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すべての子どもが愛おしい

私は子どもを育てていません。

20代で出産しましたが、その後すぐに離婚をし、当時病気の真っ只中だった私が育てることは、叶いませんでした。

長い間、そのことに強い罪悪感を抱い生きてき
ました。

そして、子育て経験をしていない、というのは、女性に生まれ落ちたにも関わらず、享受するべき人を育てる喜びや、愛の学びを知らずに、人生を過ごしているのではないか、という何とも言えない欠乏感を感じながら生きてきました。

が、最近、女性性を学ぶなかで、それらのかつての私の重苦しい自我の意識から、心が解放されるような学びを得ました。


女性が子どもを産み育てたい、という欲求は、本能的なもの。自我のもの。


そこから自由にならないと、私、というアイデンティティではなく、母親というアイデンティティになってしまう。

母親という地位に権威を与えるほどに、本来の女性としての喜びを享受せず、母になり、母で終わる。

女性が女性性を活かして幸せに生きていくとは、どれだけその自我の思いから離れ、本来の私、に返っていけるか。


あー、と腑に落ちる感覚がありました。

私が母親を母親としてしか見れず、その前にひとりの個としての女性、として見れたことがなかった、というかつての私の感覚が蘇りました。


私が病気になるまで専業主婦だった母から、私が感じ取っていたものは、まさに母親という役割ばかりが大きく、私にのしかかってくるようでした。


母が、後にパートに出始めてからはじめて、母を母は、母だけではない女性だったんだ、という目線で見れるようになりました。

それまで、すべての私の人生は、子どもたちのため、という母の巨大なエネルギーに私は呑み込まれ、母親の母性ばかりが肥大化し、そこに父親の父性は、いつも物理的にも精神的にも不在でした。

私が小学生の頃は、父が頻繁に海外出張に行く、という物理的な不在だけでなく、家にいるときも、家のこと、子育て、は母親の役割、俺は関係ない、と本気で思っていた父は、何か家庭で問題が起きれば、一方的に母を責める。


そこに話し合いは全くなく、その不満を、母は私に愚痴る。

良き妻、良き嫁を演じる母は、毎日のように父の悪口、同居している祖母の悪口を私に話し、母を必死で助ける小さな私は、母と同性であるがゆえに、母と同一化し、強い母子癒着を起こしていました。

そして、父を嫌い、祖母を嫌い、そうすることが、母を助けること、母に忠誠を誓うことだ、と必死に彼らを嫌ってきました。


そのループをおかしいとも思わない両親の姿は、1人の成熟した大人の女性と、大人の男性として、男女の関係性に向き合っていない、未熟な大人の姿であったのだなあ、と今はしみじみ感じます。

結局、どのような役割をもっていたとしても、まず、個としての自分を確立し、自分が成熟した大人として立っていないと、自分も、人も誰も守れないどころか、常に誰かと共依存をおこし、関係性を難しくします。

それらを考えても、母親、妻、娘、妹、彼女、どの役割であっても、その場その場で軽やかにその仮面をつけかえて、いく。

女性性とは、そもそもそういう多面的なもの。

という学びには、いたく納得しました。

その学びから、私は母親にはなれなくても、まず個としての私が、私、というアイデンティティがしっかり確立していればいい。


そこが1番大事なのだから、と思えたら、心が軽くなりました。

そして、子育てしていないからこそ、すべての出会う子どもが愛おしく、どの子どもにも、自分の子どものように愛情が注げるのは、自分の子どもに、自我のエネルギーを使っていなければこそなのだ、ということも分かるようになりました。


優れた教育者は、子どものいない人が多い、という事実にも納得し、目が開かれるものがありました。

自我のレベルから自由になり、クリアな気持ちで、女性性を豊かに享受し、拡大してていきたい。


また、世界中の女性が役割に囚われず、個として、1人の美しい女性として、輝いてほしい、と願います。




ひまわりは、私にすくっと立つ、強く、美しい女性を感じさせます。

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