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『灰のもと、色を探して。』第6話:遭遇

 少し、ゆっくりしすぎた。
 灰をすくい、皿にかけて火を消す。消えたあたたかさに、すぐさま恋しさを覚えてしまう。
 空を見あげる。雲の色合いからして、今は昼をいくらか過ぎたところだろうと思った。夜まではまだ猶予があるが、そこまで悠長にしてもいられない。
 顔が冷えていき、ヒューは次第に現状の悪さを認識していく。本日の寝床が、まだ確保できていなかった。早く旅を再開できるよう、慌てて用具を袋へ詰めこむ。
 早歩きで、建物群へむかう。外から見る限りでは脆そうな建物しかないが、なかには堅固なものも残っているかもしれない。できれば、屋内で眠りにつきたかった。
 慣れてはいるが、降灰のなかで寝るのは好きではなかった。積もるのを避けるために顔へ布を当てねばならなく、息苦しい。寝相が酷い時は布が顔からずれてしまい、鼻や口が灰を吸い、むせて目が覚めるのだ。
「どうしても寝床に適したところがなかったら、さっきの傘に戻ればいいかな。戻るのが面倒だけど、灰を飲むよりは断然ましだもの」
 念のため下策を用意しながら、歩を急ぐ。
 灰の積もった、四角く巨大な柱たち。おそらくは、住居として利用されていたものだろう。ヒューの村では、住居は土木で造られている。一度櫓やぐらから村を見おろしたことがあるが、小さくなった家々は、茶褐色の箱として点在していた。仮に、現在地を遠く上空から見たとするなら、埃の被った墓石の集まりに見えるかもしれない。そう思ってから、妙なことを考えてしまったと、ヒューは首を左右に振る。
 その街らしきものの、入口と思しき場所へ着く。ほとんどが灰で見えないが、道が直線的に敷かれていた形跡がある。その両脇に、さまざまな高さの廃墟が佇んでいて、またその道も、石などで作られているわけではなさそうだった。
 恐る恐る、進んでいく。ひと気は、依然として感じられない。それを不気味と思う反面、また安心も得ていた。
 不意に、奥にそびえる高い塔から、光が見えた気がした。青い。晴れた日の空は、青いのだと教えられていた。しかし、ヒューは晴れというものを知らない。自分の瞳と、同じ色。この色が空一面に拡がっているのは、どんな気分なのだろうか。
 護身用に、短剣をひとつ持っていた。それを長めの棒に巻きつけ、槍を作った。実のところ、攻撃というよりは杖のように使っていて、灰を歩く時の助けとしていたのだ。上手に使える自信はないが、どちらかというと、武器を所持している、という事実で心を落ち着かせていた。
 動物やひとはもとより、魔物が襲いかかってくる可能性だってあるのだ。
 接地を確かめるようにじりじりと歩みながら、ヒューはおもむろにその進みを止める。
「魔物?」
 声に出ていた。なんら違和感のない言葉。当然、昔から知っている。魔に染まった、恐ろしい生き物。人間を害し動物を殺し、食べる。異能の力を用い、災難を連れてくる。当然に、知識は頭の中にある。
 しかし。
「今日、はじめて魔物のことを考えたの?」
 自問し、日々を思い返す。幼少時、村での生活、婚約者と名乗る男、そして、媚びるような両親の表情。嫌な思い出もあり、ヒューが旅立ちを決心した経緯も脳裡から出てくるが、それでも、魔物に関することは、わずかたりとて記憶になかった。
「そんなこと、あるのかしら。危険なのに。村では、最低限の備えはしていたように思えるけど、到底魔物を倒せるようなものではなかった」
 さっきまでの自分が、少し別人のように思えてくる。しかし恐怖は、まったく感じなかった。当たり前のことを、当たり前に知っているだけだ。むしろ、燃える炎で、宵闇が明るく照らされるような、不思議な気持ちよさがあった。忘れていたことを、思い出したような感覚。
 こんな粗末な槍で、魔物に太刀打ちできるわけがない。
「でもなあ、どこで武器や防具を調達すればいいのか」
 急いで。
 頭に、声が鳴り渡る。慌てて左右を見やるが、灰の降り続ける光景しかなかった。
「だれ? どこにいるの?」
「彼らが近くに来ている。もうすぐ、こちらに来る。急いで」
 今度は明確に聞こえた。でも、耳を通してはいない。自らが胸中で声を発する時より、やや大きい程度の声。中性的で、男女の区別はつかない。
「だから、だれ? 近くに来てるってなにが?」
