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境界を越えるバス/都県境編2/六郷橋

東京都・神奈川県境編その2
現地調査:2021年9月/2022年4月/6月実施
初版公開2022/08/25
※本文中のデータは特記無き限り2022年8月現在ものです。
また、画像は、特記無き限り、著者が撮影したものです。

都県境を越えるバス、現役路線バスが通る橋としては第2回になります。天下の東海道=第一京浜(だけど国道としては15号線)が通る、箱根駅伝でも有名?な、六郷橋について語ります。

橋の概要

多摩川と都県境と六郷橋と大師橋の概略位置。
ベースの白地図は、例によって freemap.jp より。

 六郷橋には、第一京浜国道こと国道15号線が通る。現代の橋は、全長443.7m/幅34.4mで、往復6車線である。かつて、旧東海道の「六郷の渡し」があった場所に近いところに架かっている。現在の橋が完成したのが1987(昭和62)年、その後、拡幅工事などが全て完了したのは1997(平成9)年である。詳細な歴史については、項を改めて説明する。
 橋の左岸=北岸=東京都側大田区東六郷3丁目と仲六郷4丁目の間、右岸=南岸=神奈川県側川崎市川崎区本町2丁目と旭町1丁目の間、となる。江戸時代以前はこの辺りの多摩川の両岸はどちらも武蔵国であり、多摩川の下流域は左岸が荏原郡/右岸が橘樹郡であった。多摩川を渡った南側すぐの所には、東海道2番目の宿場街川崎宿が設けられていた。江戸の街は、2里≒8km以上北側の品川宿の界隈までであった。

右岸=南岸=川崎市上流側から見た六郷橋。
大田区側の河川敷が広大なため、
至ってよくある普通の短い橋に見えてしまうのが残念。
川崎市側の橋の袂からとった六郷橋。
こっちのアングルの方が風情がある?
下流側歩道端に建つ、都県境のロードサイン。
かなり川崎市寄りに建てられています。
同じロードサインの裏側。
ほぼ正確に都県境に建てられているようです。
橋上から下流側の風景。
大師橋は遥か彼方?
六郷橋からの大師橋遠景。
思いっきりズーム(ただしデジタル)を効かせています。
六郷橋袂の、旧東海道川崎宿入口。
残念ながら六郷橋から自動車は直接入れません。
徒歩や自転車ならOK。
六郷橋付近まで旧東海道と並走する京急大師線。
電車の真ん中あたりが、旧六郷橋駅跡。
大師電気軌道として最初に開通した区間でもあります。

バス路線

六郷橋界隈のバス路線概念図。
多摩川は本当は大きく屈曲しているけど、作図が大変なので…

六郷橋を越える路線

 2022年8月現在、六郷橋を渡る路線バスは、京急バス羽田営業所が担当する”空51”系統川崎駅~羽田空港と、その支線的存在である”川76”系統川崎駅~森ケ崎”川77”系統川崎駅~羽田車庫である。”空51”系統は、全日終日ほぼ30分間隔での運転。空港連絡路線であるが、六郷橋~大師橋下間の旧都道424号線を走る区間が昔からの住宅街で、区間利用者が非常に多い。早朝の川崎駅方向と深夜の羽田方向は羽田車庫発着の”川77”系統として運転され、出入庫を行う。朝に1本だけ大師橋下始発の便がある模様が、大師橋下終着となる便は無い。”川76”系統は朝夕混雑時に数往復のみの運転である。

都県境を越えている瞬間の"空51"系統川崎駅行。
空港連絡だけど、普通の路線バスタイプ、です。
都県境を通過した直後の"空51"系統川崎駅行。
反対車線からだとガードレールが邪魔?になるのが欠点。
こちらは空港行の"空51"系統。
橋の真ん中あたりですが、都県境は大きく越えています。

