に首を傾げる。「大人と六股? で、六人とも死んだ? 何それ誰から聞いたん」
「お義母さんから。地方ニュースにもなっててネットで検索すればすぐ出てきた」
「へえ……あ、本当だ。秋村くんの名前は出てないけど、六人の女性の共通点は歌醒県の男子中学生との関係……だって。これが秋村くん?」
「うん。六股もしてたってこと。そんなんと深く関わりたくないの」
「六股って言うの? これ。性別違ったら、なんか六股って感じにならなくない?」
「それは……」私は女子中学生が六人のおじさんと関係を持つことを想像する。それを六股と言うべきだろうか?「でも、普通の貞操観念じゃ絶対なくなってるって」
「ヤってたのかどうかわかんないでしょ」いふちゃんはバッサリだ。「なんか、関わっちゃいけない人扱いするの、もうちょっと様子見たほうがよくない? 高校でも六人くらい彼女作ってたら、それはやばいけどさ」
「やばい可能性のある人だから怖いんだって」
「やばい可能性のない人なんていないでしょ」
 いふちゃんは共感ベースの会話をしない子だ。それが頼もしいところだ。なのに私は共感や肯定を求めているな、とそこで気づく。落ち着くために深呼吸をして、言う。
「うん。いふちゃんはそう思ってる。わかった。いふちゃんが秋村霧奇と絡んでいたからって私はもう何も言わない」
「そういう話だったっけ?」といふちゃんが言ったとき、ホームルームの鐘が鳴る。「まあいいや。花ちゃんが関わりたくないのに無理強いするのもなんだし」
 このやりとりのせいでギクシャクしてしまうとかはなくて、それがいふちゃんのありがたいところだなあと思う。あなたと私は違うねって結論で終えても関係の溝に繋がらない相手って貴重だ。共感なんて他の人に頼めばいい。
 
 
 学校が始まって終わって、帰宅部の私といふちゃんは一緒に帰る。いふちゃんが買いたいコミックスがあるということで恋川駅の本屋に入る。文庫本のコーナーを横切るとき、秋村霧奇を見かける。
 思わず足を止めてしまう。いふちゃんも気づく。
「友達作るの早いね、あの子」
「……友達?」
 秋村霧奇はふたりの女子生徒に挟まれながら本を選んでいた。本なんて読まなさそうな明るい子達だ。秋村霧奇はさして照れる様子もなく、淡々と値段や厚みを確認して手に取っていた。
 気づかれたら面倒そうだから、いふちゃんを促して漫画のコーナーに行く。目的のコミックスを探しながらいふちゃんは、まあそりゃそうだよね、と呟く。
「秋村くん、イケメンだもんねえ」
「え? あれが?」
「イケメンっしょ。そりゃアイドルみたいではないけど、クラスの平均的な男子の顔に慣れてきたゴールデンウイーク明けに投入されたら、面白くなってきたってなるレベル。しかも標準語だけどイントネーションに訛りが出てるの可愛いし」
「ええ……そうなんだ」
 まあでも、ある程度は顔がよくないと六人も大人の女性をたらし込めないかな? 私はそもそもあんまり顔の評価をしないタイプだから気にしていなかったけれど、言われてみれば瑕疵のない容姿をしているかもしれない。……だとしたら秋村霧奇が家に彼女を何人か連れてきたりすることも、そのうちあるんだろうか? 私は無視するとしてお義母さんはどんな反応をするだろうか……個人の自由として処理しそうだなあ。むしろ喜んだり私と比べて何か言ったりしそうだ。ろくなことがなさそう。
 もし秋村霧奇の部屋から何人ぶんかの喘ぎ声とか聞こえてきたら本当に嫌だ。想像するだけで、穢らわしい、と思う。セックスそのものを穢れと思うほどおぼこじゃないけれど、なんだっけ、乱交? とかは流石に自分の住む家で起こってほしくない。
 でもそれだって個人の自由だろうか? いや、そうじゃなくて、自由だけど、その自由を行使する個人とは関わりたくないって話だ。
 色んなこれからを予想しては脳内で毒づいているうちに本屋を出ている。
「花ちゃんさっきから黙ってる。何考えてんの」
「……私も彼氏作ろうかなって」
「あん? 姉の意地?」
「別にそうじゃないよ」
 私は姉になったつもりもないし。ただ、秋村霧奇のことを考えるのはちょっと精神衛生上よくないから、他に夢中になれる相手がほしいのと、セックスが多少身近になったら、秋村霧奇が彼女達と何かしていても不快感は薄れるかもしれないって打算だ。でもそうした理由はいふちゃんには言わない。なんとなく。
「そのほうが、都合よさそうだなって」
「ドライだなあ。よくわかんないけど、付き合いたい人とかいるん?」
「いないなあ。男子とそもそも関わり薄いし」
「付き合いたいタイプとか」
「下手なことしない人。悪目立ちしない人。変な趣味もなくて、浮気もしなくて、考えかたがまともな人。あと馬鹿じゃない人。それと恨みを買わない人」
「減点方式かあ。もっとこういうのときめくとかないんかい」
「いふちゃんはあるの?」
「サッカー部がいい。マネージャーになろうかと思ったんだよなあ。仮入部のとき、他の子とノリ明らかに合わなくて辞めたけどさ」
「えー。運動部ってなんか怖いイメージあるんだけど。いじめとかさあ」
「怖いイメージがあるから怖がるのは嫌だなあ、もったいない」
 バスターミナルでいふちゃんと別れてバスを待つ列に並んでいると、少し後ろのほうから秋村霧奇と女の子の声がした。聞き耳を立ててみると、どうやら女の子は秋村霧奇の家に遊びに行きたがっているみたいだ。え? 転校初日でそんな誘われることある? まさか了承しないよね、と思っていると秋村霧奇は言う。
「ごめん坂さん、そこまで距離詰めてくるの……怖いよ。やめて」
 いや断ってくれてありがたいけど、断るにしても言いかたがあるでしょ……?
 坂さんと呼ばれた女の子は一拍置いてから、そっか、ごめんね、と言った。それから坂さんは列から外れてどこかに行ったようだ。泣かせてないよね? 転校早々なんだか大変なことになって少し同情するけれど、それでいじめられることになりましたとなっても私は何もしたくないが……。
 バスが来る。二人掛けに座っていると、秋村霧奇が来る。
 静かに涙を流しているのでびっくりして、座りなよって言ってしまう。
「……ありがとうございます」
「別に。あんた何泣いてんの?」
「え、……本当だ。ごめんなさい」秋村霧奇はそう言ってハンカチを取り出して拭く。「なんか泣いちゃって」
「泣きたいのは坂さんのほうなんじゃないの」
「え、坂さんと知り合いですか?」
「いや、聞いてただけ。モテる男はつらいねって感じ?」
「……流石に、初日からこんなことになるなんて思わなくって」
 本当にね。と思ったところで、本屋でのことを思い出す。「ねえ、本屋でも見かけたんだけど、そのときもうひとりいなかった?」
「花色さんストーカーですか?」と真面目なトーンでふざけたことを抜かすのでデコピンを喰らわす。「痛っ。デコピンとか初めてされました俺」
「いいから。何? なんで転校初日に本屋で両手に花なわけ?」
「転校初日だからですかね? 恋川駅を案内してあげるって両隣の席の女子に言われて。坂さんと四方山さんなんですけど。木倉昨日子さんの本をもっと買いたかったから本屋に連れて行ってもらってたんです」
「で、四方山さんは?」
「用事を思い出したって帰りました」
「……用事を思い出したって言う前、坂さんと四方山さんがふたりきりの時間なかった?」
「え。……そう言えばそのふたりでトイレに行って、戻ってきたら、思い出したって。なんでわかるんですか」
「うん、まあ」
 坂さんが四方山さんに言って帰ってもらったんだろう。相談したのか命令したのか知らないけれど。でもこれを言うと、坂さんが割と本気で攻めてきているって伝えることになるから怖がらせる結果になるだろうか?
「なんというか……秋村霧奇のどこがいいんだろうね?」
 と私が言うと、
「本当にそうですね」
 と秋村霧奇は言った。
 
 
 家に帰って各々の自室で過ごしているとお義母さんが帰ってくる。夜には晩ごはんに呼ばれて三人で食べる。お義母さんは言う。
「霧奇くん、学校どうだった?」
「楽しかったです」秋村霧奇は笑顔で言う。「ただ授業の進み具合が地元と違って、ついていけるか心配ですね」
「そっか。花色、勉強教えてあげたら?」
 え。「やだ」
「年上なんだからいいでしょ」とお義母さんはわけのわからないことを言う。「それに、いい復習にもなるでしょ」
「なんで秋村霧奇に時間を割かなきゃいけないわけ? 私が。年上ったって一歳だし」
「いつまでもそのままじゃギスギスするでしょ? ギスギスした空気をさ、敢えて保つなんて馬鹿らしいよ?」
「はあ。……じゃ、お小遣い上げて」
「お金でやるなら責任できちゃうけど、いいの? 成績よくなかったら、増やしたぶんしばらく減らすよ」
「何それ。もうやだ」
「俺は大丈夫です」と秋村霧奇。「心配だけど、まだ全然どうなるかわからないので。クラスの人も優しいですから、教えてもらいます」
 クラスの人。坂さんのことがあってこう言うなら、まあ我慢して丸く収めようとしてくれているんだなと思う。そういうところは考えられる男子なんだろうか? バレバレの気づかいだけれど。
「……私、成績悪くないから。もしも、友達もわからないようなところがあったら、教えてあげなくもないよ」
 と言い終えてから、ああ何してんだ私って思う。泣いてるところとか、無理してるところとか見たらなんだか同情的になってきてしまった。六股男だぞ。
「え、あ、ありがとうございます」秋村霧奇も予想外だったのか、困惑気味に言う。「それじゃ、もしものとき頼るかもしれません」
「本当に簡単なことだったら怒るからね」
「はい」
「そんな厳しくしなくても」と言いつつお義母さんはにやついている。「でもよかった、ちゃんと会話してて」
 うるっさいな。
 食後、私がお風呂に入って出て、いつものようにバスタオル一枚でリビングに行きそうになって踏みとどまる。男子がいるんだった……危ない。着替えは脱衣所に持ってきていたから、ちゃんと着てから出る。でもなんとなくパジャマ姿を見せたくなくて、私はそそくさと自室に向かう。
 その途中で秋村霧奇の部屋を横切ると、入口の隙間から話し声が聞こえる。そっと覗くとどうやら通話をしているようで、相手は坂さんのようだった。ドアに背を向けているから顔が見えないけれど、穏やかな会話をしているのはたしかだった。
 なーんだ。
 私は静かにドアを閉めて自室に入る。宿題をしながら、私は六人の成人女性の死について考える。六人は近い時期に亡くなったはずだ。交通事故であるとも。でも六人が揃って近い時期に死ぬなんて、そんなの事故でありえるの?