「僕は天使。名前は、そうだね、ゾヴとでも呼んでくれ。今、きみの近くに青い光が見えない?」
 言われて、はっとする。先ほど前方に見たものを、この声は言っているのだろうか。
「そこに、二人来る。何百年ぶりかの、使徒が」
 使徒。その言葉に、ヒューは親しみを覚えた。その言葉も自分は知っている。この世界を旅して、文明を進め、また幾度となく救う者たち。自由の代名詞。
 天使も、ずっと前から当然に知っている。自分たちの上位的存在として、この世界が創造された頃から存在している、極めて尊い者たち。
 自分たちとは、違う存在。
 使徒も天使も、耳には新鮮に響いたが、よく知っていた。矛盾するような妙な違和感に、ヒューは思わず眉をしかめる。
「急ぐんだ、ヒュー。彼らは、自分たちがなにをしているのか知らない。きみが彼らに接触し、為すべきことを伝えるんだ」
「なんでわたしが? どうして名前を知ってるの?」
「すぐに思い出すよ。残念だけど、僕はそこには行けないんだ。そして、使徒たちの近くにいるのは、きみだけなんだよ」
「急かしてくるのに、ゆっくり話すのね、あなた」
 言い終わらないうちに、視界の端が青く染まる。見あげると、塔全体を包むようにして、青い光が生まれていた。そして先端から空にむかって、光は刺さるように届いている。
「すごい。なんて青さ」
「走って、ヒュー。彼らを見失ってはいけない」
「わかったわ。いえ、わかりました、ゾヴ」
 敬語を使うべきだと、おのずから思った。むしろ、先ほどまで天使に対して失礼な言葉遣いをしていたと、恥じ入る感情がヒューの中に芽生えていた。
 歩く時と異なり、走ると灰は辺りに飛びあがる。馬車が通る畦道のように、自分の走った後ろには灰が煙のように舞っていた。
 なぜ自分が、という思いは消えていない。それでも、ヒューの心はわずかに弾んでいた。なにか、今までの自分では理解できないような、面白いことがはじまる。そう思ってしまい、口角は自然とあがっていく。
 そしてその笑みが、途端に消える。
 塔まであと少し、というところで、ヒューは行く手を遮られた。視線の先に出てきたものを見て、息を呑む。そしてその息を、細長く吐いた。
「こんな槍で、どうやって切り抜けろと」
 魔物の群れが、現れていた。


 漂っている。
 眼を開き、ミリアは最初にそう思った。
 静かな湖に潜り、浮かびも沈みもせず、ただ、停止している。呼吸ができたことで、水中にいるわけではない、と気づく。
 深い青色のなかにいた。だが、水ではない。水に躰を押される感覚はなく、泳ごうにも手はなにもすくい取らない。天地の区別だけがついていた。
「アッシュ」
 思い出したかのように、声をあげる。しかし、どこからも返答はなく、また、どこにも弟の影を認識することはなかった。
「名前を教えてください」
 正面からだった。しかし、ミリアの眼はなにも捉えない。人間ではない、そう思わせるような響き方だった。
「名前を教えてください」
 先ほどとまったく同じ調子で、訊いてくる。
「ミリア」
 ほかに術もなく、ミリアは応じた。姿も見えず、およそひとではないだろうと思ったが、黙っていても進まなかった。
「性別、女性。年齢、十七。外見の模写、完了。次の問いです。あなたは、この世界でなにをしますか」
「なにって」
「一、あなたは、力を得ます。単純な膂力は、単純であるがゆえに砕けません。二、あなたは、魔を放ちます。火水土風は従属し、あなたの身体的な制限はもはや意味を失います」
 なぜ、年齢を知っているのか。模写とはなんなのか。この世界とは、どういう意図で用いているのか。こちらの疑問など構わずに、声は淡々と続ける。
 声に合わせて、眼前に文章が現れていた。ところどころわからない言葉があるが、話している内容を、そのまま表示しているようだった。
「六、あなたは、富を築きます。利道を究め、やがて数多を救う富は、聖者と称されます。七、あなたは、選択を放棄します。選ばずとも、心底にある想いは強いからこそ露呈し、結局は選ぶことと同値です。以上、七つから選んでください、ミリア」
 思わず、かぶりを振ってしまう。自分は今なにをしているのか。弟の安否を知れない中、こんな問答の相手をしている場合なのか。
「もう一度最初から、繰り返しますか?」
「ひとつ、訊いてもいいかしら?」
「どうしましたか、ミリア? 私の権限で返答可能な範囲であれば、答えましょう」
