本当にやりたいことと、やった方がよさそうなことの違いを見分ける。
今日ある資格の説明会に行ってきました。
あっ違う、と即座に感じました。
言語化するのが難しいのですが、本当にやりたい!よりも、この勉強した方がいろいろメリットある、稼ぐツールになるかも、みたいな感覚があったな、と感じました。
人に認められるかも?(社会に?親に?)
自分の自信のなさが何となく埋められる気がした?
何かそのような純粋でない気持ち、損得のような打算のような、何か私の中にあるあまり観たくない部分から動いたな、という感覚を体感しました。
昨日信頼できるお友達たちに会い、たくさん愛の循環をしていて満たされるなか、資格取得の話しをしたらすぐにそこを見抜き、言語化して提示してくれました。
が申し込みを結構前にしてるし、説明会は無料だし、体験だけはしてみようととりあえず行きましたが(とりあえずと言っている時点でもう明白か)やはり魂から喜んでやりたい!ではないな、と自分でも感じました。
今私は本当に未知の世界だけれど、やってみたいことがあって、そのことを話す時の私の方が全然イキイキしている!!とお友達が口を揃えて言ってくれました。
私の本音は身体で、非言語で表現してしまっているんだなあ、とつくづく感じました。
そっちだよ。
頭で考えないでハートだよ。
本当にやりたければいろんなことは後からついてくるよ。
やってみればいいよ。
と言ってくれましたが、要は未知な世界が怖い!わけです。
それをやった先に何があるのかよく分からない。
やっている人もとても少なく、認知度が低いものに手を出すのが安心できないわけです。
資格取得のために勉強したり講座に通ったり、今まで何度となくやってきたプロセス、知っていて想像できる、認知度の高い、市民権を得ているようなものの方が安心なわけです。
自分の答えは本当は奥底では分かっている、そういう叡智のようなものを人間は誰しも本来備えています。
が、自分の感情を感じることよりも、親や周囲の家族、先生、お友達、そちらの思いを感じとりなさい、人に優しくしなさい、思いやりなさい、人に迷惑かけずいい子でいなさい。
こんなメッセージをたくさん受けて育ち、自分の気持ちを感じないまま動く、そんな行動がデフォルトになって大人になると、誰もが
◯自分が本当にやりたいこと、
◯(社会的に)やった方がいいと思われていること、評価されるようなこと、
このような違いがもはや分からなくなってしまう、と感じます。
内側にある自分の叡智を信じられず、他人や社会の評価こそ正しいかのように思い込んで行動する。
かつての私がそうでしたが、いまだ怖い!と思うと無意識にそちらをまた選択しそうになっていました。
もう大丈夫だよ。
いつもついてるからね。
望むことをやろうよ。
やってみようよ。
失敗したらそれも経験だよ。
本当にやりたい事をする経験を積ませてあげよう。
何をしても素晴らしい学びなんだから挑戦しよう!
1番怖いのは何もしなかったことだよ。
私の中にいる小さな怖がる子どもに何度も声をかけて寄り添いながら、本当はやりたいことをやらせてあげよう、
今はそんな気持ちになっています。
この私の気づきが、他のどなたかの何かのヒントにもなれば幸いです。
お読みいただきありがとうございます。
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