プロセカすごい~バンドリとの対比から~

ほんますごい。思春期の中高生に解決できる課題、できない課題、を明確に分け、解決できない課題は解決しないまま放置される、それがリアルだから。これはコンテンツに対する自信とユーザー=リアル小中高生に対する信頼がないとできないだろ。
好きなカプは絵名→瑞希、何故絵名がこんなに瑞希のこと好きなのかはよくわからない。
瑞希の「秘密」、プレイヤーには当初からバレバレなのですが、どのタイミングでニーゴに共有されるんですか?もしかして最新でもまだされてない?
ボクのあしあとキミのゆくさき、までイベントストーリーを読んだのですがまだ共有されていません、すげえよ。

年末年始にプロセカをプレイした時の興奮の一部

プロセカ、特に25時、ナイトコードで。に年末年始でハマった。ゲーム的な見た目はバンドリすぎるが内容は全然違う。
2016年にオタクキッズたちに大流行したというバンドリだが、今はもうオタクキッズはプロセカしかやってない印象がある。プロセカは思春期の心をとらえる何かがある。

バンドリとプロセカを対比してどこがどう違うのかを整理したくなった。

バンドリは大筋の万人ウケする王道のストーリーラインがコンテンツの方針としてあると思う。
ハリウッド映画的なプロフェッショナルな作り方。
ストーリーだけみればまあよくある作り方だとは思う。
しかしリアルバンドと組み合わせ、ライブでゲームでアニメで、圧倒的「物語」を見せつける。
キャラクターだけではなく演者が、困難を乗り越え、成長し、そして大きな舞台に立つ、そういう「物語」に俺たちは感動してきた。
これはオタクコンテンツとしては画期的であると思う。

ただし、バンドリが描くのはあくまでステージの上の「物語」であり、ユーザーの共感を積極的に誘発しない。
俺んちにも蔵があってみんなでバンドの練習したよなとか(ポピパ)、大規模フェスの予選にむけてめっちゃバンドの練習したよなとか(ロゼリア)、タワマンの最上階で音楽制作してたよな(RAS)、みたいな共感をする人はほぼいないだろう。

後期バンドリ、Morfonica(全く追っていないが、主人公の性格的になんとなくストーリーラインを想像している)、MyGO!!!!!、Ave Mujicaでは、「物語」から「感情」へとユーザーに提供されるものが変化している印象があるが、あくまでその対象は、ユーザーから隔たれた、画面の中、ステージの上の「感情」である、という点は変化していないように感じる。
例えば、高松燈は一般人とは違う「不思議ちゃん」であり、彼女の挙動や感情自体に我々が直接共感することは難しい。
もちろん歌詞や歌い方はエモいのだが、あくまで外向けに加工された作品であって、彼女の感情そのものではない。

我々は快適に「物語」や「感情」を消費することができる。快適に、というところがポイントで、このわかりやすい美味さが、バンドリが大きく発展した要因だと思う。

  • キャラクターや演者は我々オタクとは全く異なる別次元の存在

  • 見た目がかわいい

  • ストーリーがわかりやすくおもしろい

快適さとは何かを具体的に分解すると何の変哲もなくなってしまったが、これらをハイレベルに実装しているのがバンドリだと思う。

バンドリは徹底にユーザーがストレスなく(言い換えれば脳死)で「物語」を楽しめるように設計されている。
彼女たちのメインのストーリーを理解するために、ユーザーが自分の頭を使って解釈する必要はないし、その余地はプロのやり方で幸せに排除されている。
言い換えればユーザーは全く信頼されていない。
これは批判的な意味ではなく、エンターテインメントとして完全に正しい方針だろう。
また、キャラクターと彼女たちの暮らす世界は我々消費するオタクとは異なる次元にいることは言うまでもなく明白である。彼女たちが乗り越える苦悩は我々オタクの日々の苦悩とはリンクしない。
公式のファン呼称、バンドリーマーさん、がやや軽蔑的自虐的な響きをもってインターネットで使われているように、メインのターゲットは主に男性の、コンテンツを消費することが生活の一部になっている大衆的なオタクである。

さてプロセカだが、開発会社が同じCraftEggとはいえ、ここまでバンドリを丸パクリしていいものだろうか?という印象を、ゲーム画面を開いて感じた。
エリアにわかれていて、キャラクターの会話がある。Live2Dベースのキャラクターの質感などだ。また、男性キャラクターがいる点は異なるが、

  • Leo/need ⇔ Aftergrow

  • MORE MORE JUMP! ⇔ Pastel*Palettes

  • ワンダーランズ×ショウタイム ⇔ ハロー、ハッピーワールド!