「弟を知らない? アッシュと言って、赤髪の男の子なんだけど。多分、わたしと一緒に、ここに来ていると思う」
「それは、私の役割からはずれてますね。ですが、権限を超える部分ではないので、確認はできます。少しお待ちください」
 やり取りに、柔らかさは微塵も感じられない。それでも、会話ができた、とミリアは思った。
「確認が終わりました。彼も、現在ここにいるみたいです。あなたと同様、我々の本来の役割から逸れる質問をして、時間がかかっているみたいです。とはいえ、別の線を辿っていますので、こちらで会うことは叶いませんが」
「じゃあ、どうしたら会えるの?」
 我々、という言い方が気になったが、弟に出会える方法を確認するほうが先だった。
「この質問に答えてくれれば、次に行く場所で会えますよ。変に、その場を動かない方がいいと思います」
「そう」
 ミリアは、胸を撫でおろす。理解できないことばかりだが、弟とは離れずにいられるのだ。
「ミリア、問いに答えてください。あなたは、この世界でなにをしますか」
 言われて、ミリアは前方に記された文章を再度見る。正直なところ、この選択がなににどう繋がっていくのか見当がつかなかった。
 なんでもよかった。
「最初のにするわ」
「一番ですね。分かりました。武器は、適したものが設定されます。また、回答してもらった内容は、あとで変えることができます。ですが、一度自分で選んだ道は、飽きずに諦めずに、進んでみることをお勧めします」
「なんだか偉そうね。姿も見せずに」
「そうでしょうか。しかし、姿は見せられないのではなく、作られていないのです。そこが不快に思われたのでしたら、申し訳ありません」
「また、わかんないことを言う。さっきあなた、我々と言ったけど、たくさんいるの?」
「そう言えますが、役割はひとつですので、ひとつの存在である、とも言えます。我々眷属には役割があり、あなたたち使徒には使命があります。我々眷属は指令を遂行し、使徒は物事を選択します。その違いなのでしょう」
「だから、なにを言っているのかさっぱりなのに」
「以上で、すべての次第が終わりました。この世界は、あなたを歓迎します。ようこそミリア、よき旅を」
 一面の青さが、徐々に明るみを増していく。そう思った時、突然の眩さがミリアを襲った。眼を閉じ、両手で顔を覆う。
 そして、急速に光が失われる。ゆっくりと瞼をあげ、驚く。
 また、知らない場所にいた。円形の広場で、天井はどこまでも高い。頂上が、ここからでは見えないほどだった。先刻までいた未踏遺跡とは異なり、壁のあちらこちらが汚れ、ひびが入り、全体的に錆びついていた。本来は、遺跡のように白く綺麗なところだったのかもしれない。
 ミリアは、辺りを確認する。四方に、大きな扉らしきものがあった。どれもが著しく損傷しており、扉のていを成しているとは言いがたい。
「アッシュ」
 ミリアの声は谺し、遠くまで響く。広さが、空しさを感じさせた。
「アッシュ、どこにいるの」
 声を張りあげながら、ミリアは思考を整理する。弟と一緒に、遺跡を調査していた。スミスとギマライも、同道していた。最下層と思われる部屋で、ミリアたちは腕輪を着けた。途端、青い光が拡がり、次に眼が覚めた時、あの妙な空間に漂っていたのだ。
 そして今、廃墟と言っても差し支えのないような建物の中に、自分はいる。
「駄目だ、まったくわからない」
 大きく、溜め息を吐く。そして気づいた。
「なんだろう、躰がすごい軽い」
 軽く跳んでみる。それは跳躍と呼んでいいほど、ミリアの想像を超え、自らの身長よりも高い位置まで跳んでいた。驚き、変な呻き声を出しながら、そのまま着地した。体勢を崩すこともなく、足に負担を覚えることもなかった。
 背中に、重力があった。右手を、背に伸ばす。はじめての動きだったが、躰が既に知っているように、滑らかな動作だった。
「これは、斧?」
 大斧だった。木こりが用いるようなものではなく、戦に臨む強者が、得物として引っ提げていくような類のもの。だとしても、これほど巨躯な斧はまず存在しないだろう、とミリアは思った。寸分の狂いなく左右対称に、両側に付いている大きな鋼鉄の刃。見惚れてしまうこの綺麗な曲線は、並みの鍛冶で作れるような代物ではない。そして、仮にここまで製作できる技術があったとしても、それは無用の長物だろう。
 この大きさは、まず人間には扱えない。
「なんで持てるんだろう、わたし」
