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龍神考(27) ー春日大社創建の時代背景ー

春日大社創建の季節的背景

 前回、天孫降臨神話と春日大社の御由緒にある信仰思想を季節の流れに当てはめてみました:

・出雲の大国主命の下に全国の神々が参集する神在月→新暦10月下旬〜12月上旬

・武甕槌命による大国主命の天孫への国譲り→12月22日冬至の一陽来復

武甕槌命の御本社(大宮)への遷座→神護景雲二年(768)11月9日己卯(新暦12月22日冬至)→直後の申の日=11月14日(小望月)

武甕槌命の御蓋山降臨→神護景雲二年(768)1月9日甲寅(新暦2月1日立春直前)→直後の申の日=1月15日(望月)

猿田彦神(春雷)の天孫(春の太陽=春日)降臨案内→春分の七十二候「雷乃発生」

勅祭「春日祭」(春の太陽の祭)の別名「申祭」(雷の祭)→旧暦二月申の日(現在は3月13日)

・御蓋山降臨と大宮遷座→申(雷)年の申(雷)日と小望月か望月が重なる前の九日小望月と望月(ほぼ満月か満月=太陽光の最大級の反映)と申(雷)の組み合わせ
「九」「竜蛇」の象形、「雌竜」の意味
 
 このように武甕槌命の御蓋山降臨と大宮遷座の日付には非常に深いものがあり、仮に御蓋山降臨の日付にも人為的な設定があったとすれば、相当深く考え抜かれた形跡が窺えます。

 それでは、このような日付で武甕槌命の御蓋山降臨と大宮遷座が行なわれた時代とはどのような時代だったのでしょうか?


春日大社創建の時代背景

 神護景雲二年(768)は女帝、48代称徳天皇の御代。
 称徳天皇は46代孝謙天皇が重祚(二度目の即位)されての諡号。
 つまり孝謙天皇と称徳天皇は同一人物です。

 この時代の最大の特異性は、女帝称徳天皇の寵愛を受けた僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が皇位を狙い、男系による皇位継承の危機が現実のものとなっていたことでした。
 しかしこの企みは頓挫し、称徳天皇崩御の後に49代光仁天皇が即位されます。

 以下にこの時代の流れを概観してみましょう(ウィキペディアの「聖武天皇」、「安積親王」、「孝謙天皇」、「光仁天皇」の記事を参考):

1)46代孝謙天皇=48代称徳天皇45代聖武天皇を父とする阿部内親王

2)聖武天皇と光明皇后の間にご誕生の基皇子(もといのみこ)が生後間もなく立太子なさるも翌年夭折

3)聖武天皇と県犬養広刀自の間の安積親王(第二皇子)に立太子の資格発生
*安積親王が立太子されなかったのは、聖武天皇が藤原氏出身の皇妃が産んだ皇子による皇位継承をご希望だったためとの説もあり

4)天平十年(738)に阿部内親王が安積親王を差し置いて史上唯一の女性皇太子
女性天皇は未婚か未亡人ゆえ、皇位継承問題が称徳天皇崩御まで未解決

5)天平十六年(744)に安積親王急死(毒殺説あり)

6)安積親王急死直後に聖武天皇は病で重体、天平勝宝元年(749)譲位

7)阿部内親王が46代孝謙天皇に即位:天平勝宝元年(749)〜天平宝字二年(758)

8)孝謙天皇は47代淳仁天皇に譲位して太上天皇に

9)天平宝字四年(760)孝謙太上天皇と淳仁天皇は小墾田宮(奈良県明日香村)へ

10)天平宝字五年(761)孝謙太上天皇は保良宮=「北京(ほくきょう)」(滋賀県)へ

11)孝謙太上天皇は保良宮(北京)で病に倒れ、看病した弓削道鏡への寵愛が始まる

12)孝謙太上天皇は、弓削道鏡厚遇を問題視された淳仁天皇を廃位

13)天平宝字八年(764)48代称徳天皇即位(重祚)、以降道鏡の権勢は増長

14)神護景雲二年(768)武甕槌命が御蓋山に降臨、左大臣藤原永手が春日大社創建

15)神護景雲三年(769)に道鏡への皇位継承を示す宇佐八幡宮神託が報じられたが、勅使和気清麻呂に八幡大菩薩はこの「神託」を否定、道鏡皇位簒奪の企みは頓挫

16)同年、称徳天皇は道鏡寵愛の象徴、由義宮(大阪府八尾市)に行幸

17)神護景雲四年(770)2月称徳天皇は再度由義宮行幸翌月に病に倒れ、8月崩御

18)38代天智天皇の第七皇子の志貴皇子(志紀皇子)と太政大臣紀諸人の娘の紀橡姫の間にお生まれで、凡庸・暗愚を装っておられた白壁王が62歳の史上最高齢で49代光仁天皇として即位(在位:770〜781)


