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自分の誕生日や名前が苦手なのは仕方ない

人生の中でつらい時期を過ごしたことが原因で、自分の誕生日や名前に嫌な印象がつきまとうのは、私だけではないだろう。それについての現時点までの自分の考え方を書き残しておく。

結論から言えば、他の日・他の名前でも結果は同じだったと観念するしかなさそうだ。


誕生日

大人になるにつれ、誕生日をパスワードやメールアドレスに設定したり、SNSに登録した誕生日を公開している人々が、予想以上に多いことに気づくようになった。そういう人々は別に過度のナルシストというわけでもなさそうだ。誕生日は単に馴染みがあって覚えやすい数字、場合によっては少しポジティブな意味を持つ数字として、機能しているのだろう。

だが私のように自分の存在を呪いたい人間にとっては、ただの便利な数字ではない。かなりネガティブな意味合いを含む数字になってしまうのだ。例えば、私は10歳の誕生日に自殺をしようと、その3ヶ月以上前から計画・宣言して、しないまま現在に至る。そんなXデーが毎年巡ってくるのだ。その度に情緒不安定になってしまうのも仕方がない。でも顔に出さないで上手く耐えていると思う。

耐えるだけではない。私は色々と対処法を試してきた。それをメモしておく。

  • そもそも命の始まりの定義は色々あるし、時間区分のシステムも絶対ではない。一般にいう誕生日は、生物学上の母の胎内から自分が出てきたタイミングを、24時間365日制のなかに位置付けただけの数字である。と考える。

  • グレゴリオ暦以外のカレンダーを意識することで、時間概念を相対化する。

  • 誕生日などというのは退屈な日常にランダムなハレの日を作る口実に過ぎない、と考える。

  • 誕生日を祝われる/祝われないことを大袈裟に捉えない。なぜなら、他者が私の存在について、誕生日を通して、肯定・否定の判断をすることはできないからだ。もし祝われたなら、存在がそのままに受け止められているということだ。それについて喜んだり安心したりしていい。と考える。

  • なるべく自分の誕生日のことを考えない。

  • 存命中の人物で、同じ誕生日で応援できそうな人を見つける。

  • 親しい友人など、存命中の人物の誕生日を実際に祝う。ただし無理には祝わない。

  • 他人の誕生日の過ごし方・向き合い方から、ネガティブではない姿勢を学び、誕生日概念へのネガティブなイメージを少しずつ減らす。

誕生日が干支や12星座くらいざっくりした区分だったら、個人に紐づけられている感じが減って、もう少し気が楽だったと思う。

名前

戸籍上の名前も、誕生日と同じく変えようがない、特殊な理由がなければ。特に、親などから怒鳴るように名前を呼ばれて育った人々は、大人になってからも、他者から同じ呼び方をされるのが心底嫌になるのは当然だろう。自分の場合は、名前のことを真正面から考えると、明確な嫌悪よりも「うわぁ〜・・・」という形容し難い "引き" の反応の方が勝る。だから本記事のタイトルに「嫌い」ではなく「苦手」を入れたのだ。

それに対して自分が今まで試してきた考え方は、およそ以下の通り。

  • 戸籍上の名前だろうと、ニックネームだろうと、HNだろうと、名前はただの識別子だ。

  • 親権者が勝手につけるしかなかった名前は、変更不可の初期IDみたいなもの。彼らがそこに込めた意味を、本人が無条件で受け入れなければいけないなんてことはない。

  • 戸籍上の名前を「本当の」名前と思う必要はない。

  • 通称は、戸籍上の名前に基づいている必要はない。

  • 戸籍上の名前が今のものでなく何ならよかったのかと考えてみても答えはなく、自分は結局どんな名前でも嫌だったのだ。

  • 与えられた名前が気に入らない人は世の中に大勢いる。

  • 名前自体に嫌な要素があっても、好きな人々に呼んでもらえれば平気かもしれない。

もう何年も戸籍上の名前やそこから派生した呼び名などで呼ばれていて、さすがに呼ばれるたびに気になるということはない。これは本当に慣れで、かなり上手く記号として機能している感じがする。

