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また加害をしている(追記あり)

※2023年11月19日追記
今までは、本記事のような事態に際して「自分の本質にある加害性が発現した。普通の良い人間になるための努力が足りないのだ」と自分では認識していたが、実は単発の失敗だった可能性がある。だから、これまでの加害もまた一連のものではなく個別のものかもしれない。「いよいよ何かしらの加害者更生プログラムを受けなければいけないかも」と思ってきたが、どうやら、そもそも自分はそういったプログラムの対象ではないのかもしれない。
そうであれば、これまで起きたこと(例えば10年前にある知人との意思疎通が上手くいかなかった)についても、必ずしも永遠に反省し続けないといけないわけではなさそうだ。生きることは、「一生物の罪」が累積する過程ではないのかもしれない。それでも忘れてはいけないことは多いが。


思考停止の思い込み

ずっと、自分は最悪の加害者だという思い込みを持っていた。

小学校低学年のときの将来の夢が「優しい人」だったのは、私がその頃から常識に欠けて加害を撒き散らしていたからなのだろう。夢は夢である。加害者意識は20代中盤に激しくなり、それまでの人生、小中高大において他人を傷つけたり迷惑をかけたりしたことをたくさん反芻した。その結果、自分のような人間は他人とあまり関わらずにいつかひっそり消えるべきだと本気で考えて、知り合いに連絡するのを控えるようになった。コロナが流行り出した時期だったこともあって、実際に人との直接の関わりも買い物くらいしかなかった。

その後、論文が受理され、個人的な経済危機も去り、少し仲良くできる人間も現れ、ハラッサーを切り捨てるようになったためか、数年かけて徐々にそのような思い込みは減っていった。

しかしまた今年に入ってから、自分は生きてるだけで他人よりも圧倒的に多くの加害をばら撒いているのではないか、と思うことが何度か起きている。だが「自分=加害者」という固定的な考え方は、思考停止である。加害者であること(存在)ではなく、個別の加害をしたこと(行動)に注目して、先に進む方法を考えなければならない。

私が本当にやるべきことは謝罪と再発防止のみであろう。なぜ加害をするのか、何度も問われてきたし、自分でも考えてきた。もし根本を考えることによって、さも加害にもっともらしい理由があるかのように見えたらそれこそ二次加害である。しかし、原因部分が解消できなければ私はまた過ちを繰り返す。だから二次加害しないように気をつけながら、以下にメモをしておく。

偽の原因

全ては自分に常識がないことが原因だが、それは自己弁護・責任放棄なので被害者には言えないと小さい頃から思っていた(後述するが実はもっと改善可能性を高める考え方がある)。

なぜなら、「お前は変」「あんたの発言のせいで恥かいた」「お前の言動に傷ついた」というメッセージを受け取り続けていたからだ。もちろん中には親しみを込めたものもあったのかもしれないが、何でも言葉通りに受け止める私には通用していない。だから自分はいつも何か間違っているという意識はあった。しかしそれが何なのかわからなかった。

私のようにナチュラルに加害をする人間には、次のような言葉はあまり意味がない。「普通に考えれば分かるだろう」「相手の気持ちを想像しろ」「自分がされたらどう思うか」。それが分からないから非常識な加害をしでかすのである。

そしてその非常識は遅くとも曽祖父の代から始まっていて、連鎖を断てないまま私の代まできてしまった。別人格だと思って生きていても、折に触れて実感させられるのである、自分が、ろくでもない環境で育った家系の一部であることを。だから原因の100%が自分由来というわけではないのだろう。しかし加害の責任は100%自分にある。

「非常識」という言葉で思考停止してはいけないので、私は人に注意されたり自滅したりするたびに、「Aをやってはいけない」「Bをやってはいけない」「CするときはDに気をつける」などとルールを自分の中で覚えていこうとしていた。しかし、人と交わしたわけでもない無数の約束を全て覚えることは難しく、また全く応用が効かないので、結局どこかで似たような加害や失敗をした。ノートにメモして持ち歩くべきだっただろうかとも思うが、問題を体系化できてなければ無意味だろう。この約30年間にわたる個別の悪行を何百何千回反省しても、私の人間性は改善しなかった。どれだけ深く長く考えてもそれは他者のためにはならず、無駄な自罰に終始していたからだ(このnote自体もまたそうなんじゃないか?)。

非常識の改善。結局それはルールの暗記ではなく、「自分の外部には絶対的な常識が存在するが、自分にはそれが見えない」という思い込みに気づくことから始まるように思う。私は、自分は常識を外れたからだめなんだと思っていた。しかし共通認識は時代・環境・文化・経験に左右されるので、唯一絶対のものではなさそうである。ならば毎回相手に確かめなければならないのではないか?

本当の原因

そういうわけで、私が加害をする究極の原因は、他人を尊重しない態度だと思う。しかし、もちろん被害者にはそんなこと関係ないし、私にとっても、被害者が感じたことが全てである。だから私は相手の意向に即して可能な限り誠実な対応をして、償える部分があれば償い、二次加害を避けなければならない。そして相手が自分との関係を終了して去っていくことを受け入れる。もし一緒に生きていく覚悟を持ってくれているなら、改善のチャンスをくれるのなら、それに感謝して向き合う。反省し、繰り返さないように約束したりして、それを徹底する、のが目標ではないだろうか。

上記は現場での話だが、しかし自分のこれまでの悪行と並べてもう一度考えてみると、いつも自分が他人を尊重していないから、相手に確かめずに何かをすることになるのであろう(その原因はまだきちんと辿れていない)。たとえそのとき相手が不快にならなくても、やっていることは加害的なコミュニケーションである。それをやめるためには被害者の具体的な意向を聞き直すことであろう。

そういうわけで、生きていれば必ず何かしら加害はしてしまうが、避けられるものを最初から避けるためには、毎回本人によく聞くことじゃないかというのが、複数人と意見交換して出た現時点での結論である。常識を類推したり他人の意見を鵜呑みにしたりして「えいやっ」とやるのではない。深呼吸して落ち着いて、まずは質問をして、答えをよく聞き、そこからはみ出さずにやるべきなのだ。

ただし、確かめるときに「言わなくても分かってよタイプ」の人には嫌がられることもあると思う。目の前にいるのにスルーしてくる人に対して、執拗に話しかけたら、それもまた加害だ。少なくともそれは合意(YES)がないことを意味するので、私は行動を慎み遠慮するべきである。だが、WHATとかHOWのような質問に答えが返ってこないとき、どうやって相手の意向を読み取ったり、答えやすいように言葉を補ったりすればいいのか。私のコミュニケーション方法はおそらく、文字通りで、紋切り型で、柔軟性に欠けるので、今度はそこをなんとかしないと、きっとまたまずいことになると思う。問題を起こす前に何か方法を考えたい。

それと今回はあまり触れなかったが、不適切発言もなんとかしないといけない。これは明確な被害者が特定できないか、その場の全員が被害者になっていると思うし、相手の意向を事前にも事後にも尋ねることができないケースが多い。私の失言癖レベルだと、自己紹介だけきちんとして、あとはあまり喋らないのが一番、ということもあり得る。とにかく、無理に喋ろうとしない、無理に面白いことを言おうとしない、つまらないやつと思われても耐える、といったところか。常識のある人をよく観察してときどき真似をしてみようかとも思うが、それこそ質の悪いエミュレーションになってしまうだろう。こればかりは非常識としか言いようがなく、現時点では先に進む道筋が見えない。

加害ではなく優しさを撒き散らしたいものである。


※この記事にも加害的態度が滲み出ている可能性があるので、気づいたら原文を残して訂正する。


一つの後日談:


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