 2)基皇子夭折と5)安積親王急死は不自然で、阿部内親王が史上唯一の女性皇太子になられたのも極めて異例であり、これら一連の流れの当初から皇統断絶の企みがあったのではないかと私は疑っています。
 そのような企みが切迫した状況だったからこそ、聖武天皇は生後間もない基皇子を立太子させられた可能性もあります。
 安積親王急死後の聖武天皇重体にもいろいろ考えさせられるものがあります。

 4)*の男系皇位継承問題が称徳天皇崩御まで未解決のまま残ったことは当然で、皇位継承資格のある男系男子を差し置いた女性天皇誕生は皇位継承問題の解決にはまったくならず、むしろ混乱を招き、皇祖天照大御神の御孫の降臨から始まる地上(日本)における皇統の断絶を危機に陥らせることを、歴史は明示しています。

 つまり女性天皇の御代は構造的にそうした不安定さがつきものですが、はたして称徳天皇の御代に道鏡による皇位簒奪の企みが顕著となったのでした。

 これは、御孫の邇邇芸命の男系子孫が日本で永続することを望み、邇邇芸命に降臨をお命じになった天照大御神に対して、文字通り天に唾する行為になります。

 このことは日本の現状にとって示唆深いものではないでしょうか?
 
 やむなく女性天皇が即位されたこともあり、素晴らしいご事績を残されたとしても、あくまで男系皇統維持のための中継ぎとしての即位が大前提だったのです。

 それ故に女性天皇は未婚女性や未亡人に限られていたのです。

 天皇を父とするある女性皇族を「優秀」だからといって、男系皇位継承資格者を差し置いて女性天皇に推し、あるいは結婚後も皇籍に残すために法制度まで変えることは、法治国家のやることではなく、独裁国家で幅を利かす特定の個人を優遇する人治主義と変わらないことではないでしょうか?

 仮に女性天皇が誕生し、なし崩し的に結婚もでき、さらに女系天皇=他の男系になってしまえば、それは人皇初代神武天皇以来男系で続いてきた皇統の断絶であり、歴代天皇があっての日本という国家の乗っ取りや転覆を意味します。

 歴代天皇とともに紡がれてきた日本の歴史は過去の遺物となり、女系(他の男系)エンペラーやキングの下の新国家によって隠蔽され、忘却させられるでしょう。

 古事記、日本書紀を始めとする神話も同様の道を辿り、それらに基づく日本全国各地の神社と神仏習合の歴史を持つお寺はただの観光施設となり、各種神事、祭事も生きた信仰の裏付けのない、当然神仏の感応も伴わない、魂の抜けたイベントになり、早々に廃れていくでしょう。

 またこれらの信仰と密接な関係の下で生まれ、発展してきた能楽や歌舞伎などの芸能、華道、茶道、香道、書道、武道、それらと共に発展してきた物作り(刀剣、陶磁器、その他諸々)などの文化も精神的支柱を失い、見せ物化してしまうことになります。仮にすべてが同じ末路を辿らなくとも、大半はそうなるでしょう。

 このことは、皇室を失い、伝統宗教が迫害され、代わりに共産主義という新宗教と「優秀な指導者」の個人崇拝を強要されたソ連時代を経た後の旧ソ連諸国を実際に目の当たりにしてきた経験に基づいて、取り返しのつかないことにならないようにとの強い思いから述べていることでもあります。

 法制度の改変による女性天皇や女系天皇の実現は、共産主義の暴力革命と方法が異なるだけで、本質的には同じものである点に気づいていただきたいです。

 女性宮家創設も結婚後の女性皇族の皇籍残留も類似の危険性を孕んでいますが、このような案にまったく異論も出さない政治家たちに日本の歴史や伝統文化、国家の本質、皇室と伝統的な宗教を失った諸外国の歴史と現状にどれほどの理解があるのか?