 秋村霧奇の意思は関係あるのだろうか? たとえば六人は秋村霧奇に心酔していて、秋村霧奇は六人がうざくて「死んでください」って言ったとか、そんな感じで死んじゃったとかだろうか。人ってそんなに簡単に死ぬのかなって思うけど、でも恋愛絡みで死んだり刺したりってたまにニュースで見るし、そんなもんかな? 秋村霧奇がそんなこと言いそうにないが、それを言ったら六股もそもそもしそうにないのだが。
 恋人が六人もいて、全員が亡くなるってどういう気持ちなんだろう? 六人に対する感情にもよるだろうか? なんだったら自分も死んじゃいそうな話だが、秋村霧奇のように平然と生きていられている場合、どんな気持ちがあったのだろう?
 わからない。
 恋人なんてできたことがないし、恋なんてしたこともないのだ。私は。
 中学までで男子と下手に仲よくしたら妙な距離感のつまらないジョークをされたり周囲から不快な噂を立てられたりと散々で、正直そもそも男子と不用意に関わるべきじゃないとすら思っている。
 あいつら馬鹿だし、女子もなんか男女の組み合わせを見た途端に馬鹿になる気がする。いふちゃんはそうじゃないから友達としていられるんだろう。
 とはいえ異性を愛せないってわけではない。雑誌のモデルの男性とかは美しいし、硬質なところも鋭利なところもあるなら性的だと思う。たぶん馬鹿な部分が表に出ていないからなんじゃないかと思う。実際に話して、もし不快な馬鹿さが現れたら幻滅するだろうなあ。そんな機会ないだろうけど。
 男子に、というか人間に高望みしすぎているんだろうか? 不快な馬鹿さのない人間なんてそうそういないんだろうか? でも、そうそういないからこそ理想ってもんじゃないの?
 理想。下手なことしない人。悪目立ちしない人。変な趣味もなくて、浮気もしなくて、考えかたがまともな人。あと馬鹿じゃない人。それと恨みを買わない人。
 減点方式の理想はしかし誰だってそうじゃないの? サッカー部がいいというのも、裏を返せばサッカー部に入っていない人とは付き合えないって意味ではないの?
 加点条件があるということは、加点しない条件があるんだから、それと減点条件があることに違いはあるの?
 ……理想の交際相手の条件に、男体に対するフェティシズムを含めるべきかと考えるけど、それはやめておく。身体目当てみたいで気持ち悪いし、そこの完成度を求めると、いよいよ同年代の男子なんて無理になりそうだ。無理でいいのかもしれないが、しかし。
 
 
 考えたり慣れたり、たまに口をきいたり無視したりしているうちに六月になる。
 体育祭がある。私は体育委員で、分担された設営をこなす。近い場所であれこれやっている一年生の女の子の体操着に、坂、と書いてあるのを見てぴんとくる。秋村霧奇の涙も思い出す。なんとなく気になって見ていると、坂さんと目が合う。
「あの、佐納花色さんですよね?」
「え? そうだけど、何?」
「むっくんの……秋村くんの義理のお姉さんなんですよね? あ、えっと、わたしは坂智恵です。むっくんと同じクラスの」
「……姉じゃないけど、まあ、それが手っ取り早い説明かな」と言いながら、ああこれ面倒臭い人っぽい受け答えだなと思う。別にいいけれど。「つか、むっくんって呼ばれてんの? あの馬鹿」
「え、むっくん頭いいですよ?」
 そういう話じゃないけれど、坂さんはたぶん秋村霧奇が好きなんだからいまのはよくなかったなと反省。「まあ、私はそんなにあいつのこと知らないし興味ないから」
「へえ……? むっくんから、優しいお姉さんって聞いてたので意外です」
「あいつそんなことクラスメイトに言いふらしてんの?」
 デマを撒くなよ。私がいつ、秋村霧奇に対して優しい姉をやったというんだ。
「お姉さんの話するとき楽しそうですよ。打ち解けていってるって」
「慣れこそすれ打ち解けた気はないんだけど……まあいいや。それより、坂さんってあいつと仲がいいの?」
「お友達として仲よくしていただいています」
「そっか。あいつ他に友達は?」
「男子は何人か。女子はわたしだけです」
 坂さんは機嫌よさそうに笑う。四方山さんは結局、秋村霧奇の友達にはならなかったみたいだ。如才ない子なんだろう。最初に電光石火で迫って拒否されたから、距離を取り直して友達として傍にいることに慣れさせつつ、他の女子を遠ざけようとしているのかな。今日まで秋村霧奇が友達を家に呼んだことがまだないのが、坂さんの切り替えの証明だ。
 そのあたりを確認したり突っついたりしてもよかったが、あんまり刺激したら私が何らかの牽制をされて面倒になりそうだからやめておく。代わりに言う。
「とりあえず、私はあいつがどうなろうと知ったこっちゃないからさ。好きにやんなよ」
「ありがとうございます」
 にっこりと笑う坂さん。愛嬌があっていいなと思った。羨ましい。なんで愛想笑いがそんなに上手いんだろう、可愛い子って。コミュニケーションスキルってどこで学べるんだろうね? 本当にさ。
 体育祭が始まると、みんな走ったり叫んだり忙しい。部活対抗リレーのとき、いふちゃんも男子に向かって叫ぶ。
「寺濱ー! 頑張ってー!」
「寺濱って誰?」クラスにいなかったはずだけれど。「先輩?」
「ああ、後輩。サッカー部。春城と一緒に期待の新入りコンビ」
「……勝手に応援してるんじゃないよね?」
「まさか。寺濱も体育委員で同じような作業割り振られてたから、ちょっと友達になったんだ」
「へえ」と相槌を打ちながら思い出す。付き合うならサッカー部がいいと言っていた、いふちゃん。「……付き合いたいわけ?」
「うん」
 寺濱らしき男子は他のクラスを引き離してからバトンを渡す。受け取った男子の胸には春城と書いてある。阿吽の呼吸といった雰囲気でスピードを引き継いで駆け抜ける。どっちも楽しそうで、男子って単純でいいなあと思う。上手く走れたら幸せなんて。私みたいに、家のことで嫌な気持ちになったり誰と関わるべきか関わるべきでないか気にしたり、していないのだろう。
「寺濱と春城って幼馴染なんだって。小学生から一緒にサッカーやってるらしい」
「へえ」興味ないなあ。「いふちゃんは春城とも付き合いたい?」
「いやあ別に。悪くないけど、春城って真面目らしいし、性格合わんよ」
「運動部の男子に真面目とかいるの?」
「花ちゃんすごいこと言うなあ」
 いふちゃんは呆れたような顔だ。そんなにおかしなこと言ってない気がするんだけれどなあ。真面目かどうかといい人かどうかは別だし。
 
 
 秋村霧奇の頭がいいというのは本当だったみたいで、期末テストでは九十点以上をいっぱい叩き出す。私はずっと八十点後半くらいに留まるタイプなので悔しくて、もっと勉強しなきゃ嫌だなと思う。姉の意地……ではなく、単純に快くない男子に負けていると腹が立つのだ。
 ということを私はいふちゃんに言う。
「二学期の中間テストは負けないって決めた」
「学年の違う人とテストの点で競おうとしてる人、初めて見たな」
 夏休み、私達はショッピングモールのフードコートでランチをしていた。今日の目当てだった水着は無事に買えて、ぶらぶらとお店を周っていたらお腹が空いたのだ。
「花ちゃん、もう秋村くんが来てから二か月経つじゃん? そろそろ慣れねえの?」
「慣れたよ。なんだかんだ気も遣えるやつだし、秋村霧奇」
「でもずっとフルネーム呼びだ」
「くん付けも名前呼びも嫌。クラスメイトより遠くありたいから名字呼び捨ても嫌」
「頑固だなあ花ちゃん。面白いけど。プールに行くメンバーに秋村くんも入ってるの忘れてないよね?」
 むろん、忘れていない。だからあんまり楽しみではない。
 いふちゃんが寺濱をプールに誘って、寺濱が犀川を誘い、犀川が秋村霧奇を誘い、そしたら坂さんも入ってきた。そしたら何故か秋村霧奇は私がいないなら行かないと言い出して、秋村霧奇が行かないなら犀川も行かない、それなら寺濱もあんまり行きたくないと言い出した。ゆえに私は、いふちゃんが寺濱と遊ぶためにプールに行く羽目になってしまった。
 そもそもサッカー部って夏休み忙しいんじゃないのかと思ったが、寺濱はだからこそ大人数で遊びたいようだった。
「そういえば春城はいないんだね?」幼馴染というなら呼びそうなものだけれど。
「それがさ、なんか合宿中に色々あったんだってさ」
「ふぅん」
 まあそれならそれでいいけれど。どうでもいいけれど。
「花ちゃん、結局彼氏は作りたいんだっけ?」
「ああ……いやさ、改めてクラスの男子とか観察して思ったんだけど」
「うん」
「うるさくない、無害そうな男子、だいたいオタクだから話が合わなさそうじゃない? ソシャゲとか動画配信者とか知らんし」
「まあなあ」
 私はアニメや漫画は国民的なものしか知らないし、ゲームも昔やったパーティゲームが遊びの選択肢に入ることがあるくらいで、ガチャとか育成? とかを頑張る心理からしてわからない。
 雑誌を含む読書くらいしか熱心に興味の沸く趣味がなくて、じゃあ文芸部とかいいんじゃないかと遅ればせながら体験入部をしてみたら、男子はみんなラノベとかネット小説とかの話しかしていなくて、くだらなかった。ひとりいた女子部員は本の虫って感じの人がいて楽しかったけれど、三年生だから今秋には引退とのことで入部動機にはならなかった。
「花ちゃん年下は駄目なの?」
「ええ?」誰があいつと、と言いかけて別に秋村霧奇の話はしていないと思い直す。危ない。えっと、年下か。「……まあ同い年に拘る気はないよ。何歳でも関わらないほうがいい人はいるし、大丈夫な人もいるだろうし」
「そっか。犀川くん、大人しめな感じの子だよ」
「え、あ、そういう流れ?」
「だって寺濱くんと一緒にいたいし、坂さんって子は秋村くんを狙ってるんだろうから、なら花ちゃんが犀川くんと仲よくなればちょうどいい」