 右手で抜き、前面に取り出していた。ある程度の重さは感じるが、それは苦しさを覚えるものではなく、むしろ快感に近いような、振りやすさを感じる。両手で持つと、指先から全身に力が漲った。
 試しに、床へ落としてみる。斧は、鈍い音を立てて、床に沈んだ。実際には、とてつもなく重いのだ。それでも、拾う時は軽さしか感じなかった。
 先ほどいた空間での、声とのやり取りを思い出す。自分は選択肢の一を、力を選んだのだった。その選択によって、男のような、いや、男でも敵わないほどの力を得たのだろうか。
 叫びだった。
 近くはない。耳を澄ます。弟の声でもない。
 変に、その場を動かない方がいいと思います。先ほど言われた言葉が胸中に浮かぶ。
「それは、そうなんだけどさ。放っておけるわけないじゃん」
 躰を動かしてみたい。そんな気持ちが、ほのかにミリアの心底を流れた。
 ミリアは駆けた。予想はしていたが、とてつもない速度が出る。しかし、眼は目まぐるしく動く視界をしっかりと捉え、慌てたり転んだりすることはなかった。
 建物から出て、一瞬息を呑む。灰色しかなかった。暗く曇った空に、雪のようなものが積もった、朽ちかけの建物らしきものたち。ここまで色のない光景は、これまでに知らない。
 考えることはあとだ、と意識を強く持つ。今は、叫び声の場所に着くことが先決だった。
 さらに走る。顔に雪が当たった。そう思ったが、ひやりとした感触はない。それが眼に入ったのか、右眼にしみる痛みがあった。
 しばらく行くと、今度は動物に近い鳴き声が届いた。耳も、格段によくなっているようだ。
 あの先だ、とミリアは急ぎ、蹴るように角を曲がる。
 獣がいた。五体。狼かと思ったが、すぐ考えを改めた。
「なんなの」
 ミリアに気づいたのか、一体がこちらを振り返る。よく育った馬のように、大きかった。そして、脚が六つ、眼が三つあり、毛は暗く黒ずんでいた。
 残りの獣たちは、ミリアに背をむけていた。それは、獣の関心を引くものが、その先にあるということだ。
 叫び声の主が、そこにいるのか。安否は。
 女の子が、座りこんでいた。肩が血で赤く染まっている。
 自分の髪の毛が、逆立つのがわかった。
 恐怖を、なにか別のものが塗り替えていく。鼓動の高まりを感じるが、怯懦ではない。少女を助ける、そのために戦わなければ、と思った。背中の斧で、自分は戦えるのだ。
 斧を両手でしかと握り、前へ躍り出る。獣と眼が合う。一閃、斧を振りおろした。斜めに二つとなった獣は、倒れたかと思うと、蒸発するようにその場から消えた。なぜ消えてしまうのかは、現時点では考えないことにした。

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 勝てる、今の自分の力なら。いや、勝たなければならないのだ。
 あと四体。獣は、最早少女ではなく、こちらに気をむけていた。けたたましく吼え、倒された一体への復讐心を燃えあがらせているようだ。
 気を配る。先にしかける、と判断した。むかって右側へ跳ぶ。今度は、真上から斬りつけた。躱され、斧は地面を抉る。思わず、ミリアは舌打ちをしたくなった。反射的に斧を持ちあげ、逃げた獣を見やる。次は、はずさない。懐に飛びこみ、水平に構えた。さらに避けようと、獣は横へ跳ねる。読んでいた。回転し、勢いそのままに斧で薙ぐ。頭部の上半分が、獣の胴体から離れていた。浅いか、と思ったが、充分に致命だったようだ。獣は地に伏して、消える。
 三体。斃した獣の後ろから、一体が眼前に来ていた。ミリアは斧の先端をその場に突き立て、柄の端を握り腕力で上へと回転する。先ほどまで自分がいたところに、獣は飛びこんできていた。反動を利用し、降り立つ前に獣の顔面を蹴る。吹かれたように後方へ飛んだ獣は、くずおれて消えた。着地と同時に前方へ跳躍し、たじろいでいたもう一体に拳を放った。当たるが弱い。頭で考えるより先に、膝で蹴る。獣は横に倒れて、消失した。
 残すは一体のみ。そう思った時、ミリアは背後に冷気を感じた。振りむく。灰色、と最初に認識し、直後それが地面に積もった灰だと気づいた。獣は灰を蹴りあげ、ミリアの視界を奪おうとしてきた。
 灰の入った痛みで、ミリアは眼を閉じてしまう。しかし、防御を緩めてはならない。流れる空気から獣の動きを読み、身を捩って斧へ跳び、それを盾にしながら場に伏せる。わずかに真上を、獣が抜ける風切音がした。
