見出し画像

料理を褒められても嬉しくなかった

以前の記事「食べることが好きではなかった」を書いた後に思い出したことがある。
親が私の料理をしょっちゅう褒めていたこと。私はその賞賛を受け入れないといけない状況に置かれて、気分が悪かったことである。

具体的には、親は私が作ったものを食べながら「〇〇ちゃんのつくったものは何でもおいしい」と言うことがよくあった。しかし私は全く嬉しくなかった。なぜだろうか。
当時は感情・願望を言語化することができなかったが、今思い出しながら可能な範囲で再現してみる。

  • 作らされている状況なので、褒められても嬉しくない。
    →【願望】せめて作ったことに礼を言い、労ってほしかった。

  • 拒否しにくい「賞賛」を私に与えることで、私が持っているはずの感情が最初からないことにされたと感じた。親がポジティブな感想を言ったときは家庭内にポジティブな虚構が出現し、私はそれに従わないと<ポジティブな空気を壊した悪者>にされてしまう。
    →【願望】私の不平も聞いてほしかった。

  • 家で常に歓迎されているわけではないのに、家事をしたら褒められる。アダルト・チルドレンでいうと、通常はロストワンなのに親の都合でケアテイカーになることを求められる。つまり、条件付きでなければ存在が肯定されない。
    →【願望】無条件に存在を肯定してほしかった。

多分こんなものだろう。

思えば確かに、親は私の不平を聞かなかった、というより都合の悪いことは「お前が悪い」で抑圧していた。
例えば、私が経済状況が理由でやりたいことをできないとき、親は「そんなことを望むお前が悪い」というメッセージを発し続けた。「社会が悪い」と言ってくれればもう少しマシだっただろうか。いや、その前に「〇〇はどうしたいの?そうか、こうしたいんだね」と私の感情・願望を確認していたらもう少しマシだったろう(実現可能性は別として)。

ただし、本当に自己責任論に縛られているのは親自身だ。もちろんそれは不憫だが、私はサポートするつもりはないし、たとえ親の態度が今後改善するとしても私がその過程に付き合ってやる筋合いもない。

親は自ら求めて私を存在させておきながら、結局は持て余した。私は、自分で自分の存在を肯定できるようになりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?