高安城の意義

あまり知名度は無いらしいですが、大阪府と奈良県の間ぐらいに、高安城址(リンクはWikipedia)というのがあります。リンク内の解説にもありますが、白村江の戦いで敗れたことにより大陸からの攻撃から守るために建設された、日本最古の城とも言われています。
高安城と同じ目的で作られた城はいくつかあるようですが、大半は九州で、畿内に建てられた城は高安城ぐらいではないかと思われます。

ここで議題にしたいのが、高安城の位置です。
城(恐らく高安城は城というよりは砦みたいなものだったと思いますが)には勿論用途があり、どこに建ててもいいというものではありません。なので、建てた場所には必ずその理由が存在します。
では地図で見てみましょう。(google mapより)

高安城

建設された時期の政治的な中心地は飛鳥京で、明日香村近辺(この地図の南東)に当たります。
大陸からの攻撃は西からになるので、飛鳥京を守る最後の砦としての効果を期待して建てた位置関係としては良い場所と言えるでしょう。
ここまでは問題無いのです。

当時天皇のいた首都はどこに当たると思いますか?
こないだ難波宮跡に行った際の紹介文に「大化の改新後に遷都され」とあったので、白村江の戦いの時期は難波宮が首都であったことは明らかです。その後、「聖武天皇が副都として活用していた」というようなことも書いていたことより、奈良時代にもそれなりに機能を備えていたことでしょう。
政治的な中心地と首都が異なるという状況は別に珍しくもなんともありません。鎌倉時代とか江戸時代辺りが同様の例に当たるでしょうか。
難波宮の位置は大阪城のちょっと南にありこの地図の北東です。
恐らく高安城は、難波宮を守るという目的は無いでしょう。

これによって何を言いたいかというと、政治的な中心地である飛鳥京を守るものはあるけど天皇のいる首都を守るためものが見受けられないのです。
九州にも城を建設していたようですが、これは天皇を守るためというよりは、日本への侵入そのものを防ぐためのものだと思われます。

ここから「都の者にとって天皇の重要度はそれほどでもなかったのでは?」と考えましたが、タイミングとして蘇我氏と物部氏が争っていた時代ならまだしも、乙巳の変で力のある豪族を廃して天皇の力を戻した直後だけに、そういうわけでもないかと思い直しました。
私はこの辺りの時代の知識が全くと言ってよい程無いのでこんなガバガバ考察なんかも出てきてしまいますが、城の位置一つからでも考察材料は生まれるということだけはどうしても言いたかった。
にしては天皇を守護する目的のものがあるわけではない、即ち最も重要であるはずのものを守るものが無い……という齟齬が発生しているように見受けられます。
城だって目的のためであればどこに建ててもいいというわけでもなく、守りにくい城では意味がありません。良い立地が無かったから仕方なしに都を守る城だけ作って、実際に攻めてこられたら天皇には動いてもらう手筈だったのかもしれませんし、発見されてないけどどこかに城のようなものはあったのかもしれません。難波宮を守るための場所があったとしたら……当時は山城が中心だったようで、山城ということは当然山にしか作れません。ということで、今で言うと兵庫県西宮市とかあたりにそういうものがあったりするかもなーとぼんやり考えています。