 立ちあがり、集中する。視界はかすかに、戻ってきていた。肩もいくらか上下しているが、疲れは感じていない。もう一度、灰をかけられるかもしれない。斧の柄を短く持ち、咄嗟に対処できるようにする。獣は、こちらの出方を伺っているのか、まだ動いていない。
 まだ戦えることが、少し嬉しかった。こういう風に、躰を自在に動かしてみたかった。今の自分なら、ギマライはもちろん、スミスにだって力で引けを取らない。
 どの戦い方も知らないのに、知っている。
 音に振り返る。灰かと思い、斧を眼前で構えた。なにも来ない。そう思った時、ミリアは肌に粟が生じる。
 ふりだ。
 むき直ろうとした時には、左側から衝撃を受けていた。堪らず、呻いてしまう。そのまま倒され、足蹴にされていた。
 四肢に重さを感じる。体重でこちらを押さえつけ、躰を噛み切ろうとしているのか。
 この一体だけ、体躯が違っていた。群れの長なのだろうか。その大きな顔の、見開いた三つの眼で、ミリアを舐め回すように見ている。楽しんでいるのか、涎が、かかってきそうだった。
「負けない」
 全身に力を籠める。拘束をはずしても、六本の脚ですぐに絡め取られた。斧は、少し離れたところに落ちている。手を伸ばすが、届かない。
 怒りか悔しさか、目頭が熱くなる。こんな暴力に、自分は抗うことすらできないのか。勝たなければならないのだ。力を得たはずじゃないのか。
 右腕が熱くなる。噛まれていた。痛みというより、ひたすらに熱い。次いで、左の大腿部に高熱が走った。怒涛に迫りくる熱が痛みに変わり、強い喘ぎ声をあげる。湯に服が濡れる感触、それが血だと気づく。心臓が、途端に激しく鳴りはじめた。力を出そうとすると、熱さに邪魔をされる。
 なにかできることはないのか。熱い。斧はどこにある。血が止まらない。違う、自分は戦うんだ。戦わなければ。これ以上、噛まないで。
 だれか。
「えいっ」
 獣を伝わり、小さな振動が届く。追って、獣が短く呻く。なにかの地面に落ちる音がした。声の先に視界をむけると、先ほどの少女が立っていた。怪我をしている肩をそのままに、呼吸を荒げている。
「おねえさんから、離れろ」
 声を出すのも、やっとという感じだった。それでも、獣の注意をそちらにむけたいのか、立ったまま獣を睨みつけている。
 片手に、槍を握っていた。真ん中で折れて短くなっている。そして槍の先端も、急ごしらえで作ったとわかる。短剣を紐で雑に巻きつけているだけだった。
 勝てるわけがない。
「もう一度言う。魔物め、おねえさんから離れろ」
 少女は怯まない。一歩、獣へ近づいていく。それを機に、獣は身体を少女へむける。もう押さえなくとも、ミリアは動けない。そう判断したのだろう。
「逃げて」
 なんとか、声を絞る。徐々にではあるが、獣は少女へと進んでいた。軽い足取りが、愉悦に浸っているように見えて、憎かった。
 斧など取らず、ミリアは這った。地面と躰が擦れると、痛苦はさらに苛烈さを増した。ミリアを嘲笑するかのように、獣はこちらを一眼だにしない。
 少女は、ただ立っている。それだけで、ミリアはつらくなった。獣が自分を傷つけている間に、逃げてしまえばいいのだ。戦う必要は、この子にはない。
 涙で灰が流れ、視界が透明になる。思わず眼を覆いたくなるこの光景を、焼きつけろとでも言うかのように。
 獣の鳴き声に合わせ、少女が槍を構えた。非力だと、明らかにわかる。頼りない姿。焦らすのも飽きたのか、獣は飛びかかる姿勢を見せた。
「やめて」
「飛べ、火尖剣」
 ミリアの声と同じくして、遥か後方から、叫びが響く。同時に、なにか細長く、尖ったものがミリアの近くを素早く通りすぎ、獣の胴体に刺さった。それが炎だとわかった時、一瞬にして火炎は膨れあがり、獣の全身へと拡がる。苦しみもがき、いくらかのたうちまわってから、獣は倒れ、蒸発した。
 倒せたのだ。緊張が解け、安堵が体内を巡る。
「姉ちゃん」
 弟だと思った。どこに行っていたの。生きていてよかった。色々と返したいことはあったが、視界は既に閉ざされ、ミリアは突如として湧き出たあたたかな眠気に身を任せていた。

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こちらのイラストは、keypot様に描いていただきました。
改めまして、この度はご協力いただきありがとうございました。

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