「そんなパズルみたいに……まあ、一旦その気で接しながら探るのはいいけど」
 というわけでプール当日、そのつもりで服を選んでメイクをする。私と秋村霧奇が一緒に家を出て恋川駅に着いたらまだ待ち合わせ場所に誰もいなくて、まあ五分前だからそんなものかなと思う。
「坂さん少し遅れそうみたいです」スマホを見ながら秋村霧奇が言う。
「そう。連絡きたんだ」
「あ、犀川だ」秋村霧奇は静かに手を振る。視線の先には、なんだか特に言うことのない男子が歩いていた。あれが犀川か。服装は中学生と高校生の間みたいなセンスだが、ダサいってわけではない気がする。髪が短くて、清潔感がある。
「おはよ、秋村。あと……佐納花色先輩」私達を見て犀川は言う。「僕、犀川凛です。よろしくお願いします」
「よろしくね。犀川くん。敬語じゃなくていいよ」
「ありがとうございます、佐納さん。……秋村とは血が繋がってないんだっけ」
「うん。わけあって一緒に住むことになってるだけで。姉とかじゃないから」
「だよね。雰囲気、全然違う」
 それはメイクの効果もありそうだけれど。
 待ち合わせ時間ちょうどにいふちゃんと寺濱が来る。同時に来たのは偶然らしい。結構近所に住んでいるのだとか。いふちゃんは珍しくうっすらメイクをしていて、やる気だなあ、と思った。
「佐納先輩、初めまして。寺濱竜輝っす。後志先輩にはよくしてもらってます」
「佐納花色です。よろしくね」
「可愛いワンピースっすね。パンプスも似合ってるっす」
「ありがとう」
 と言いつつ、いふちゃんの前で寺濱に褒められるのよくないんじゃないかって思って目配せをする。いふちゃんは私の視線に気づくと、
「寺濱くんは誰にでもそういうこと言うから気にしないで」
 と笑う。いふちゃんもとっくに褒められ済みなのだろうか?
「女子がお洒落してたらちゃんと褒めろ、って親から言われてるんで」
 って正直に言っちゃうところはなんだか残念だ。素直さでもあるが。
 待ち合わせ時間から二分くらい遅れて坂さんがやってくる。「遅れてごめんなさい~」という坂さんに「全然いいよ」といふちゃんも秋村霧奇も言う。私は何も言えない。
 坂さんは明らかに自分の魅力を十全に活かすための全力お洒落をしていて、髪も肌も睫毛もさり気なくばっちりで、しかも基本的に秋村霧奇に身体を向けながら楽しそうに笑っている。予定上迷惑にならない、悪印象にならない程度に遅れてやってきたこともなんらかの計算なのかもしれない。
 そんなこんなで予定通りの時間の電車に乗って、プールのある遊園地に行く。水着になってみてわかるのは、いふちゃんも坂さんもしっかり身体を仕上げて臨んでいることで、私も絞っておいたほうがよかったかなと思う。
「お姉さんの水着すごい可愛いですね! わたしもそういうのにすればよかったなあ」
 と坂さんは言うけれど、そんな気合いの入った水着で言われても苦笑しかできません。
 プールサイドに着くと寺濱がボールを膨らませ、秋村霧奇と犀川くんがレジャーシートを敷いて休憩場所を取ってくれていた。寺濱と犀川くんは海パン一丁だったけど、秋村霧奇は上にもシャツのような水着を着ていて、そういうタイプなんだ、と思った。確認していなかったから驚いた。
「三人とも水着すげえ似合ってるっす」と寺濱。「後志先輩そういう色も似合うんすね」
「あんがと」いふちゃんはいつもの調子で返すけれど、なんだか嬉しそうだ。「寺濱くん、いい筋肉してんね」
「あざっす。鍛えてるんで自分」
 寺濱が笑顔で力こぶを作って、それで笑ういふちゃん。お似合いな気がする。
「ねえ、むっくんって泳げる?」坂さんは訊く。
「まあ多少は。背泳ぎはできないけどクロールとかなら」
「そうなんだ! すごいなあ、わたし全然カナヅチで。あとで教えてもらっちゃだめかな?」
「ああ、別にいいよ」
「やたっ!」
 やたっ! ってあんた。
 なんというか、あざとい感じの子とあまり接してこなかったから坂さんがどんどん怖くなってくる……本当に泳げないのか確認する気はないけれど。
 いふちゃんはあくまで寺濱にフランクに接しつつ褒め返したり顔を近づけたりでじっくりアプローチしてるみたいだし、恋愛やる気の女子がふたりもいると居心地よくないなあ。そういう欲みたいなの好きじゃないのかもしれない、私。
 そんなことを考えていると犀川くんと目が合う。
「どうしたの? 佐納さん」
「いやあ……坂さんもいふちゃんもやる気あるんだなって」
「え? 佐納さんあんまり泳ぐの好きじゃない?」
「……そういうことでいいけど」と言いつつ、いやでもよくないか、と思い直して、犀川くんに近づいてもらって耳打ちする。「坂さんはたぶん秋村霧奇を狙ってるし、いふちゃんは寺濱を狙ってるなって感じて」
「あー」犀川くんは小声で返す。「まあ坂は前からそんな感じだけど。じゃあ、えっと、僕らは手伝う?」
「手伝うって?」
「六人でいるわけだけど、ふたり組ずつに分かれるようにしたほうが進展するわけでしょ」
「ああ、そういうこと」まあ私としても、このふたりと離れられるならそのほうがいい。「自然に誘導していこうか」
 
 
 で、実際にどうしていくかというと、まあ単純に私と犀川くんが別の場所に行けばいいだけの話だった。坂さんは勝手に秋村霧奇とふたりきりになろうとするだろうし、そうなればいふちゃんと寺濱もふたりきりになるはずだ。
「お腹すいちゃったから犀川くんと焼きそば買ってくるね」
「おー、いってら」といふちゃんは言って、頑張れとばかりに親指を立ててきた。
 あ、そういえば私にも、犀川くんと付き合えるか考えてみる予定があったっけ? 正直、忘れていた。まあ自然体でいられるのが一番と雑誌にも小説にもよくあるし、そう気構える必要もないかもしれない。
 列に並ぶ待ち時間に、犀川くんが訊いてくる。
「佐納さん。秋村って家でどんな感じ?」
 やっぱ共通の話題はそこだよね、と思いながら私は言う。
「お義母さんとは仲好いよ。私は、あんまり積極的に仲よくしてない」
「へえ、どうして?」
 どうしてかと言えば秋村霧奇の過去を理由とした警戒と拒絶だけれど、あんまりそういう話を振りまくのもどうなんだろう? 言わないほうがいいだろうか。
「まだ会って三ヶ月くらいだし、あいつよくわからないから」
「へえ」
「そっちは?」あんまり興味がないけど訊き返しておく。「秋村霧奇、クラスでどう?」
「秋村は、頭もいいし運動神経もいいし、いいやつだから……まあ目立って嫌われてはないよ」
「目立って?」
「だって、そのうえ顔もいいから僻むやつもいるわけで。五月くらいには訛りとかいじろうとするやつも」
「ああ」
 そういえば秋村霧奇、最近はすっかりイントネーションが普通な気がする。自然に馴染んだのかなと思っていたが、その件も関係あるんだろうか。
「でもだいたい長続きしないんだ。坂が守ってるから」
「坂さん?」
「坂、クラスで結構、秋村にベッタリでさ。秋村に変なことするやつとか、仲よくなりたいっぽい女子とかからガードしてるんだよ」
「それはそれで、その件でいじられない?」
「秋村と坂が付き合ってると思ってるやつはいっぱいいる。あと、秋村ってモテるから坂のこと嫌いになってる女子も十人くらいはいるくさい」
「はー……」大変そうだなあ。ふたりとも。「というか犀川くん、なんかそういうの詳しいんだ?」
「僕は色んな人と話すから、把握しやすいんだ」犀川くんは何やら恥ずかしそうに笑う。あるいは後ろめたいのかな。「どこで何が起こってるか、誰が何をしてるか、ちゃんと把握しなきゃ不安で」
「私もそれわかるかも」と本心で言う。「私の場合は、関わる相手のことを知らないと不安って感じだけど」
「関わる相手?」
「人と関わるって、その人から影響を受けたりいい気分や嫌な気分にされたりすることだから。深く関わる前に、関わっても悪い影響や嫌な気分にならなさそうな人かどうかを見極めたいんだ」
「ああ、そういうこと」
「だから犀川くんのこともっと教えて?」と言っておけば深く関わりたいっぽくなるだろうか。「色々さ、聞かせてよ」
 で、話してみるとどこまで訊いても言ってもなんだか嫌な感じがしない。ああ、この男子は大丈夫かも。いつも平熱というか、女子と話すのも慣れてそうだけど紳士的というか、まともな子だ。オタクっぽくはないけど垢抜けすぎてもいなくて、こういう大人しくて人当たりのいい女子いるよなって感じ。読書はしないタイプなのが少し残念だが、許容範囲だ。
 焼きそばを買って、まだそんなにお腹が空いていなかったからレジャーシートに置いて一緒に泳ぐ。お互いにあんまり水にはしゃいでいないから、隅っこでプールという状況に浸りながら喋るだけだ。
「あ、佐納さん。あれ寺濱と後志さんじゃない?」
 と言われて見ると、少し遠くのプールサイドで、いい感じの雰囲気のふたりが歩いている。何やら近い距離で楽しそうに話していて、いふちゃんが少し照れた感じの表情を見せたと思えば、おずおずと手を握り始めた。
「あれ付き合ってんのかな」と私は言う。「それとも寺濱って友達にもあんな感じ?」
「いやあ、そういう風に気安いやつじゃないよ」と犀川くん。「寺濱のほうも、気があるんじゃないかな」
 だったらいいけれど。いふちゃんが幸せになれるなら私は友達として素直に嬉しい。私より寺濱を優先する時間も増えちゃうだろうから寂しいけれど、私は私で彼氏を作れば紛れるだろう。
 私も頑張ったほうがいいかな? それとも初対面のときはあんまり距離を詰めないほうがいい? 考えながら想起するのは、出会った日に家まで行こうとした坂さんと、それを拒絶した秋村霧奇の涙。やっぱりあれはいきなり踏み込みすぎだったと思うし、だからって泣くことなかったでしょって思う。なんだったんだろう?