それでも、名前が誕生日よりも難しいのは、自分が嫌でも他人が意味を肯定的に捉えていたりする場合に、自他の認識に齟齬が生じうる点だ。その場合、他者に否定を押し付けることは難しいので、自分の気持ちを抑え込まないといけなくなる。だから、他者とのコミュニケーションにおいて、自分や相手の名前の意味(場合によっては響きも)について価値判断をするような会話の流れは基本的に回避している。

しかし名前についてコメントすることが全面的にだめなわけではないということは強調しておきたい。私は「自分の名前の意味はひどいんだ」とこぼしたら「(でもあなたの持ち物だからこそ)それは格好いいと思う」みたいな趣旨のことを軽く返されて、救われたことがある。返答に困るようなことを言って悪かったなと思うけど、ことを重大にせずポジティブに流してくれたことについて、その人には今も感謝している。

※追記。上記は全て下の名前についての話である。自分の名字は親の離婚で既に一度変わっているので、自分のものというよりは、Aの家系の象徴、Bの家系の象徴、という認識が強い、かも。

貼り付いてくるものの正体

自分にまつわるもの全てが嫌だというわけではない。なぜ私が誕生日や名前でばかりイライラしたり不安になったりするのか。それは、それらが容貌・身体能力・表情・声・仕草ほどには肉体に結びついていないが、だからこそ変化せずに(死後にまでも)自分を縛ってくるからではないだろうか。死ねば意識も身体も丸ごと消えるが、名前や誕生日までは消えてくれないどころか、逆にそれこそが自分の存在を証明してしまう、文明が滅びたりしない限りは。まぁ、死者にとってはどうでもいいことなのだけれど。

というわけなので、戸籍上の誕生日や名称などというのは所詮、システムによる時間と人口の支配のための虚構だ、と見做してもいい。それでもなお楽しもうとしてもいい。だがそこまでドライになると、今度は社交が難しくなってしまうだろう。

そして、誕生日や名前は自分の身体と結びついていない、という上記の気づきは、別の恐ろしいことを示唆する。それは、他の日、他の名前であっても結果はほとんど同じだったということだ。もちろん、その季節・月・日であるがゆえの問題はあるだろうし、つけられた名前次第でからかわれ方も変わってくる。しかし自分が自分であるからだめなのだ、という固定観念の方向性に違いはない。その憂鬱さを引き起こすのは、数字や文字列や音という識別子自体ではなく、それに付随する経験なのだ。

つまり、どのみち識別子は与えられたし、識別子の種類に関わらず結果はほぼ同じだった。しかし任意だったはずの識別子は、与えられた瞬間にその識別子でしかなくなり、その前後に起きる全てのことを必然にしてしまう。例えば私が識別子を伴って迎えたこれまでの経験は、そのような経験でなくてもよかったが、実際にはその経験でしかなかった。だから、識別子が嘘だとわかっていても簡単には一蹴できなくて苦しいのだ。

じゃあもしそのような識別子が全てなくなったら? 確かに身体は残るが、社会的には存在しないのと同じことになるんじゃなかろうか。そのときこそが、私が消えるのに最適の瞬間であることは間違いない。

(もっと言えば、識別子についてまわる「経験」についてのネガティブな価値判断が問題なのであるが、それは今ここで扱いきれないので省略する。)

はぁ、ここまで書くと大袈裟に扱い過ぎている気がして、なんだかちょっとどうでもよくなってくる。むしろそれが狙いだったのかもしらん。

おわりに

とりあえず今は、自分の誕生日や名前がもっと意味の薄い数字・文字列・音になる日が早く来ればいいなと、ぼんやり願うことしかできない。そんなことでラベルが綺麗に剥がれるわけではないし、そんなことをしても無意味だとわかっていても。とにかく、なんだかもっとマシな別の生き方がある気がしてならない。別の生き方などしようがないのに。


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