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パートナーシップ観

今、自分はAスペクトラム上にいる。

Aスペクトラム」は、他人に恋愛感情を抱きにくい「Aロマンティック」や、他人に性的魅力を感じにくい「Aセクシュアル」、その周辺のセクシュアリティの総称である。A(エイ/ア)はいずれも打ち消しの意味を持つ"A"を冠した名称だ。

一つの属性の中には多様な人間がいる。例えば、あなたが女性だったとしても全ての女性の意見を代弁することはできない。同様に、誰か一人の人間がAスペクトラムを代表することはできない。属性内にはグラデーションがあり、一人の人間の中でも複合的な属性が交差しているだからだ。

というわけで1/nとして、私が今どういうAスペックなのか、パートナーシップや家族についてどういう価値観を持っているのか、断片的にここに記す。

注記:セクシュアリティと家族観は別物だが、関係ないわけではない。自分の場合は、パートナーシップについての自分の考えの延長の話として、今回書いている。

*追記:書いてから、自分のセクシュアリティだけでなく育ち方についても触れるべきと思い、タイトルに「母子家庭育ち」と「AC」(アダルトチルドレン)を加えた。端的にACとしたが、モラハラを含むDVのサバイバーであり、それが原因で今も対人関係が苦手だという意味である。


パートナーという謎(自分編)

普段から、周囲の人々が交際・結婚したりするのを見たり、物語を読んだり観たりしていて、セクシュアリティとパートナーシップについて考えさせられることは多い。

特に私には

  1. 一人の他者を相手取り

  2. ときに排他的な関係を

  3. 中長期的に築く

という発想がピンとこない。

世の中に、Aロマで恋愛感情なしの、あるいはAセクで性的関係なしの、パートナーがいる人は存在する。あるいはAスペックを自認していなくてもそういう関係を築く人々はいる。Aスペクトラム上のどこかにいる今の自分は、しかし、誰かとパートナーシップを結ぶ気になれない。

1. 一人の他者と?

自分の場合、知り合い・芸能人・死者・キャラクター・物質・現象も含めて、自分が知っているなかで、「これだ!」という絶対的な恋愛的・性的魅力を感じる対象は存在していない。大抵の「好き」は「〇〇さんの〜〜な所がいいなと思う」という感じである。

近年、特定の人間に対して執着心のようなものを持ったりしたことはあるし、今もあると思っている。しかし、もっと一緒にいたいとか、相手のことを全部知りたいとか、自分のことをもっと知ってほしいとか、交際したいといったことは思わない。単に、人間としての互いの印象が良く、情緒的な繋がりも多少ある、という共通理解を持っている。ただ「これ以上歩み寄れない」という諦念(裏を返せば「もっと歩み寄りたかった」)が、相手への執着に繋がっていると思う。

そういった相手も含めて、基本的に親しい人間への感情は、親密な気持ち、友好的な気持ち、相手への興味、感謝などである。そして特定の誰かをパートナーにするということは考えられない。仲のいい友人が余程やる気を出してきたら検討くらいはするかもしれないが、そんなバランスでは関係性がうまく続くとは思えない。

なお、一人の他者を相手にできないと書いたが、自分はポリアモリー(複数性愛)というわけではない。

2. 排他的関係を?

長く続く2人だけの世界、みたいなものが欲しくない。特に他の人もいる場面では、パートナーがいたとしても2人だけで話すことは避けて、他の人と話すか、複数で話したいと思う(他のパートナー同士が2人っきりで会話しているのを見るのは平気)。

嫉妬もしない。色々な人と交流することがよいことだ、という固定観念があるためか、パートナーがいても独占したいと思えない。

パートナーと自分が固定的なセットで扱われることも嫌だと感じる。理由は現時点ではわからない。

そうなるとおそらく、その相手とはパートナー同士という関係性である必要がなくなる。

3. 中長期的に?