 これらの系統のうち、元祖となったものは現在では支線扱いの”川76”系統に相当する川崎駅~森ケ崎の路線で、1960(昭和35)年に開設されている。その当初は、この区間運転便として大師橋下で折り返すものがあり、後に”川77”の系統番号が与えられた。これに対し”空51”系統は遥かに後発で、当初は川崎駅~羽田空港間のリムジンバス=ノンストップ便として設定されていた。その時代に乗車した記憶があるのだが、ノンストップではあるものの高速道路は使わず、市街地を抜けて走っていたような記憶がある。開設時期は現在の空港第1ターミナルが開設された1993(平成5)年という説があるが、正確なところは調査を要する。2004(平成16)年に各停化され、以降は地域密着路線となったが、入れ替わるように路線が重なる”川76”系統の運転本数が削減されていったらしい。この間に京急バスグループの中で営業所の再編があり、”川77”系統は運転区間を羽田車庫まで延ばし出入庫系統となり、現在に至る。
 ちなみに、これらの系統は、六郷橋北詰でのルート取りに苦労した跡が見られる。東京側から第一京浜国道を下ってきた場合、六郷橋手前で左側=南側の側道に入り、堤防付近で突き当たった後に右左折しれば、多摩川左岸=北岸を往く旧都道424号線に入ることができる。逆方向も北側の側道から東京都区内方面へはスムーズに合流できる。
 しかし、六郷橋を渡ってきた場合、旧都道424号線に入るには、ちょっとした工夫がいる。橋を渡り切った直後に左に分岐するランプウェイにて270度ターンし、本線を潜った後、更に左に直角に曲がれば旧都道424号線との交差点に出るのだが、大型車両が通るには若干難がある道幅と線形である。このため、”空51”系統をはじめとする3種の系統は、橋を完全に渡り切ったあと、右にUターンするように南側の側道へ入り、六郷橋の停留所に停車する。川崎駅行も同様で、北側の側道上にある六郷橋の停留所で客扱いを行った後、やはり右にUターンするように本線六郷橋へのアプローチへと入る。ちなみにこの方向にはぐるぐる回るランプウェイは設置されていない代わり、南側側道が両方向通行になっていて、こちらを逆行するように北上した後、本線との合流点で180度ターンして合流するようになっている。大型バスだと多分無理がでてくる。

六郷橋北詰付近の道路・バス路線概要図。
"蒲74"系統は、南行のバス停から国道の下をくぐって北行のバス停に行きます。
図中の白抜き矢印は、一方通行です。
六郷橋中央付近上り線にある「青看」真下を通過する"空51"系統羽田空港行。
ループ状のランプウェイは正確に表現されています。
しかし、大田区道に降格されて随分経つ旧都道424号線の表示がそのままに…
羽田へ向かうバスは、この看板のルート通りには走りません。
ループ状ランプウェイ出口付近の「青看」。
やはり都道424号線の表示は残ったまま。
六郷橋北詰の側道合流点交差点付近。
「青看」の表示がカオスなことになっています。
"空51"系統川崎駅行は左から2枚目/羽田空港行は右端の表示に従って走ります。
こちらは六郷橋北詰南側側道入口付近。
画面左奥から来て川崎方面に行きたい一般車両は、
鋭角?(しかも左へ)にUターンするようにして本線へ合流します。

六郷橋直近に来る路線

 六郷橋北詰には、蒲田駅からやってきて、六郷橋の袂をくぐって折り返す”蒲74”系統があるが。こちらは素直に南の側道に入り乗客を降ろした後、本線の下を潜るように右折を2回して北側の側道へ入り、乗客を乗せて蒲田駅へ戻る。こちらも30分間隔の運転で、”蒲75” 系統と合わせると15分間隔になる。ちなみに、六郷橋~大師橋下間も先述した”空51”系統と合わせて、毎時4本の運転となる。こひらも担当は京急バス羽田営業所なので、出入庫便として、運転本数僅少だが、”蒲73”系統蒲田駅~六郷橋~大師橋下~羽田車庫が存在する。

六郷橋北詰西側の側道。こちらは北行の一方通行。
"空51" "蒲75"系統だけでなく "蒲74"系統も折り返しで使用。
上述した鋭角左Uターンが苦手な車両は、こちらを利用するのが吉。

