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禅語を味わう...017:一雨潤千山

一雨千山いちうせんざんうるお


いきなり、私事になりますが、このnoteに取り組みはじめたのが、2年前...
勢いよく書き始め、最初は週に1本、次第にペースが落ちて、月に1本。
去年の1月30日を最後に更新が停まっておりましたが、御護りさせていただいている恵林寺の大切な行事、『武田信玄公生誕五〇〇年・四五〇回忌』も何とか無事に終わり、一息をついたところで、気を取り直して再開といたします。

季節は6月も後半...
このところ、激しい雨のために全国各地でさまざまな被害が出ている様子が報道されています。その度に、自然の猛威を前にしては、わたしたち人間にできることも限られているのだ、ということを実感させられます。
さて、標題の言葉は、そんな自然の猛威ではなく、めぐみとうるおいをもたらすいつくしみの姿を指しています。

一雨千山を潤す...

さて、この禅語、「一雨」といいますから、通り雨のイメージがわいてきますね。
カラッと晴れた好天の日、黒い雲がたちまちに空をおおい、湿った風がほおでると、たちまち大粒の雨がザァーッと降りしきります。ゴロゴロゴロッ、と、雨音に混じって雷鳴がとどろいているかもしれません。
しかし、やってきた時と同じように、突然雨あしは弱まり、辺りはみるみる明るさを取り戻し、つい今し方の空模様がうそのように晴れ間がひろがります。

さて、こういう時ほど、身の回りの世界が美しく輝いて見える時はありません。 乾いてほこりっぽかった空気は澄み渡り、たっぷりと水気を含んだ木々の葉や草花たちはみずみずしく生気を取り戻し、露は キラキラと太陽の光を受けて輝いています。 石も、大地も、しっとりと濡れて洗われたように綺麗きれいな姿を見 せてくれます。そして、「千山」つまり見わたすかぎり、遠くの山々も、うるおいに満ちた緑色に輝いています。

生きとし生けるすべてのものがよみがえり、いのちを謳歌おうかしているかのようです。 「潤す」という言葉がぴったりの見事な光景...たった数分の通り雨によって、辺りの様相は一変します。
さっと、駆け足のような通り雨は、辺り一面、見わたすかぎりの世界を潤し、改めてその本当の姿、その本来の美しさを目の当たりに見せてくれるのです。

  一雨、千山を潤す...

この、魔法のような働きは、しかし、あたりまえのような日常の中の風景でもあります。特に、夏の今頃の時期にあっては、何も特別なことでもなく、ただ、ひとしきりの雨が駆け足で通り過ぎただけのことなのです。
雨は、すべての生き物にとっての、いのちの源です。大地と、大地に根付く、生きとし生けるもの、すべてに恵みをもたらすものです。その恵み、その慈しみの雨が、あたりまえのように降り注ぐ...
しかし雨が、恵み、 有り難み、いつくしみとして意識されるこ とは、むしろ少ないものです。 だからこそ、今の季節にはあたりまえ のような通り雨、見慣れたひとしきり の雨、そしてその後の爽やかな世界に、 もう一度心を寄せてみる必要があるの です。

美しく、素晴らしい世界、私たちはその理想の世界を、「仏世界ぶっせかい」「浄土」「極楽」といった、自分たちとは縁とおい、「仏様の世界」というイメージに託してきました。 しかし、ひとしきりの雨が通り過ぎた後の景色が、私たちの心を動かすように、見慣れたはずの、ありきたりの景色の中に、これ以上はないほど美しく、素晴らしい世界の秘密が隠されているのです。

仏教では、雨の恵みがいのちを育む姿を借りて、仏教の教えが人の心をみずみずしく潤し、生き生きと蘇らせる様子を、「法雨ほうう」つまり「仏様の教えの法の雨」、あるいは「慈雨じう」つまりみほとけの慈悲の心から溢れ出て降り注ぐ「慈しみの雨」にたとえてきました。
しかし、私たちの生きている 世界を一変させるひとしきりの雨が、ありふれたものであるのと全く同じように、仏教の教え、仏教が教える慈しみの心は、何も特別なことを教えているわけではありません。 ただ、あたりまえのことをあたりまえにやっていく...
人の心を思いやり、自分にも、他人にも、親切にする。そして、何事に対しても感謝の気持ちを忘れない...
まさしく、こうしたことが「法の雨」「慈しみの雨」、私たちの 心を喜ばせ、生き返らせる「甘露かんろの法雨」なのです。
もちろん、そうは言っても、こうしたことは、決して簡単にできるものではありません。失敗しながら、反省しながら、それでも気持ちを入れ替えて、また取り組む...そんな繰り返しが必要なことです。
しかし、だからといって、誰もできないような 特別なことを要求しているのではないのです。
大切なことは、美しく、素晴らしい世界、理想の世界を遠くにおいてしまわないこと。
突然の通り雨で服はべたべた、どこかの家の軒先のきさきで、時計をにらみながら雨宿り...
しかし、こんな目にっても、ひとたび雨 が上がって、さわやかで輝くような世界がひろがれば、誰もが「ああ、綺麗きれいだな...」と足を停めて、素晴らしい世界の景色に見入ってしまうはずです。

仕事で急いでいる人にとっては迷惑な通り雨も、いのちをはぐくむ恵みの雨、慈しみの雨であることには変わりがありません。 雨宿りをしている私たちが、自分たちの都合、自分たちのはからいに囚われて、いらいら、やきもきしている間に、その恵み、その慈しみをたっぷりと受け止めた周りの世界は、輝くような 自分の本当の姿、いのちに溢れた素晴らしい姿へと自分を変貌へんぼうさせているのです。

私たちも、自分たちの都合、自分たちのはからいに、少しの間ストップをかけて、私たちの周りにある様々な「一雨」の恵み と、「千山」の潤いに心のアンテナを向けてみたいものです。
そして、できることならば、自分自身も「千山」を潤す名もな き雨に混じって、少しずつでも自分の周りにとって潤いとなる ような生き方を心がけていきたいものです。

写真:工藤 憲二 氏


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