「佐納さんってそういえば彼氏いる?」と犀川くんは訊いてくる。
「え。いないよ。いそう?」
「先輩だからかもしれないけど、大人っぽいなって」
「ええ?」そんな自覚はなかった。「犀川くんこそ、クラスの男子にそんな落ち着いてる子いないし。彼女いるんじゃない?」
「話してくれる人は多いけど、寺濱や秋村みたいにモテるわけじゃないから」犀川くんは苦笑する。
 私も笑う。「くくく。モテたいとかあるの?」
「モテるのはめんどくさそうだけど、彼女はいたら嬉しいなって思うかな」
「なろっか? 彼女」
 と私は勢いで言ってしまう。まだ早かったかなとすぐ思う。でもなんかそういう流れに無意識で誘導してぶっこんでしまった。言葉を咀嚼してるのか断りかたを考えてるのかわからないけど、犀川くんはフリーズしてしまった。恥ずかしくなってくるけど忘れてって言っておくべきだろうか? あー。
「いや、なんていうか犀川くんなら悪くないなって思ったくらいなんだけど」と、別にまあ熱愛ってほどじゃないですよ? というアピールをしておく。
 犀川くんが言う。「佐納さんがいいなら、僕もいいです」
 いい? どっちのいい? 別に彼女にならなくてもいいってこと?
 違う。犀川くんの顔がちょっと赤い。照れてる。可愛いかもって思ってしまう。
「ならよかった。手でも繋ぐ?」
 手を繋ぐシーンって温もりやら柔らかさやらがフォーカスされるけど、私も犀川くんも体温あんまり高くないしそもそもプールのなかだから、純粋に、手の大きさが違うなあ、と思った。あとここまで気づかなかったけど、犀川くんって指が長い。
 
 
 とかやってるうちに事件が起こる。秋村霧奇が溺れる。
 私達やいふちゃん達がいたところとは遠いプールで溺れていたから気づくのが遅れてしまったが、ざわめきで察する。現場に着くと、スタッフらしい男性が秋村霧奇の胸を押し、坂さんが人工呼吸をしていた。太陽の下、坂さんは汗をかきながら真剣な表情で救命に取り組んでいて、本気で好きなんだろうな、頑張れ、スタッフの人も頑張れ、と思う。
 私なりに秋村霧奇の蘇生を願う。
 息を吹き返す。
「むっくん!」
 坂さんは涙ながらに秋村霧奇に抱き着く。スタッフの人と、水を吐く秋村霧奇の背中を撫で擦る坂さんに、周囲で見守っていた人達が拍手を送る。私達も手を叩く。よかった。生きていてよかった。
 私だって別に、深く関わりたくないだけで死んでほしいわけじゃなんだなと改めて思う。そんなレベルで嫌いなわけじゃないのだ。
「そういえば」と犀川くん。「坂って中学のとき水泳部だったらしいよ」
 だから肺活量に自信があったんだろうか。聞けば、坂さんから人工呼吸を申し出たらしいし。つまりカナヅチというのは完全に嘘だったわけだけれど、嘘も救命も恋ゆえなのだからまとめて愛らしさだ。
 救急車がやってきて、秋村霧奇は病院に搬送されることになる。私と坂さんがついていく。
 溺れてすぐに措置がされ意識が回復していることもあって、症状は軽く、夜には家に帰れるようだった。私としてはそれで安心したから、状況説明までさせられて色々と疲れてそうな坂さんに好きな飲み物を奢る。ありがとうございます、と坂さんは言う。
「本当に、よかったです。むっくん、死んじゃったらどうしようって」
「坂さんがいてくれてよかった。ありがとう」
「お姉さん……」
「ねえ、犀川くんから聞いたよ。秋村霧奇にちょっかいかけてる男子から、坂さんが守ってるって」
「……そうですね。むっくんに嫌がらせするの、許せなくて」
「私としても、あいつが学校で立場が悪いと色々と面倒かもしれないから、ありがたいよ。……でも独り占めもほどほどにね?」
「わたし、むっくんが好きなんですよ」
「知ってる」私は笑う。「出会ったその日に家に行こうとしたんでしょ」
「あ……なんだか恥ずかしいです」坂さんはまごつく。「なんていうか、一目惚れなんです。わけわかんなくなっちゃって、ドン引きされちゃって。だから、勢いじゃなくて、ちゃんと考えなきゃって、ずっと頑張っています」
「そっか」
 秋村霧奇の昔のことを教えたほうがいいのかな、と一瞬思う。でも、少なくともいま私からではないなと判断して、やめておく。
 仕事を終えたお義母さんが病院にやってくる。その頃には夜で、帰宅してもいいと判断が降った直後だった。
「霧奇くん大丈夫?」
「義母さん」ベッドの上で秋村霧奇が言う。「ちょうど、もう帰ってもいいって」
「よかった。連絡来て、急がなくていいって言われたけど仕事が手に付かなかった……本当によかった。お医者さん、抱きしめていいですか?」
「念のため優しく」
 ゆるめに抱きしめるお義母さん。秋村霧奇は落ち着いた物腰でその背中を叩く。
 少し落ち着いたお義母さんは、私の隣の坂さんに気がつく。「その子は?」
「初めまして、坂智恵です」坂さんは深々と頭を下げる。「むっくんとは友人として仲よくしていただいています。今回、むっくんはわたしとプールにいるときに溺れてしまったので、その関係で付き添いました」
「お義母さん、坂さんが人工呼吸したんだよ」
「えーそうなんだ! ありがとうね、智恵さん」お義母さんも深々と頭を下げる。「えー、霧奇くんにこんな綺麗な女の子のお友達がいるなんて知らなかった」
「いえいえそんな」と言いつつ坂さんは満更でもなさそうだ。「お母さまも、すごくお綺麗ですね」
「も~可愛い子。こんな娘ほしかったかも。ふふふ」
 まあたしかに、お義母さんも恋愛大好きだし、私よりは気の合う娘かもしれないけれども……。
 さておき、ひとまずもう帰ろう、ということでお義母さんの運転する車に私と秋村霧奇と坂さんで乗る。もう暗いから、坂さんの家の前まで送ってあげる必要がある。私は助手席に、秋村霧奇と坂さんは後部座席に座る。お義母さんは運転中に会話をしないタイプで、坂さんも疲れて眠っているから、車内は静かなものだった。
 バックミラー越しに、坂さんに凭れかかられている秋村霧奇を見つめながら、こいつは坂さんのことをどう感じているんだろう、と思う。家に帰ったら訊いてみようか。
 スマホでいふちゃんに現状を連絡しながら、六人で集まってプールに行って犀川くんの彼女になったのがこの夜と同じ日なんてよくわからないなと思う。それから、犀川くんと連絡先を交換し忘れたことに気がつく。これもあとで秋村霧奇に訊いて繋げてもらおう。
 恋川駅の近くまで来てから、坂さんをそろそろ起こして、家の場所を教えてもらう。駅のすぐ傍のマンションに住んでいることを知る。
「ありがとうございました」と坂さんは頭を下げる。
「いえいえこちらこそ、またちゃんとお礼させてね」とお義母さんは笑って、それから秋村霧奇に言う。「ほら、霧奇くんも」
「……坂さん、ありがとう」
「どういたしまして。むっくんが生きててよかった」坂さんは笑む。「おやすみ」
「おやすみなさい」
 車が家に着く。簡単に晩ごはんを済ませて、お風呂に入って、寝る前に廊下で秋村霧奇に声をかける。
「ねえ、犀川くんの連絡先って教えてもらえる? 仲よくなったからさ」
「ああ、はい。あとで送っておきます」秋村霧奇はなんだか疲弊したような調子で答える。そりゃそうか。
「何かあったら病院に連絡しなよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
「あ、あと。あんた、坂さんのこと、どう思ってる?」
「……いい人だと思います」と秋村霧奇は表情を変えず言う。「少しだけ怖いですけど」
「あっそ。まあ人工呼吸までしてくれたし、あんまり怖がらないでもいいんじゃない?」
「……おやすみなさい」
 ぱたん、と自室のドアを閉める秋村霧奇。基本的にアプローチをかけてくる女子は好きじゃないんだろうか? 第一印象の怖さが抜けていないということかもしれない。
 そういえば六人の成人女性と交際していたことは知っているが、どんな交際だったのかはよく知らないことに気がつく。お義母さんからの話だと、どうやら裸の付き合いは確実にあったようだけれど。秋村霧奇に訊いたら教えてくれるんだろうか?