 この折り返し地点から、京浜急行電鉄本線とJR東日本東海道線・京浜東北線のガードをくぐった先に、東急バスの六郷土手停留所がある。蒲田駅(西口)と結ぶ”蒲01”系統がやってくるのだが、道路が狭隘であるため、折り返し部分は大田区道をループ状に走る。運転本数は非常に多い。

六郷土手停留所にて客扱い中の"蒲01"系統蒲田駅行。
折り返しのループ部分で、往路と復路で一部異なる停留所を通る。
六郷橋袂下の交差点から見た六郷土手駅・バス停方向。
旧都道424号線です。
六郷土手駅ホームにて。
ホーム端が多摩川橋梁に接しています。

 これに対し、六郷橋南詰直近には、浮島通りの延長で府中街道へとつながる国道409号線が通っているのだが、京急大師線と完全並行区間になっているため、通る路線バスは臨港バスが担当する”川01”系統川崎駅~殿町のみで、しかも平日朝1日1往復だけの運転である。この路線は六郷橋付近と川崎駅の間は旧東海道を通る唯一の路線である。

川崎駅と六郷橋の間の旧東海道上にあるバス停にて。
"川01"系統しか通らないので、時刻表が…

六郷橋に纏わる歴史

京濱國道→第一京浜国道

 この地の多摩川に最初に橋がかかったのは、1600年のことである。徳川家康が江戸に本拠を構え東海道を整備した際に架橋された。それから百年足らずの間に5回も大水に流されている。最終的に1688年の洪水以降、江戸時代の間は橋を架けるのを諦めてしまったらしい。橋の代替に設置されたのが、有名な「六郷の渡し」である。
 時代が下り明治期になると、地元の有力者が私費を投じて1874(明治7)年に左内橋として架橋された。橋の名前の「左内」は、出資した鈴木左内氏の名前からとられている。が、1878(明治11)年の大水で流された。1883(明治16)年には地元の人たちが組合を作って費用を集め六郷橋として再度架けられた。1985(明治18)年の大水には耐え、1900(明治33)年に京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)に買収された後、1906(明治39)年には国に譲渡されたが、1910(明治43)年に再度流失している。この時はすぐに仮橋が架けなおされたが1913(大正2)年に流されてしまっている。
 この間の1985(明治18)年、日本で初めて国道という概念が導入された際に、東京日本橋から横浜港に至る道が「1號國道」に指定された。「京濱國道」との通称を持ち、六郷橋を含めたその周辺は旧東海道を踏襲している。それもあって私有だった橋が国有になったと推定され、1910年に流失した際にはすぐさま仮橋が架けられたと思われる。が、1913年に流失した後はどうしていたのか不明である。
 六郷に新たに橋が架け替えられたのは、一連の「1號國道改修事業」による。1918(大正7)年に神奈川県側から開始され、1920(大正9)年には東京府(当時)内でも開始される。この年に施行された「(旧)道路法」により、六郷橋を含む「京濱國道」の区間は、1號國道のままであるが、区間が東京市(当時)~神宮(伊勢)までとされた。1923(大正12)年に関東大震災復興事業にも指定された後、1925(大正14)年に六郷橋の架け替えを含む神奈川県側の生麦までの区間の改築事業が完成。東京府側八ツ山橋~六郷橋間の改築が完成したのは1927(昭和2)年である。

旧六郷橋の親柱と門柱。
東京都側の上流側、ランプウェイがループしている内側の公園にて保存されています。
六郷橋北詰袂から見下ろす、旧六郷橋門柱。
手前の螺旋階段は現役です。

