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価値の提供


私は誰かに価値を提供できる人でありたい。



「生きているだけでいい」

という言葉を他人に対して思ったとしても、自分に対しては思いたくはないなと最近思うのは、「死」というものが自分自身のものではなく、第三者のものであると感じたからかもしれない。

今までなんとなく「死にたくないな」と思っていたことが、実際は「痛みや苦しみを味わいたくない」ということと混同されていたのではないか。と最近よく思うのは死ぬということについて深く考える時間がある、要するに暇なんだと思う。

死んじゃうと確かに美味しいものは食べれないし、好きな音楽は聞けないし、大切な人とも会えないが、そもそも多分それらに対し悲しいだとか、苦しいだとか思うことすらできない。と私は考えている。

「死」を意識して悲しんだり、苦しんだりするのは、自分の大切な人が亡くなってしまい、「もう会うことができない」という状態を受け入れないといけないからではないかと思う。

確かにそれは考えただけで悲しいが、そうなってくると「死」は自分のものではなく他人のものであり、自分の考えの上では、確かに大切な人が亡くなることは悲しいからあなたたちは「生きているだけでいい」けれど、自分は「生きているだけでいい」枠には入れないということになってくる。

だからどうってことではないけれど、どうせ自分の考えの上の「生きているだけでいい」枠に入れないのであれば、自分で何かしらの価値を作り出し、それを誰かに分けてあげられるようになりたいな。と思うのは私の中では自然な流れだと思うし、そう思えるということは、今までそれなりの幸福を頂いてきたということの証ではないかと思えなくもない。

価値の提供といっても世の中にはたくさんの価値があって、人に何かしらの機会を分け与えられること、金銭的に余裕があり他人に援助をすること、身近な人に自分の幸福を分け与えること、それぞれが価値の提供であり、どれが一番良いというものでもない。

更に言えば、自分が価値のあると思うものを、他人に押し付けることを価値の提供とは呼ばない、という点にも気をつけなければならない。

そして、どんな状況であっても他人に価値を提供できる人は、少なからず余裕がある人であり、何かを分けられるぐらい余分にそれらを保持している必要があるのかもしれないわけだ。

そのために自分の中で何か1つでいいから、人よりも優れている武器を懸命に作り上げる必要があるのではないかと、感じるわけで。ただそれがどのようなものなのかすら今のところ明確ではない。

それでも自分は1日1日歳をとっていくわけで、何を目指せばいいのかがわからなくても、何にもしないわけにはいかなくて。とりあえずこうやって文でも書いて、思考を整理して。本でも読んで、知識を蓄えて。人と接して、心を豊かにする。

とりあえずなんでもいいからやってみて、気が向いたら継続して、ダメだったらそっぽ向いて、その繰り返しを楽しんだ先に、どっかの誰かに価値を提供できる自分が待っていればいいなとか思ったりして。






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