 とか考えつつ私も眠くて、秋村霧奇から犀川くんのアカウントを送られたのを見届けてから寝る。変な夢を見るが、起きてしばらくすれば忘れる。
 
 
 次の日から犀川くんとメッセージのやりとりをしたり電話をしたり遊びに行ったりするようになる。基本的に結構楽しい。変わらず大人しいけれど、虫とか手で触れるし食べる量も多いしときどき男子なんだなあって面が垣間見えるのが面白い。
 それから次の週に朗報が舞い込む。いふちゃんが寺濱に告白したらOKしてもらえたらしい。犀川くんとふたりで、よかったよかったと温かい気持ちになる。
 秋村霧奇と坂さんは別に変わりないようだけれど、お義母さんがあの夜からずっと坂さんの話をする。「坂さん綺麗だったなあ」「本当にいい子でよかった」「霧奇くん、あの子を逃しちゃダメだよ? あんないい子なら絶対幸せになれるから」。正直ちょっと私からしてもうるさい感じだ。秋村霧奇は曖昧な相槌でやり過ごす。お義母さんはうざいとき超うざいから、軽く同情してしまう。ちなみに私は、面倒そうだから犀川くんの件を報告していない。写真見せてとか年下いいね可愛いよねとか言い出すに決まっているのだ。
 で、そんな他人の色恋沙汰とか大好きなお義母さんには八月初旬ぐらいから彼氏がいるんだけれど、八月末のある日、お義母さんはその彼氏とお泊りをする。だから家に私と秋村霧奇しかいない状態で炊事洗濯をこなすことになる。
「秋村霧奇、あんた家事できるっけ」
「ひと通りはできます、俺。なんだったら遊びに行ってても構いませんよ」
 流石にそれは姉……じゃなかった、年上としてなんとなく嫌だった。私が洗濯や風呂掃除をしている間に買い物に行ってもらい、買ってきたもので一緒に晩ごはんを作る。
 カレーを作る。私が研いだお米の炊き上がり時間に合わせて秋村霧奇が主体的に野菜や肉を切って煮込んでいく。丁寧に手早く野菜を処理したり何も言わずに林檎をすりおろしたりする秋村霧奇を見ながら、これ家庭科の授業の範疇じゃないよなあ、と思う。
「ねえ。料理、誰かに教わった?」
「あ、はい。中学の頃に」
 訊くまでもない感じがしたけれど、カレールーを投入してから割と暇だし、そろそろ突っ込んでみようかなと私は思う。だから訊く。
「中学の頃の、六人の彼女のひとりに?」
 秋村霧奇は目を見開いてフリーズ。そして復旧。「知ってたんですね」
「前からお義母さんから聞いてたよ。大人の恋人が六人って」
「まあ、はい、そうですね」秋村霧奇は動揺を残しつつ答える。「家事、ひと通り教わりました」
「……嫌じゃなかったら、話を聞きたいんだけど」私は秋村霧奇の瞳を見て言う。「なんでそんなことになったの?」
「俺の、父が……義母さんと離婚した理由、聞いてますか」
 秋村霧奇の父親。《お義母さんが最初に結婚した人》。
「浮気でしょ?」不倫だっけ? 定義の違いをよく知らない。「何回も別の女に手を出すから我慢できなかったって言ってたよ」
「そうでしょうね。……俺の父は、女の人にすごく好かれやすくて。義母さんと別れたあとも色んな女性と関係を持って」秋村霧奇は唱えるように言う。「俺の六人の恋人も、元々は、父の恋人たちの一部なんです」
「え、それって」おさがりってこと? と言いそうになって、いくらなんでも……な言いかたな気がしたから抑えておく。「……なんであんたのほうに行くの? それで」
「俺は父にすごく似てるみたいなんです。性格じゃなくて、顔とか、声質とか、運勢とか、フェロモン? とか」
「えっと、すごくモテるってこと?」
「平たく言えば。それで、父の恋人達のうち六人は、俺が中学に上がった辺りから、守ってあげたほうがいいって思ったみたいなんです」
「守る? 何から」
「中学生の女子から俺を。あるいは俺から中学生の女子を。中学生はもうだいたい思春期を迎えているから何があるかわからない、生理来てるから妊娠とか起こりうる、女子を独占しすぎると力の強い男子中学生からいじめられるかもしれない、俺のためにガードしないといけない、みたいな。父の中高生時代の経験も判断材料にあるそうです」
「……さっきからずっと何言ってんだよって感じだけど、えっと……うん、うん? つまり中学生同士でトラブルが起きないように彼女枠を先に埋めておくってわけ? それ六人も必要?」
「六人とも社会人ですから、ローテーションを組まないといけないって言ってました。俺は毎日、違う女性と手を繋いで中学に行って帰ってきました。プールや銭湯や映画やカラオケも、みんなで行っていました」
「全然想像できない。なんで登下校まで一緒? なんか、牽制みたいな?」
「はい。噂が立つのも含めて牽制というか、同世代に興味がない、超越したイメージを植えつける作戦だったそうです」
「そ、そうなんだ……えと、つまり全部が作戦であってシステムであって、恋愛感情とかがあったわけではない?」
「いいえ。六人とも俺のことが好きだったし、俺も不思議なことになってると思いましたが幸せでもありました」秋村霧奇ははっきりと言って、寂しそうに目を細める。「六人とも、優しかったですし、色んなことを教えてくれました。素敵な人達でしたし、中学一年から中学三年まで一緒にいましたから、愛が芽生えなきゃ嘘ですよ」
「……じゃあ、なんというか、抱いたの? 抱かれた?」
 秋村霧奇は動揺して咳込む。訊かれないと思っていたのだろうか。
「手、出したら犯罪ですから。さすがにそれは。キスしたり一緒にお風呂に入ったりしたぐらいですよ」
「それは全然、ぐらい、じゃないから」
 と突っ込みを入れつつ、じゃあ私が思っていたほど卑猥な関係でもなかったんだなあ、と安心する。ちょっと申し訳ない気もする。今度から秋村くんとでも呼んでみようかなと思うが、なんかもうフルネームで呼ぶのに慣れたし、それにタイミング的にイメージで避けていたのがバレそうだからやめておこう。
「本当に」秋村霧奇は噛みしめるように呟く。「本当に、幸せ、でした」
「……実際さ、同年代の女子にはもう興味ないの?」私は訊く。「坂さん、明らかにあんたのこと好きだと思うんだけど」
「……怖いです」
「坂さんのこと、あんまり怖がるのも失礼でしょ。最初の印象はよくなかったかもしれないけれどさ」
「違うんです。そうじゃなくて。そうじゃなくて、初日のことじゃなくて」
 私は驚く。秋村霧奇はじわじわと泣き始めている。他人を怖がることを叱るような口ぶりはよくなかったかな、と反省して謝ると、ごめんなさい、と返される。
 やっぱりまだよくわからない。秋村霧奇は、そうじゃなくて、の続きを言うつもりがなさそうなのでティッシュ箱を近づけておく。自分で鼻をかんで涙を拭く様を見ながら、もしかしたらプールで溺れたことがトラウマのようになっているのかもしれない。
 だとしたら、もうしばらく坂さんの話題は出さないほうがいいだろうか。
 落ち着いた頃を見計らって、食器の準備を始める。
 カレーライスを盛りつけて、向かい合っていただきます。林檎のカレーは初めて食べたけど美味しくて、普段と同じルーを使ってもまるきり違うものに感じた。交際していた六人についても詳しく知りたかったけれど、あんまり去年亡くなった人のことを訊きすぎるのもよろしくないだろう。
 代わりに木倉昨日子先生の本の話を聞く。秋村霧奇はもうあれから五冊も読んでいるらしくて、いまのところ一番好きなのは三冊目に読んだ『さるぐつわ』だそうだ。生きているだけで誰にも言えない出来事や想像が蓄積していく主人公に共感するらしい。『さるぐつわ』を好む人が好きそうな木倉先生の作品を紹介すると、本屋で探してみます、と楽しそうに笑った。
 なんとなく気になって部屋に入れてもらうと、整然とした部屋の隅にある本棚には、既に木倉先生のものだけでなく色んな作家の小説が並んでいた。いわく、そのほとんどが六人の恋人のひとりが遺したものだそうだ。ほとんど引っ越し前に読んでしまったから、また木倉昨日子という作家に出会うことができて嬉しいと言ってくれる。
 木倉昨日子先生はもう亡くなってしまっているけれど、作品はエッセイを含むと何冊もあるから、一年間は退屈しないんじゃないだろうか?