 その後は、バイパスとなる「新京浜国道」こと現在の第二京浜が1949(昭和24)年に全通1952(昭和27)年の「新道路法」施行に伴い、第二京浜が東京日本橋~大阪梅田新道間の国道1号線の一部となり、京浜国道こと第一京浜は全区間が国道15号線に指定されている。このため、東京~横浜間の沿道においては「いちこく」というと国道1号線ではなく第一京浜=国道15号線を示し、「にこく」第二京浜=国道1号線を示す。現在でも有料道路である「第3京浜」は国道に指定されたのが平成に入ってからで、開通時は国道でなかった故に「さんこく」とは呼ばれることはない。
 増え続ける交通量に対応するため、六郷橋の架け替えが始まったのは1979(昭和54)年である。1984(昭和59)年に一部供用開始、1987(昭和62)年に全面供用開始したが、拡幅も含めてすべての工事が完了し現在の姿になったのは1997(平成9)年のことである。

バス路線の歴史

 六郷橋を渡るバス路線自体の歴史は古く、第二次世界大戦前には品川駅から横浜駅に至る路線が運行されていた。
 1922(大正11)年、現在の都バスの源流の1つである「東京乗合自動車」が当時の京濱國道経由で高輪~六郷間に乗合バス路線を開設した。この時点では六郷橋は流失したままであったが、上述したように、1920(大正9)年には東京府内の京濱國道改築工事が始まっていた。自社の鉄道本線と完全平行線になってしまうのを警戒した当時の京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)も同路線の免許を申請したが、競合路線であるためなかなか認可されなかった。
 1925(大正14)年に六郷橋の架け替えと同時に、神奈川県側の横浜市生麦までの京濱國道改築事業が完了。1927(昭和2)年には東京府内(当時)の八ツ山~六郷間も改築事業が完了すると、京浜電鉄は改築された国道経由での路線免許を申請、1929(昭和4)年に認可された。旧道経由の路線免許も1930(昭和5)年に東京乗合自動車から買収している。1932(昭和7)年には京濱國道上にて横浜市の生麦までの路線免許を取得。その先は横浜市電気局に免許が下りていたが、神奈川県の指導の元、この区間を横浜市から委託を受けて京浜電鉄が運行することになった。こうして、京浜電鉄による品川駅~六郷橋~横浜駅という長大なバス路線が開通したが、第二次世界大戦の影響で、運行休止となっている。
 戦後の1949(昭和24)年に、都営バスと京急の共管の京浜国道線として、東京駅~川崎駅間にて運行再開"115"という系統番号も与えられた。都バスが神奈川県内に乗り入れたのは、後にも先にもこの1例のみである。
 この系統は、1965(昭和40)年に運転区間が開業したばかりの首都高速経由で東京駅~羽田空港間になり、六郷橋へは来なくなった。系統そのものも1970(昭和45)年に廃止されている。
 現代の第一京浜を走るバス路線は細切れになっていて、一部つながらない区間もある。京急の本線と近い所を平行してる故、仕方がないと思う。

行政区画の変遷

 最後に、六郷橋両岸の行政区画の変遷についてまとめておく。
 左岸=北岸=東京側は、江戸時代では荏原郡八幡塚村に所在した。1889(明治22)年の町村制の施行時に、雑色村・町屋村・高畑村・古川村と合併して六郷村大字八幡塚となる。1928(昭和3)年に町制施行で六郷町となった後、1932(昭和7)年に荏原郡全域が東京市に編入され、旧八幡塚村域は東京市蒲田区六郷町となる。1937(昭和12)年に従来の旧村域ごとの町区分を改め、鉄道や道路などを町境界に改めた結果、第一京濱國道が東六郷と仲六郷の境界となる。1947(昭和22)年に蒲田区と大森区が合併して大田区となり、現在に至る。
 右岸=南岸=川崎側は、江戸時代の1623年に設置された川崎宿に位置する。江戸時代初期、東海道が整備された当初は品川宿と神奈川宿の間5里≒20kmの間宿場が無く、距離が長すぎたため追設されたという経緯を持つ。1968(明治元)年に川崎駅(この「駅」は行政単位)に改称1889(明治22年)の町村制の施行で堀之内村と合併、周辺の村の飛地も整理して川崎町が成立する。1924(大正13)年に大師町、御幸村と合併して川崎市が新設され現在に至る。1972(昭和47)年に川崎市が政令指定都市に指定された際に、旧川崎宿のエリアは川崎区の一部になっている。

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