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意味や理由は後

何につけても意味や理由を探す人、求める人がいますがそんなものは後から振り返った時にいつでもつけれるものでなければないでいいじゃないのかって話。


組織で仕事をしたり、作業をしたりする際にあるフォーマットに沿ってすでに決められている意味を要求されることがあります。
どうしてその作業をするのか、どうしてそのアプローチをするのか、そのようなものに上司に意味や理由を求めれられる。
それはすでに目的が決まっていて、すでに前例もあったりしてという前提があるのである意味当然だと思います。


今日書きたいのはそのような場合のことではなく、もっとパーソナルなことだったり身近な手軽なことで、自分が何か新しくやりたいことや、今までやっていたけれど思い切ってやめたいことをその気持ちに沿って行動する時に、何かと意味や理由を見つけようとそれらを先送りにしたり、見つからないからその程度のものだとそれらをやめてしまったり。
常日頃から何をするたびに意味や理由を求められ、それが当然だ。と考えているからなのか、意味や理由が必要だと理由をつけて自分の意思を尊重しない人が多いように思います。


確かに何かを始める、辞める時に意味や理由があったほうがいいのかもしれません。が、それらを探すのに多くの時間を費やしてしまうのは、時間の無駄とは言いいませんが少しもったいないような気がします。
その時点でそれらがないのであれば、もう実際にやってみるまではそれらを見つけることはできない。
なのでとりあえずやってみる。やめてみる。でいいんじゃないかと。

意味なんて後からいくらでも見つけることができて、「やってみて思ったより楽しかった。」とか「やりがいを感じた。」とかその程度でもいいんじゃないでしょうか。やってみてしっくり来なければまた新しいことを始めれば良いだけだし、そのやってみた結果自分にしっくり来なかったという事実が「無駄」になるとは思いません。そもそも生きていて、何かをやって、無駄なことなんてあるのかとも思うわけですが。
意味や理由探しに時間をかけ、結果的にやらない。これが積み重なって結局何もしない。それはかなり勿体無いんじゃないかな。と個人的には思うところで、結構そういうことを繰り返している人は多い印象です。
結果的にやらなかったことがもしかしたらもしかしたらよい結果に繋がってる場合もあるのでなんとも言えないところはあるでしょうけど、自己責任の範囲内でやらないよりやってみる。を繰り返していきたいと自分では思っているところです。


「若いうちになんでもやっておけ。」と言う人が多くいますが、例えば感覚的に何かをやってみたいと思い、それをするためには仕事を辞める必要がある。となると歳をとっているだけ踏み込みにくくなるでしょう。そう考えるとそれは一理あるのかなと。歳を重ねた人の言葉は聞いておくべきなのかなとも思います。


※よく記事の内容とは全く関係のない写真を載せていますが、あれらは基本的に文章とは関係ありません。
写真はインスタグラムであげているのでよかったら覗いていてください。
https://www.instagram.com/_t0909_



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