 そんな風に夜を終えた翌日、昼頃に帰ってきたお義母さんは、浮かれながらデートで巡ったところの話をして、お土産として和菓子と木刀を渡してきた。
 修学旅行かよ。
 それから少し経って夏休み最後の日、犀川くん……もとい凛くんからセックスを持ちかけられる。秋村霧奇への警戒心が薄れたことや、セックスが家に持ち込まれる可能性がなさそうなことから急がなくてよさそうだと判断したばかりだから、まだ早いかなと思う。
「まだ付き合って一か月も経ってないし、したことなくて怖いから、ちょっと待ってほしい」
 と伝えると、凛くんは残念そうだけど受け入れてくれる。凛くんの部屋で付き合ってから二度目のキスをして、ちょっとだけ胸を触らせてあげる。それでデートが終わる。
 二学期が始まって、私は秋村霧奇と一緒に家を出る。
 秋村霧奇は木倉昨日子先生の『クランクアップ・クランジィアンセム』を読んでいて、私も最近読み返したばかりなので、ページ数の残りを見ながらどのあたりを読んでいるか予想して過ごす。
 駅にバスが着く。いふちゃんはサッカー部の朝練に合わせて寺濱と一緒に登校したからとっくに学校に着いている。秋村霧奇と別れて、凛くんを待つ。すぐに来る。手を繋がないほうがいいかどうか迷うが、一緒に登校している時点で怪しいだろうから気にせず繋ぐ。まだ夏が残っていて暑苦しいけれど、私には彼氏がいるんだなって気持ちで学校に行けるのは楽しい。
 廊下で手を振って別れて教室に入る。友達の鈴木さんと、いふちゃんに求められて凛くんの話をする。適度に惚気てから、私からいふちゃんに寺濱との仲を訊いてみると、そちらもそちらのペースで仲よくやっているみたいだ。
「竜くんとさ」と寺濱をファーストネームで楽しそうに呼ぶいふちゃん。「昨日、朝早くからウォーキングしたんだけど、慣れないパンプス履いてきたから靴擦れしちゃって。そしたら公園までおんぶして運んでくれて、ベンチで絆創膏貼ってくれたんだよ! 人のいないすごい静かな公園だったからめっちゃドキドキして! 竜くん男子なのに絆創膏とかハンカチとかティッシュとかしっかり持ってんのよくない?」
「優しいねえ寺濱くん」と言いながら、こんなに女子っぽい顔のいふちゃんレアだな、本格的にぞっこんになると変わるんだな、と思う。
 鈴木さんみたいに、好きな人とかいなくても女子感強くてセルフネイルとか画像編集とか色々と上手くてキラキラしてる子はどうなるんだろう。
 寺濱の彼氏力高いエピソードをお腹いっぱいになるまで聞いた辺りでホームルームが始まる。夏休み前と変わらない感じで学校が終わって、凛くんと一緒に帰っていると、少し離れたところに坂さんと秋村霧奇の後ろ姿が並んでいた。
「そういえば、あのふたりは変わらず?」と私は訊く。
「うん。相変わらず坂は秋村にばっかり話しかけるし、秋村はちょっと困ってる」
「そっか」
 あのふたりもいつか付き合うんだろうか?
 
 
 休み明けの学校にもいふちゃんの惚気にも慣れていった九月中旬の夜、
「あの、俺、相談したいことがあるんです」
 と言われる。お義母さんにあんまり聞かせたくない話だそうで、坂さん絡みの相談かなと思いながら秋村霧奇の部屋に行くが、違う。
 恋愛じゃなくて、もっと広い人間関係の話だった。
「クラスでいじめられている人がいて。いじめている側に、その……仲のいい人がいるんです」
「じゃあそのいじめっ子とは関わんないほうがいいよ」と私は言う。「そういう、酷い人と関わり続けると、どっか染められるから。ナチュラルに、どこからどこまで普通の行いなのかとか、拡張されちゃうから。縁切りな」
「……友達として止めたほうがいいかなと思っていて」
「そうしたいならそうすればいい……とは言わないよ? それでいじめの矛先があんたに行っても、結局それは関わっているということで、やっぱり歪められることになるから」
「でも、クラスでそういうことが起こっているのが辛いし、それに他のクラスや学年の人までいじめる側に回っていて。何か変えたくて」
「気持ちはわからんでもないけど、なおさら、あんたにどうしようもなくない?」できる範囲でやりたいってことなんだろうけれど。「他学年ってつまり先輩もいるんでしょ。じゃあ、あんたか、あんたに言われて手を引いた友達がいじめられるだけでしょ?」
「……俺は別に、いじめられても」
「相手側が多いなら、あんたも標的に加わるだけじゃないの? いじめられてる子、あんた、それからもしかしたら改心しようとした友達が三人仲よくいじめられるかもしれないよ?」
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
「だから縁を切るんだって。刺激しない程度に距離を置く。それから、効果あるかわかんないけど、こっそり先生に言う。それくらいにしとかないと危ない」
「……ありがとうございます」
 ああこれ納得してないな、何かしら直接的なアクションをする気だなと私は思う。きっと、私ほどドライじゃないんだろう。それならもうそっちの選択だから、私として言えることもできることもあんまりない。
「もしも、何かあっていよいよ教室に居づらくなったら、私のクラスに来れば一緒に弁当食べてもいいよ」
 精々このくらいだ。
「本当ですか」
「私の友達の鈴木さんとかもいていいならね」
 ありがとうございます、と先ほどより安心したトーンで秋村霧奇は言う。私にできることはこれ以上ないから、あとは精々、悪影響を受けないように頑張ってほしい――と思ったところで、そうだ、と気がつく。
「ねえ、そのいじめる側の友達って、なんて名前? 私、うっかりその子と関わらないように気をつけたいんだけど」
「あー……ごめんなさい、もう関わっていて」
「え? 誰?」凛くん? いやまさか。
「寺濱です。他のサッカー部員と一緒に、色んな嫌がらせをしていました」
 私はそれを聞いて自室に戻って、どっちに先に連絡をするか迷って、凛くんに電話をかける。
『こんばんは、ハナ。急にかけるなんて珍しい、どうしたの』
「ねえ、寺濱とまだ仲いい? いじめやってるって聞いたんだけど」
『あ、それ知ってる。正直ドン引きしてる』
 凛くんそれ知ってたのに私には報せなかったんだ、と思ったけれど、別に報告義務はない。楽しい話題じゃないからという気づかいだったのかもしれない。
「お願い、寺濱と縁切って。悪い影響を受けてほしくない」
『言われなくても、だいぶ声とかはかけないようにしてるけれど。んっと、じゃあ班が同じになって一緒に作業するときは?』
「それは別にいい」しょうがないことだ。「寺濱と、不必要に関わらないでいてくれたら」
『わかった。ハナ、心配してくれてありがとう』
 それから雑談をして、おやすみをして電話を切る。とりあえず凛くんは大丈夫そう。問題はいふちゃんだ。いふちゃんは知っているのだろうか? 自分の彼氏がいじめに加担していることを? 知っていたとして、何もしない子だろうか……わからない。はっきりとした子だが、別にいい子ってわけじゃない。
 電話で伝えるのもよくない気がしたから、翌朝、学校の女子トイレに呼び出して言う。
「いふちゃん。寺濱、いじめっ子だから別れたほうがいいと思う」
「はあ?」いふちゃんはすぐに返す。「何? 友達だからってそんなことに口出していいと思ってる?」
 どうだろう? いいとは思っていないけれど、こんなこと言うのもどうかと思ってるけれど、でもそれでもするべき忠告ってあるはずだ。
「いふちゃんが、いじめやってる男子と関わるのが心配なんだよ」
「勝手に心配してればいいんじゃね?」
「ねえ、このこと、知ってたの? 知ってても変わらず好きなの?」
「そうだよ。何か悪い? 竜くんがどんな罪を犯していても揺らがない。それが愛だろ」
「でも、そんな人と一緒にいたら、いふちゃんも捻じ曲がっちゃうよ」
 そう言うと、いふちゃんは深く長い溜め息をついた。ずっと前からバケツに溜まっていた水を、ゆっくりと流しに捨てているみたいな。
「うるせえんだよ佐納」溜め息から少しして、腹立たしそうに吐き捨てた。「あの子は悪い子だから遊んじゃいけません? そんな男とは別れなさい? 過保護な親の予行演習でもしてんのかよ? 馬鹿じゃねえの。自分で勝手に避けてろ。他人の人間関係をコントロールしようとすんな」
 前からそういうとこ嫌いなんだよ。
 いふちゃんの、後志威風の語気に、もういいから私を傷つけちゃおうって気持ちを感じた。
「……あっそう。嫌いだったんだ。私のこと」
「おう。あのときもあのときもあのときもムカついてた」後志威風は駄目押しとばかりに言う。「大嫌いだった、マジで」
「あっそう。じゃ、お幸せにね、後志威風」
 舌打ちを残して、いふちゃんは女子トイレを後にする。私は個室で便座に座って、ホームルームのチャイムが鳴っても泣き続ける。ホームルームが終わる前に教室に入るけれど、鈴木さんは後志威風から何か聞いたのか、それとも私が明らかにトイレで泣いてきましたよって顔だからか気まずそうで、話しかけてくれない。
 秋村霧奇より先に私のほうが教室に居づらくなってるんじゃ世話がないね。
 あーあ。
 さて、いつメンを失った私は他の、あんまり合わない感じの友達とお弁当を食べてお昼休みを過ごす。秋村霧奇はもう何かアクションしたかな、と凛くんにメッセージを送ると、朝から教室で寺濱に注意をしたらしい。
 返答としては、「秋村には関係ないだろ」。それだけで、昼休みになって寺濱が何かしようとしているとかはないようだった。まだわからないけれど、いまのところは秋村霧奇への飛び火に発展する気配はないようだ。
 まあそれでよかった、頑張ったよ秋村霧奇、と思っていたら次の日から状況が変わってくる。いじめられている春城の上履きをサッカー部の二年生達が持っていこうとしているのを秋村霧奇が目撃し、先生に言えばいいものを直接注意しに行ってしまった。結果として秋村霧奇は三人がかりで殴られ蹴られ、小さな怪我と制服の汚れだけを得て教室にすごすご帰ることになってしまった。
 そしてそれ以来、サッカー部の一年生や二年生から廊下でわざとぶつかられる嫌がらせをされたり「へなちょこビビりくん」とか色々言い捨てられたりすることになった。
 もちろん秋村霧奇の周囲は気づき、坂さんも気づいて、ボディーガードと称して秋村霧奇にべったりくっついて学校生活を送り始める。坂さんは記憶力がよくて、秋村霧奇に嫌がらせした相手の外見の特徴と上履きの学年色をさっと覚えて、写真つきの生徒名簿を借りて照らし合わせて名前を特定して先生に密告した。
