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#蔵出しnoteと私の複雑な関係

「そんなに下書きに保存しっぱなしのnoteがあるなら、#蔵出しnote って言って公開しちゃえば?」という言葉のそそのかされそうになったけど、やっぱり無理!

自分の文章はいつも妙にポエティックで小恥ずかしい。インスタやfacebookのキャプションくらいライトなコミュニケーションなら、30秒で書けるのに。

(もうこの段階で、書く手が止まりそう!)

(ここで30分悩む)

私と文章の複雑な関係を考えてみると、思い出すのは日記の存在。

小学生の頃、私のクラスではオリジナルノートという日記があり、長期休みの宿題のひとつになっていた。今思えば、担任からすれば想定の範囲外だったと思うけれど、マイ・ルールで絵日記(!)にしていた。最初の数日は文章も書いていたけれど、6年間、ひたすらに落書き帳にしていた気がする。どんだけ文字が嫌だったんだろう…。

オリジナルノートは、10冊溜まると金文字の箔押しを施した立派な製本をしてもらえる。高学年になるにつれて日記を書く生徒がいなくなっていく中、私の絵日記はどんどん製本された。絵を描いてるだけなのにな、というちょっとした罪悪感と、描き続ける自分への誇らしさが入り交じる。嬉しい瞬間。

文章を書くよりも、絵を描くほうが楽しかったし、なにより記憶の外部装置になってくれていた。いまでも、鮮明に思い出すことができるオリジナルノートのページがあったりする。そんなオリジナルノートは年齢とともに姿かたちを変え、テストの裏紙になり、mixiになり、tumblrになり、instagramに…。表現の道具も、鉛筆からIllustratorやPhotoshopになり、iPhoneになるという変貌ぶり。それでも、やっぱり紙のノートはいまも健在しているから不思議。

文章を書くことを避け、むしろ文字をアウトライン化して遊んでいるような人間だけど、果たしてnoteは次の出力の場になるのか…乞うご期待。

※現在の絵日記こと、https://www.instagram.com/myxhula

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