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だれにも気づかれないまま、確かに細胞には届いてる

『ゴジラ-1.0』の感想を書いていたのですが、全然本編と関係ない話が結構長くなってしまったので、これはこれでひとつの記事として投稿したいと思います。

* * *

今回の映画鑑賞において、私の中のとても個人的な体験として、とても大きな事柄がありまして、そのことを書かせてください。私は、『映像研には手を出すな!』というアニメの、このセリフが大好きなんです。

ロケットはここがかっこいいんだ! っていう画圧に感動するわけよ。『わかってんじゃんあんた!』ってさ。『どこの誰だか知らないけど、あんたのこだわりは私に通じたぞ!』って。私はそれをやるためにアニメーションを描いてんだよ。
チェーンソーの振動が観たくて死にかかっている人がいるかもしれない。
私はチェーンソーの刃が跳ねる様子を観たいし、そのこだわりで生き延びる。大半の人が細部を見なくても、私は私を救わなくちゃいけない。動きの一つ一つに感動する人に、私はここにいるって言わなくちゃいけないんだ!

アニメ『映像研には手を出すな!』第7話「私は私を救うんだ!」より

今まで、いや、今も、この台詞にささえられながら、noteを書いたり、いろんなことをしている。大半の人に見向きもされなくても、私は私が最高だと思うもの、私が出したいと思うものを出し続けていこうと。

「私はここにいるよ」と、いるかどうかもわからない存在に向けて、虚空に向けて、まいにちまいにち信号を送り続けるように。いつか「あなたの言葉がこころに届いたよ」と言ってくれる人に出会えることを信じて。

……なのだけど。私は、そういうふうに「いつか現実的に”誰か”に巡り合えること」を信じてーーつまりそれを<目的>に、現実的に何かしらの事象が目の前に立ち現れていることを欲して、私はそれをやり続けようと思っていたのだけど。

そうじゃなくて、私の生み出したものが、誰にも何にも自覚されないまま、何が起こるというわけでもないまま、でも間違いなく誰かの何かにささやかな影響を与えている。本人にすら自覚されることもなく。……そういうことが、ありえるんだってことを、気づかされたんです。この映画によって。

それは、あまりにも手ごたえのない話だ。でもだからこそ、救いのある話かもしれない。結果を確認しなくてすむ(というより、できない)から。きっとそうなんだって信じて、続けることができる。

……ああ、いっつもここに辿り着いちゃうんだ。でもたぶんこの考え方を採択していくほうが良いのだと思う。メンタルモデルのグループセッションでもそんなお話があって、そうだよなって思ったところだった。

何があったかって言うと、私は、いろーーーーんなアニメクリエイターさんたちの、ものすごい愛やこだわりや熱量を知らぬ間に受け取ってたんです。どこかのだれかの「これが最高だろッ」って思うものを、私も「最高すぎる…!」って感じちゃうように、なっちゃってた。細胞の中に沁み込んでたみたいなんです。

私自身が自覚してなかった、ってところが目からうろこで。(まあ、今回の件で自覚しちゃったんですけど。)つまり、本人も自覚はないから、本人も「よかったです」「私もです」みたいなリアクションができないんです。つまり、リアクションがなくても、間違いなく細胞にバイブスは届いてて、それはものすごくその人に根付いて、何かになるかもしれないし、ならないかもしれないんです。それでいいわけです。それって最高なわけです。

(うう、ここまで自分に言い聞かせなきゃいけないって、本当になんてさみしい人なんでしょうか🤣)

そうね、これからはもう人間を細胞レベルで認識しよう。過去、とても孤独を感じた瞬間も、人や肉眼に写り込んだ事象をとらえるのではなく、もっともっと拡大して、それを構成する細胞くんたち、微粒子素粒子レベルで物事を認識したら、もうそのあたりのちびちゃんたちはめちゃくちゃ大喝采してるんだわ!!!!!

🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣

5年後くらいの私、本当にこれを読んで笑っててほしい。


はあ。

二十億光年の孤独(谷川俊太郎)って感じっすよね。知らんけど。

これに類することで書きたいこともうちょっとあるから、それはまた別の機会に。


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