 一度、その逆恨みからか秋村霧奇の靴箱に毎日ゴミが入るようになったら、坂さんは早朝から監視して現場を動画で撮影して学年主任や校長に共有すると共に、「秋村霧奇への嫌がらせを本気でやめさせないとインターネットにアップします」と言って本気を出させた。
 そのほかにも色々やったらしく、秋村霧奇を標的としたいじめは避けられるようになった。しかし春城への嫌がらせは少し間を空けて九月末には再開された。坂さんはそれには我関せずだった。あくまで愛情が原動力じゃないとやる気が出ないのだろう。
「坂、本当にすごかったよ。」と凛くん。「なんでそんな頑張れるのか訊いたら、『文化祭でむっくんと楽しく周りたいから』だって」
 本気でそうなんだろう。
 秋村霧奇はもういじめを止めることは諦めて、凛くんのように寺濱へは距離を取る以上のことはせず過ごすようになる。
 一か月後には文化祭があって、私は凛くんと一緒に(サッカー部以外の)出し物を周ったり体育館で音楽系の部活の演目を楽しんだりした。あらかた周ってから、グラウンドでの企画『高校生の告白』に坂さんが出ると聞いて見に行く。
 着くと秋村霧奇も聴衆にいて、ああもう何言うかわかった、って思う。凛くんも同じように思っている、呆れたような顔をしている。
 ついに言うのだ。坂さんが、秋村霧奇に。
 
 
 エントリーナンバー七番、坂さんがステージの上で言う。
「むっくん! 秋村霧奇くん! 出会ったときから大好きです! 付き合ってください!」
 わっと盛り上がる。司会進行に呼ばれ、マイクを持たされた秋村霧奇は言う。
「ごめんなさい、本気で無理です」
 え、こういうのってそんなに強く断っていいの? って私も凛くんも他のみんなもびっくりひんやりするけれど、司会進行の人は「あ~残念! でも気持ちを伝えられてよかったですね!」と明るく努めながらマイクを回収しステージ上に戻る。
「坂さんお疲れ様でした。何かひとこと、ありますか?」
 坂さんは泣きそうな声で言う。
「傷つきたい気分です」
 お疲れ様、坂さん。
 凛くんは言う。
「坂ってなんか、ずっと一方通行だったね」
 悲しいけれどその通りだ。秋村霧奇は最初からずっと坂さんを拒んでいた。坂さんの貢献はあまりにも大きいけれども、それでも覆せない第一印象とか、恋愛的な好みとかがあるのだし、そこを責めるのもきっと間違っているんだろう。坂さんの想いを受け取らない、秋村霧奇に言いたいことはいっぱいあるが、言うべきじゃないってことくらいわかる。
 そうだ。秋村霧奇もまた、お疲れ様だ。
 文化祭が終わっていつもの学校が始まるけれど、凛くんによると坂さんは休んでいるらしい。フラれたショックが抜けないのだろうか。それともみんなの前で告白してフラれたから恥ずかしくなってしまったのかもしれない。集団からハッピーエンドを期待される状況を作ることで、強引にでも秋村霧奇に受け入れてもらおうとしたのかもしれないけれど、それは諸刃の剣だったということだろうか。
 坂さんは一週間まるまる登校しなかった。大丈夫かな、と思っていると、次の週から秋村霧奇が学校を休み始める。
 凛くんは言う。「秋村、坂がこなくなってから話したことのないクラスメイトに話しかけられたりお菓子もらってたりしてたから、楽しいのかなって思ってたんだけど」
 それを聞いてぴんとくる。坂さんが秋村霧奇の傍にいないことで、女子への牽制と同時にサッカー部の連中への牽制もなくなってしまったんじゃないか? それで被害があったか、ありそうな気がして怖くなってしまったんじゃないか? それこそ、坂さんがフラれた事実は全校規模で知られたのだろうから、坂さんがもう秋村霧奇のために頑張らなくなると予想されてもおかしくない。
 でもその流れで不登校になったら、登校したときに余計に目立つというか、弱そうに見えちゃうんじゃないの? 自室にこもることでネガティブな想像が膨らんで登校を再開しようとも思えなくなっちゃうんじゃないの?
 ちょっと話し合いたいな、と思う。
 自販機で温かいものを買って家に帰る。部屋のドアを叩く。「秋村霧奇。いる? 生きてる?」
「います」
「入ってもいい?」
「どうしてですか」
「入るよ」
 ドアに鍵はかかっていなかった。部屋のなかにはパジャマの秋村霧奇がいて、ベッドの上で上体を起こし木倉昨日子先生の短編集『ここから愚かな老婆は滂沱』を読んでいた。ああそれ面白いよね、短編集では三番目に好きだよ。じゃなくて。
「なんで最近、学校に行かないわけ? お腹痛いとか嘘でしょ」
「……本当にお腹が痛くて」
「嘘。坂さんがこなくなったからでしょ」
「嘘じゃないけど」秋村霧奇は言葉を選んでる感じの間を挟みながら言う。「坂さんがこなくなったからでもあります」
「……えっと、お腹が痛いし坂さんがこないから?」いや違う。因果関係がありそうだ。「坂さんがこなくなって、サッカー部の人達からいじめられるかもしれない不安で、お腹が痛いってことか」
「違うんです。サッカー部の人達は、たぶん俺がもう余計なことしなければ大丈夫だと思います」その読みが当たっているかはさておき、私の読みは外れたらしい。「坂さんがいなくなって……その、他の女子たちが、俺に話しかけてくるようになったんです。関わりがなくても、向こうから」
 言葉だけ聞くとモテ自慢みたいだけれど、秋村霧奇は心からしんどそうな顔をしているから茶化す気にはなれない。
「それが嫌でお腹が痛いの?」
「はい」
「……なんていうか、秋村霧奇あんた、積極的な女子がすごく嫌いってこと?」
「怖い、ん……です」捻りだすように言う。「たぶん、トラウマになっているんだと思います」
「トラウマ? 坂さんが?」
「俺が中学生のときに付き合っていた、六人は……同年代の女子に殺されたんです」
「え?」
 どういうこと? 交通事故だったんじゃないの?
 中学生がどうやって交通事故で大人を六人も殺したの?
「そんな話、お義母さんから聞いてないし、ニュースにもなってないはずだけど」
「舶来食品って大企業があるじゃないですか。あそこの取締役の孫娘だったから、交通事故の実行役を雇うことができたんです」
「な……なんで、そんなお嬢様が秋村霧奇を」
「六人のひとりが、本社の社員で。俺が、会社に、忘れものを届けに、行ったとき、一目惚れ、されてしまったんです」秋村霧奇は涙ぐみながら語る。自分が届けに行かなければこんなことにはならなかったと悔やむように。「マスクとか、して行ったんですけど。意味とか、なかったみたいで」
「落ち着いて落ち着いて。飲みな」私は自販機で買った飲み物を差し出す。秋村霧奇はそれをゆっくり飲みながら、ティッシュを取って拭う。「深呼吸してからでいいから、続き」
「……ありがとうございます、もう、大丈夫です」まだ大丈夫じゃなさそうだけれど、秋村霧奇は話を再開する。「えっと、それで、好きになられて。でも調べれば俺が六人の女性と付き合っていることはすぐに解るから、邪魔だったんでしょう、事故に見せかけて。殺して、殺した、殺されたんです」
「うんうん」正直、うんうんって聞けるような、よくある話では全然ないが。「それで?」
「邪魔者はいなくなったから付き合おう、って言われて。怖くて、逃げて、どこまで行っても追いかけてきて。困っていたら、父が助けてくれました」
「どうやって……?」
「父はその子を引き受けたんです。俺と父はすごく似ているし、きっと父のほうが魅力的だったから、その子は父と付き合い始めました」
 声も出ない。普通、恋愛ってそういう問題じゃなくない? 一目惚れでも、そんなに軽いものじゃなくない? 上位互換がいたら乗り換えるくらいの気持ちで人を六人も殺すなんて全然わからない。意味がわからない。
 怖い。
「父はその子を愛し、満足させてあげようとしました。でも父には他の恋人もいっぱいいたし、平等に扱うみたいな約束があったから揉めて。相手に地位があるからって物怖じしない人もいたからすぐには落ち着かなかった」
「そ……それで? どういう形に落ち着いた?」
「父はその子と心中しました」秋村霧奇は言った。「前日、父は言っていました。自分が心中するか、自分以外のみんながその子に殺されるかの二択だったって」
 私は理解する。何をって、秋村霧奇がここにいる理由を。私のお義母さんが秋村霧奇を引き取ると言って許された理由を。秋村家の人々が扱いに困っていた理由を。そりゃあ……こんなことが起これば、秋村霧奇の親代わりなんて恐ろしいだろう。お義母さんみたいに深く事情を知らない、でも虐待はしなさそうな部外者が立候補してくれたら、万々歳だろう。
 最悪だ。
 最悪の渦中に、秋村霧奇はずっといたのだ。
「俺に対して積極的に好意を向けてくる同年代が怖いんです」と秋村霧奇は言った。「だから、いつか繰り返すことになるんじゃないか、クラスメイトの誰かがとんでもないことをするんじゃないかって思うと、お腹が痛くなって」
「じゃあ坂さんも、あんないい子だったのに受け入れられなかったのも、そういうこと?」
「……はい」
 遣る瀬ない。秋村霧奇は過去の傷のせいで、自分に好意を持つ同年代の異性に心を閉ざしているのだ。坂さんはどう頑張ったって、どうしようもなかったのだ。私には関係ないはずなのに、なんだか切なく寂しい気持ちになる。泣きそうなくらい。
「お義母さんに言った?」
「いえ。言わないでください」
「どうして。男子校に転校したほうがいいでしょ」
「……男子だって俺のことを好きにならないとは限らないし」秋村霧奇は俯く。「言うときは自分で言います。まだ義母さんを心配させる勇気がないし、怖がらせるかもしれないし。俺の整理がつくまで待ってください」
 理由がわからないほうが心配だし怖いんじゃないの、と思うが、いまは従うことにする。秋村霧奇の心の問題だ。大事なところは任せるしかない。
「でも、あんまり授業を休んでいたら追いつけなくなるんじゃない?」
「教科書を読んでいれば、だいたいわかるので大丈夫です。宿題はネックですが」
 それはまた頭のいいことで。
 とりあえずそれくらいで話は終わる。これ以上は余計にしかならない。私はとりあえず、これくらいの距離感でいいんじゃないかと思う。凛くんにどこまで報告するか迷うが、過去に同い年の女子と色々あってトラウマあるみたい、くらいでいいかなあ?