繰り返しになるが、長く続く2人だけの世界、みたいなものが欲しくない。自分が責任を負ったり、努力したりするのを避けたいという、ただの怠惰・不誠実かもしれない。あるいは完璧主義の裏返しか。

そういうわけで、今の自分はパートナーを持つ気になれない。

パートナーという謎(他者編)

一方で、他人のパートナーシップについては不思議さが常にある。ただし嫌悪感はなく、むしろ素敵なことだと信じている(もちろんDV等がない限り)。だから「何故パートナーシップをやっているんですか」などと関係性の理由を問うことはしない。しかし「あなたがたのパートナーシップってですか」という問いを心の中で持ちながら、「」を少しでも知ろうと思って日頃は接している。

映画やドラマなどの物語になると、説明が省かれるのでもっと難しかったりもする。ロマンスが出てくると「あー、性愛の感覚のある人の話ね、どれどれ…」という感じで見ることがある。歴史科目が苦手だった人が歴史ドラマを見るときの構えに近かったりするのだろうか。

しかし、恋愛ソングは楽しめることもある。楽しんでいるときは、綺麗な風景や美術品を見るのに近い快感があったり、言語化・音源化された欲望の世界に没入するのが面白かったりする。

恋愛漫画も読む。読むのは百合やレズビアンをテーマや題材にした作品が多い。ピンとこないこともあれば、普通に面白いと思うこともある。「好き」とはどういうことか、「好き」だと人は何をするのか、とかが丁寧に描かれている作品は、気に入りやすい、多分。

なお、性的な事柄全般に対する性嫌悪はないと思う。特定の苦手な対象はある。

延長1:家族という謎

パートナーシップはイコール家族だったり、家族に発展したりする。

その家族集団というものが一般にどういうものなのか、私には捉えきれていない気がする。パートナーシップ以上に理解が難しいかもしれない。それどころか時折、不思議を通り越して、嫌悪感や恐ろしさをおぼえてしまうことがある。もちろん表には絶対に出さない。人々は何も悪くない。こちらが、自他の境界線が適切に引けていないのだと思う。

例えば、他人の家族がどんなふうに仲が良いかという話を聞く。そのとき私は、むかし家族から「仲が良い」ように見せかけて強い干渉を受けたときの「つらい感情」が再燃し、感情の処理に手間取りフリーズしてしまう。みたいなことがある(筆者は親からモラハラ等を受けていた経験があるため)。

とはいえ、自分にとって家族集団の話題は、実際そんなに大したストレスではない。「家族」とかいう枠組みは共通しているが、やはり話の内容が自分の経験とはかけ離れているので、すぐに「そうなんだ」「不思議だなぁ」に落ち着く。例えば、自分は一人暮らしと二人暮らししかしたことがないので、三人以上いる家庭の話は常に未知の世界である。最近は、他人の家族の話になると、落ち着いて耳を傾け、意識的に個別事例や一般論を蓄積している。ところで、この蓄積作業はいつまで続くのだろうか。

延長2:子供

ついでに記しておくが、自分が子供を持つことについては、昔からやりたくない。単純に、親がつらそうだったし、自分も育てられていてつらかったので、子育てを避けたい。とにかく、子供や配偶者やそれ以外を含め、固定的で排他的な家族集団を構築することを避けたいと、今は感じる。

例えばサッカーチームでいじめなどの嫌な経験をした子供が、サッカーという競技自体に罪はないとわかっていても、サッカーに関わるのを死ぬまで避けようとするような感じだ、と言えば少しは伝わるだろうか。その人が大人になってからサッカーの面白さに少しずつ気づくのもありだし、無理して関わったりせずに一生終えるのも自由だ。私だったら、友達が楽しそうにサッカーをやっているのは不思議だけど、その人たちが幸せそうなのを見ると自分も嬉しい。そういうイメージ。

以前は「子育てしたくないけど、実際どうよ」とか考えることもあったが、ある本を読んで「これは本当に自分には関係ないことだなぁ」と吹っ切れてから、すごく楽になった。それについてはまた別稿で書く、かも。

なおパートナーシップと同じく、他の人の子育てについて見聞きするときにネガティブ感情はない(もちろんDV等がない限り)。

要約と展望

雑に要約すると

  • 今はパートナーいらない

  • パートナーシップはわりと謎文化

  • 家族集団は若干嫌悪もあるが謎文化

  • 子育てはしない

という話でした。

で、そういうAスペックでそういう家族観のあんたはどう生きるんですかという話はまたいつか…。血縁以外の共同体、とかいうありきたりなところにはあまり着地したくない。

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