 あまり理解がないとしても、女性宮家や女性皇族の終身化が女性天皇・女系天皇実現に向けた政治的橋頭堡となり得るという予測すら、「政治家」でありながらできないのか?

 それとも特定の誰かを利する独裁国家の人治主義のような発想で確信犯的な主張をし、または傍観しているのか?

 ……等々の疑問を抱かざるを得ません。

「安定的皇位継承」が目的ならば、現在の皇位継承順位を厳守した上で、旧宮家で男系で皇統につながる男性の方々の法律による皇籍復帰を優先すべきであり、次にそのような方々との婚姻や養子縁組に限るべきでしょう。

 古来わが国の皇室制度は他の男系の影響を排除するように維持されてきました。これを仮に「差別」というなら、「女性差別」ではなく「男性差別」です。

 そもそも「公務の担い手が少ない」なら、女性宮家創設や女性皇族終身化の前に公務を大幅に整理、縮小し、祭祀を中核に置いた再編をまず行なうのが筋ではないでしょうか?

 歴代天皇と皇室は、何よりもまず古来の信仰と祭祀に基づいて護持されてきたのですから。


 ではここから、孝謙・称徳天皇時代の流れを神話に照らすと、どう解釈できるかを試みてみましょう。


孝謙・称徳天皇時代の神話的解釈

「天孫」は広義に解釈すれば歴代天皇であり、「天孫降臨」とは皇位の継承です。

 現在、皇位継承資格者は皇嗣殿下、その御長男の悠仁親王殿下、常陸宮正仁親王殿下の御三方がいらっしゃるのに、皇位継承問題を騒ぎたて、「父系」なる概念を持ち出して、今上陛下の次に女性天皇の擁立を主張、議論、企むことは、皇祖神、天照大御神の神慮に叛くことです。

 天照大御神を崇敬することと、女性天皇・女系天皇論を主張することはまったく相矛盾することになります。

 日本の現状と孝謙・称徳天皇の時代を神話に照らして言えば、天照大御神に降臨を命じられた御子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が地上を覗かれると、騒々しくて降臨には難しい状態にあることを天照大御神に報告された状況、つまり天照大御神の神慮の実現が難しい状況ということになります。

 これを受けて、天照大御神は「天孫降臨」、広義では地上(日本)における永続的な男系皇位継承が可能になるように地上を整えることを命じられ、その神勅を遂行されたのが武甕槌命だったのです。

 しかし11)〜13)称徳天皇の御代に道鏡による皇位簒奪の企みが顕著になってきたので、14)天孫降臨の地ならしをされた武甕槌命が御蓋山に降臨され、春日大社の創建に繋がったのです。
 そして春日大社創建を機に、道鏡の運命は如実に暗転します。

 春日大社創建の翌年、15)あたかも道鏡への皇位継承が神慮だとする「神託」が宇佐八幡宮で降りたとされましたが、勅使の和気清麻呂が確認すると、それは神慮でないことが判明し、道鏡による皇位簒奪の企みは頓挫します。

 16)〜17)それでも称徳天皇は同年と翌年に道鏡寵愛の象徴である由義宮への行幸を繰り返されたところ、二度目の行幸の翌月に病に倒れ、夏に崩御されました。

 称徳天皇が道鏡への皇位継承を首謀されたか否かは議論があるようですが、仮にただ利用されたとしても、その崩御は神々の神慮だったのではないでしょうか?

 称徳天皇の崩御までの経緯を追ってみて、住吉大神の逆鱗に触れた仲哀天皇崩御がすぐ思い出されたからです。

 14代仲哀天皇が今の福岡市東区香椎で熊襲征伐のために神慮をお伺いになると、新羅遠征の神託が降りましたが、神託に疑いを抱かれ、神慮を尊ぶ真剣なお気持ちが薄れた直後に崩御されました。

 その神は住吉大神と判明し、住吉大神はすぐに、神功皇后の胎内に宿られていた仲哀天皇の皇子が男子故に皇位継承すべき旨を、武内宿禰に御託宣になりました。

 称徳天皇は道鏡らに利用されたとしても、神々の最悪の祟りは、道鏡ではなく、女帝に向けられました。

 このあたりの機微は人智の及ばぬ神慮によるものですから、私には不明ですが、天照大御神の子孫に当たるからこそ、祟りも激しかったのでしょうか?
 