 
 
 なんて考えて報告した翌朝、私は熱を出す。十一月になり寒さが増してきたからだろうか。お義母さんと凛くんに休む意を伝えてベッドに横たわり、余っていた解熱剤を飲んで寝て過ごす。トイレで廊下を通るときに秋村霧奇とすれ違う。今日も休んでいるのだ。うつさないようにしないと。
 大人しく眠っていると、十三時に目覚める。
 悲鳴に起こされる。
 何が何だかわからない。
 まだ怠い身体を起こして部屋のドアをそっと開け、廊下を見る。秋村霧奇の部屋のドアが少し開いていて、そこからベッドの軋む音が聞こえる。
 必死に唸るような声も聞こえる。口を何かで塞がれているみたいな。
 私は叫び出したくなるような恐怖を感じながら、スマートフォンでいつでも通報できるように準備しつつ、……どうしよう? 誰の悲鳴だったんだ、そもそも。
 秋村霧奇か?
 いや。もうちょっと高かった気がする。喚くみたいな。
 頭痛に耐えながら考えているうちに、音が少し変わってくる。軋む音だけじゃなくて、断続的に、肉と肉のぶつかり合う音になる。荒い息も微かに聞こえる。何?
 え、ヤッてる?
 私は迷いながら秋村霧奇の部屋を覗き込む。
「……え」
 思わず声が出てしまって、気づかれる。
 ベッドに横たわる秋村霧奇の口を塞ぎながら、全裸で跨る坂さんに気づかれる。
 何やってんの? なんで家の場所がわかるの? どうして家の鍵を開けられたの?
 坂智恵は私を少し見つめて、まあいいやとばかりに動きを再開する。顔が真っ赤だったけど、無感情だった。
 私は目ざとく見つける。坂智恵の、口を塞いでいないほうの手に包丁が握られている。運動神経のいい秋村霧奇を抑えつけるために用意したのだ。
 どうしよう。どうすればいいんだろう。
 警察に言って、着くのを待つ?
 そんな悠長でいいの?
 よくない。
 秋村霧奇は坂智恵とのセックスなんて絶対に望んでいないはずだ。きっとすごく怖いだろう。どうにかしないと。
 助けないと。
 私は自室に戻り、警察に通報する。住所と「同居人がレイプされているんです」と伝えるだけなのに口が震えて頭も舌も回らなくて時間がかかるが、理解される。私はそれと並行して、部屋の隅に適当に立てかけておいた木刀を手に取る。お義母さんのお土産。
 深呼吸をして、秋村霧奇の部屋のドアを音が立たないように開けて、突入する。
 振り向いた坂智恵のおでこに、勢いを乗せて木刀を振りかぶる。
 命中する。
 坂智恵は両手で頭を抑えながら呻く。包丁がその拍子に手からすっぽ抜ける。いける。
 木刀を今度は側頭部に当てながら、秋村霧奇に言う。
「坂の腰、持ち上げて! 抜いて! 大丈夫だから!」
 秋村霧奇は坂智恵の腰をおずおずと触るが、力が入らないみたいだった。私も両手を使って腰を掴んで、叫びながら引き抜き、床の上に放る。
 私は高校生男子の性器を初めて見る。それは勃起して(させられて?)いたし、血まみれになっていた。
 グロテスクさに叫びながら、私は察する。あの悲鳴は坂智恵のものだったのだ。思い出すのは、文化祭でフラれたときに言っていた「傷つきたい気分です」という言葉。
 これが彼女の求めた傷なのだろうか?
 なんて考えている場合じゃなかった。血まみれの男性器の非日常感を前に釘づけになっている場合じゃなかった。
 鈍い衝撃が私の頭を襲う。そうだ、坂智恵を引き抜くのに両手を使ったから、木刀は私の手にないのだ。そんなの拾われないわけがないのに。熱のふらふらも相まって私は俯せにぶっ倒れる。
「花色さん!」
 秋村霧奇が叫ぶ。ただでさえ頭痛があるのに、もうガンガンしてわけがわからない。さらに感覚が追加される。背中が熱い。
 どくどくと血が出ていく感覚がある。そういえば包丁もあったっけ。病人のくせに無理しないほうがよかったかな、と思いながら私は後頭部を木刀で殴られて、気を失う。守れなくてごめんなさい。
 
 
 目が覚めたら病院にいて、頭と身体に包帯が巻かれている。
 お医者さんと、お義母さんが私の覚醒を見て安堵の息を漏らす。
 私の頭はこぶができた程度で、背中も深くまでは刺さっておらず大事には至らないらしい。
 発熱についても睡眠によって病み上がりくらいの状態にはなっているそう。
 よかった、とはまだ言えない。
「あの。秋村霧奇、は。無事ですか」
「身体的には擦り剥き以上の大きな怪我はありません」とお医者さんは言う。
「そうですか、よかった」
「しかし、精神的に深いショックを負っています」
「そう……ですか」
 それはそうだろう。
 女子から男子だろうとれっきとした強姦だし、その前から傷だらけの心を持っていた秋村霧奇だ。
 というところまで考えて、こんな事態だしお義母さんに秋村霧奇の精神状態についての情報共有をしておくべきなんじゃないか、と思った。
 お医者さんからの説明と警察からの事情聴取を終えた次の日、お見舞いにきたお義母さんに秋村霧奇の現状について訊く。
「霧奇くんがね、色々と話してくれたの」とお義母さんが涙声で話し始めるのは、秋村霧奇からも聞いた中学時代の話。やっぱり知らなかったらしい。「あの子が、そんなに、大きなことを抱えてるなんて、知らなかった」
「お義母さん……そうだね、あいつ、だから不登校になってたんだよ」
「うん。それに」お義母さんは涙をハンカチで拭きながら続ける。「坂さんが、まさか」
「そうだね、坂さんがまさか家に来てあんなことするなんて」
「そうじゃなくって。プールで霧奇くんを溺れさせたのも坂さんだったなんて」
「……えええ?」
 突然そんなことを言われるとは思っていなくて驚いた。え? 坂智恵があの日、秋村霧奇を溺れさせた? 本当に?
「霧奇くんが言ってた。坂さんがプールで急に潜ったと思ったら、誰かから足首を掴まれて引きずり込まれたんだって。それで溺れたんだって。でも、証拠もないし、違う可能性も完璧には否定できないから、誰にも言えなかったって」
「え……え、ちょっと、ちょっとちょっと、だって、人工呼吸までして……みんなそれで、坂さんいい子だなあって……私もお義母さんも……あ」
 それが狙いだったんだ。
 人工呼吸とはいえ、口づけをしたという事実を作ること。家族同然の私やお義母さんに、秋村霧奇の命の恩人として気に入られること。
 そのために、秋村霧奇に溺れてもらわなきゃいけなかった。
 そのうえで、堂々と秋村霧奇の隣に居続けた。
 ありえない。
 悍ましい。
 気持ち悪い。
 そして、そんな秘密を抱えたまま私やお義母さんの坂智恵への賛美を聞かなければならなかった秋村霧奇の気持ちを思うと、胸が苦しくなる。
「あとね、花色。霧奇くん、花色に、ありがとうって言ってた」
「……ごめん。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 ここに本人がいないのに、耐えきれなくなって泣きながら謝ってしまう。
 自分を落ち着かせるために、自責から逃げるために。
 人として恥ずかしい。
 そんな私の頭をお義母さんは撫でる。
「霧奇くん、転校させなきゃね。若い女の人、怖いって。共学は絶対無理だから」
「うん」それから私は言う。「私も、距離、取らなきゃ」
「そうだね。でも、花色なら大丈夫かもね」
「どうして」
「霧奇くんが言ってた。花色は、霧奇くんのこと男子として見ていないから、恋愛とか求めてこないから、ずっと安心して一緒にいられたって」
 お互いひとしきり泣いたあと、お義母さんは病室を出る。お医者さんからPTSDなどの症状や傷口や熱は大丈夫かという確認をしてもらう。
 病院の晩ごはんを食べる。
 夜になって、独りの部屋で私は眠れずに泣いている。
 私は私が許せなくて泣いている。
 こんな自分は死んでしまうべきだと思う。
 だって唐突だし、意味不明だ。
 罪深い。
 全部が最悪に台無しじゃないか。
 関わらないための理由がなくなったからって。
 一緒にいてもいいかもしれないって嬉しさと、痛みで初めて気がつくなんて。
 錯覚であってほしい。
 私には凛くんがいるのに。
 それでもそんな凛くんのことをここまで考えていなかったことに気がついてしまったから、いま誰がいないことが寂しく切ないか自覚してしまったから、近ごろ誰のことをずっと考えていたか理解してしまったから、現実をここで認めるほかない。
 

 私は秋村霧奇に恋をしている。



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