 こうして18)男系皇統断絶の危機を乗り越えた神護景雲四年(770)、凡庸・暗愚を装っていらした、すなわち世評は良くなかったと思われる白壁王が、史上最高齢の62歳で49代光仁天皇として平城京大極殿で即位、70歳を過ぎても政務に励まれていました。

光仁天皇と大安寺

 当時としては天寿(満72歳)を全うされた光仁天皇は長い不遇の時代に竹筒にお酒を注いで嗜まれていたことから、奈良の大安寺では延命長寿の「癌封じの笹酒」が振る舞われる光仁会が1月23日に営まれているようです(ウィキペディア「大安寺」参照)。

 かつて大安寺について何の知識もなかった私は、奈良市の知人に誘われるままに参拝したことがあり、笹酒をいただきました。私自身は体調不良の時などに御神酒をいただく程度ですが、笹酒からもご利益を感じた覚えがあります。

 その大安寺に向かう途中、車窓からふと目に入った小さな神社がずっと気になっていました。

 社号も御祭神も不明だったので、ネットでもなかなか調べられませんでしたが、2022年夏、春日大社の末社龍王神社の8月8日の例祭に参列のため奈良を訪れていた前日の夕刻、件の知人の案内のおかげでようやくこの神社に辿り着きました。

 社号は「御霊神社」で「元石清水八幡宮」、御祭神は高龗命(たかおかみのみこと)と善女龍王命(ぜんにょりゅうおうのみこと)の二柱。

上:大安寺の御霊神社(高龗命と善女龍王命)の入口/下:境内(2022年8月7日、夕立の直後)



 大同二年(807)年に大安寺の行教和尚が寺の鎮守として宇佐の八幡大菩薩を勧請した際、お供え用の「石清水」(御手水閼伽井(あかい)の水)の湧水をここに得て、御井戸の守護のために「水の神」高龗命、と「雨乞、水乞、止雨乞の神」善女龍王が祀られた旨が、境内の「御霊神社由緒記」にありました。

「龍神考」では「霊」の旧字「靈」は「雨+口口口+巫」の成り立ちから、太陽を祀る日巫女の「云う」祈りに感応した太陽が海を温め、「云」と風が昇り、雨雲をもたらし、また雨雲を遠ざけて降雨や止雨につながる様を示し、降雨・止雨を祈る力が本来の「靈能力」であると繰り返してきましたが、大安寺の御霊神社の社号と御祭神もこのことを示唆しています。

 これと同じことは、前回触れました春日山の能登川と佐保川の分水嶺に祀られる鳴雷(なるかみ)神社(天水分神:あめのみくまりのかみ=春日龍神)とその前の龍王池への雨乞い信仰にも見られます。

 龍王池は平安初期に采女の入水を嫌った春日龍神が猿沢池から室生の龍穴(奈良県宇陀市)に移動された際の中継地で、室生龍穴神社の御祭神が今は高龗神、昔は善如龍王だったことから、春日龍神=天水分神≒善如龍王(善如龍王)≒高龗神=大安寺御霊神社の御祭神、すなわち大安寺御霊神社の御祭神は春日龍神とも言えます。

 そして大安寺御霊神社は元石清水八幡宮の別名があるように、ここの靈水は京都の「男山八幡石清水に通じて」いることから、春日龍神(高龗命≒善女龍王)は京都=平安京の裏鬼門、石清水八幡宮の守護にも寄与しておられることが窺えます。

 その平安京への遷都をなされたのが51代桓武天皇(光仁天皇の第一皇子)であり、春日大社創建翌年の宇佐八幡宮神託事件で道鏡への皇位継承を阻止した和気清麻呂が平安遷都に貢献したことなどを思うと、大安寺の光仁会と笹酒と御霊神社には、平城京と平安京、奈良時代と平安時代の靈的なつながりが浮かび上がってきます。


光仁天皇と秋篠寺

 光仁天皇は、伎芸天像と国宝の本堂で有名な秋篠寺の開基とも伝えられます。
 その秋篠寺では桓武天皇の五七回忌も営まれ、光仁・桓武両帝の男系の親子関係の深さが感じられます。

  このように、光仁天皇と大安寺や秋篠寺には深いご縁が窺えますが、その生母の紀橡姫についてのウィキペディアの記事には、「光仁天皇(今日の皇室の祖)」とあります。

紀 橡姫(き の とちひめ、生年不詳 - 和銅2年9月14日709年10月21日[1])?[2])は、飛鳥時代女性紀諸人の娘で、志貴皇子(施基親王)の光仁天皇 (今日の皇室の祖)、難波内親王の生母。贈皇太后

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「紀橡姫」の記事より

 ここで、孝謙・称徳天皇以降の皇位継承問題について簡潔に整理しましょう:
阿部内親王(孝謙天皇・称徳天皇)が男系皇位継承有資格者(安積親王)を差し置いて「父系」の女性皇太子女性天皇になり、譲位後に男系天皇を廃位させて重祚

称徳天皇は道鏡への皇位継承、すなわち人皇初代神武天皇以来の皇統断絶に利用されかける

春日大社創建以降は道鏡の皇位簒奪が頓挫、それでも道鏡への寵愛を続けられた称徳天皇は程なくして崩御

春日大社を氏神とする藤原氏の祖=中臣鎌足がお支えした天智天皇系光仁天皇(今日の皇室の祖、生母の出自は紀氏)が即位

光仁天皇は秋篠寺を開かれ、その御遺徳は大安寺に受け継がれ大安寺御霊神社(高龗命≒善女龍王=春日龍神)は石清水八幡宮を通じて平安京を守護

⑥平安遷都をなされた桓武天皇(光仁天皇第一皇子)の五七回忌は秋篠寺で厳修


 以上の皇統断絶の危機から超克までの過程に登場する言霊や字霊に注目すると、日本の現状に相通じるものが色濃く感じられないでしょうか?

「歴史は繰り返す」と云いますが、特に日本の歴史の本質的な部分は言霊と字霊によって紡がれ、繰り返されるものだという感慨を覚えます。

 ちなみに、武甕槌命は御蓋山の浮雲峰に来臨される際、春日大社の奥の院付近を通過されたと、式年造替記念行事の一つに参加した際に説明を受けましたが、その春日大社の奥の院とは紀伊神社

 紀伊神社の角に善女龍王の尾珠が納められた龍王珠石も祀られています。


 若宮十五社めぐりの第11番納札社でもある紀伊神社に至る奥の院道には、第12番納札社の伊勢の神宮を遥拝する磐座、第10番納札社の宗像神社(市杵島姫命=天河弁財天)もあります。

 祖父の代から私の学生時代までの本籍地の産土神は宗像大神でした。芸能の神でもある宗像大神は天照大御神と須佐之男命の誓約(うけひ)で最初にお生まれの三柱の女神で、天照大御神のご長男の天忍穂耳命の姉神に当たるからなのでしょうか、宗像大神を祀る神社ではしばしば皇統護持や国防も御神徳に掲げられています。

 そうしたことからも、各地の社寺を巡る際には本殿・本堂や境内社の宗像大神や弁才天にはできる限りお参りし、皇統護持と国防の祈りを捧げてまいりました。

 そんな中、2021年5月21日己巳、福岡市東区名島の名島弁財天の法要に参列、隣の名島神社(宗像三女神)にもお参りしましたところ、平城京趾に復元された大極殿の内壁に描かれているような尾を長く引く雲を目にしました(下記リンク先参照)。


名島弁財天の己巳法要参列と名島神社参拝の後に拝んだ飛雲(2021年5月21日18時過ぎ撮影)


「雲」という字は「雨」と「云」から成り、「云」は立ち昇る雲の象形で、言葉を発する意味で「云(い)う」とも読みます。

 人間の「云う」祈りに太陽神が感応して温めた海から立ち昇る「云」が「雲」となって雨をもたらすことが、「云」の二通りの意味の背景にあるとも繰り返し述べてきました。

 そうすると神々は祈りを「云う」私たちに対して、「雲」という形で何ごとかを「云って」答えてくださっているのかも知れません。

 そのような考え方が、「瑞雲の発現により」「神護景雲」に改元された歴史にも窺えないでしょうか?(ウィキペディア「神護景雲」参照)。

 そうしたことからも、今上陛下から皇嗣殿下、悠仁親王殿下へ皇位が継承されていくことを祈った後に目にしたこの瑞雲に、皇統が現行の皇位継承順位により紡がれていくことへの「神護」を感じた次第です。



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