という露骨な対応関係が見え、グループのコンセプトまでパクっているようにみえた。(実は対応するバンドリのグループはリアルバンドが存在しない、つまりコンテンツ展開の枢軸ではない)
ガラが悪そうなVivid BAD SQUADと、ぱっと見コンセプトがわからないがグループ名に句読点が入ってオシャレ感を出している25時、ナイトコードで。は新鮮な印象を受けた。(後述するプロセカの特徴として挙げる内容はこの二つのグループで特に顕著だと感じる)

ストーリーを読み進めるうち、バンドリとは全く異なるストーリー、ユーザー体験が想定されているということがわかってきた。

プロセカでは、登場人物の苦悩、大人、コミュニティ、毒親、友達、などの様々な人間関係の問題がリアルに、現実を生きる思春期の小中高生が味わうであろう苦悩と地続きに描かれている。
しかも、様々なストーリーを経ても問題は完全には解決せず、問題を抱えたまま現実とどう向き合っていくかが描かれる。めでたしめでたしにはならない。提示された課題が解決されないのだ!
苦悩を見事に解決しユーザーにどうだ感動するだろと堂々と披露されるハリウッド映画的な「物語」はそこにはない。

もちろんプロセカはエンターテインメントである。ただリアルな苦しみを描いただけでは純文学になってしまう。
そこでミクを始めとするバーチャルシンガーが神がかり的な贈与者/賢者として登場人物をセカイで導く。現実世界に鑑賞できない彼らができるのは話相手になることだけだ。セカイでの魔法のような現象は決して彼らが引き起こしたわけでなく、登場人物の想いによるものだと説明される。

バーチャルシンガーたちは教科書的なアドバイスばかりではなく、過激なことを言ったり、あるいは何も言わなかったりする。彼らは教師でも保護者でもなく、「謎のおじさん」や「安楽椅子探偵」のような存在である。
思春期のキャラクターと同じ目線に立ちつつも、まるでキャラクターの状況を全て把握しているプレイヤーのような千里眼を持ち、状況が好転する言葉をかける。

贈与者/賢者のポジションにミクを配置するのは賢いと思う。超常的な存在という共通認識が(ある世代においては)ゲームの外にある彼らがこの位置に居ることには妙な納得感がある。彼らは万能なので、登場人物の完璧な先導者たりえる。もともとボカロが好きだった層(おそらく、大半の若者)にもアプローチできる。なろう系でファンタジーMMOの世界観が説明なしで導入されるのに近い、説明をスキップできるアドバンテージや共感を誘う下地ができあがってるのがデカい。

めちゃくちゃ表面だけをなぞると「ミクと友達になって歌って踊れるゲーム」なのだが、そんな楽しそうな外郭とは裏腹に、内側は内省的である。

プロセカは舞台の上のエンターテインメントではなく、ユーザーに寄りそう感傷的なパートナーを目指しているのかもしれない。これはバンドリとは真逆だ。
プロセカの楽しみ方は快適ではない。提示された「物語」を客席で鑑賞するコンテンツではない。ストーリーを楽しむことは、自分の問題をキャラクターの問題に投影することと同義になる。そこには痛みや苦しみが伴う。リストカットやODのような自傷行為による快楽だ。
バンドリの快適さに対応させて、プロセカの快適でなさを分解すると以下のようになる。

  • キャラクターはユーザーの投影先としての機能を持つ

  • 見た目はかわいいが(少なくともキャラクター目線では)容姿の優劣が存在する

  • ストーリーにおいてキャラクターの問題は解決せずユーザーの人生と並走する

ユーザーのターゲットはちょっとオタクで内向的でお利口さんな女子小中高生でだと思われる。
これは#プロセカ まで打ってサジェストされたタグだが
#プロセカなりきりさんと繋がりたい
#プロセカ併せ
#プロセカ履歴書
#プロセカ夢女子さんと繋がりたい
等がでてくる。検索するとかつて自分が通過したような、若いインターネットの匂いがしてくらくらする。

なりきり、履歴書、併せ、夢女子といった単語に注目してもらいたい。ユーザー同士、あるいはキャラクターとユーザーの繋がりが重要視されていることがわかる。そうしたミクロな繋がりから個人のための「小さな物語」が様々な場所で生まれていく。ネット上のプロセカに関する妄想や考察の量はすさまじい。
(バンドリにも萌えや百合をコミュニティ内で楽しむ文化は存在するが、あくまでオタク文化圏内のありふれた現象の範疇であると思う)

このような展開は運営側が期待した通りだと思うが、ここに舵を切るのはユーザーを信頼していないとできないだろう。
プロセカを楽しむためにはユーザーが能動的にキャラクターを解釈して自己投影し、さらに周囲と共有していく必要がある。
思春期の感傷や共感能力の秘めるパワーを信頼したからプロセカができたのだ。

話は変わるが、セカイ、想いといった単語は否応なしにゼロ年代のセカイ系を彷彿とさせる。16bitセンセーション ANOTHER LAYERというエロゲの歴史をメタ的に描くアニメがあり、ゼロ年代にエロゲをプレイしていた私はひどく感動した。感傷だけではない。クラシックなエロゲ的/セカイ系なストーリー、SFチック、論理的でない、複線を回収しない、主人公は無力、想いの力が時や空間を超えて作用する、といった要素が令和の今現在は新鮮に感じられたのだ。当時は辟易していたのに。これらはプロセカにも共通する。

誰もが簡単に成功者の現状や生涯を知ることができるようになった。SNSで直接コミュニケーションすらできる。だが彼らと同じ行動をとっても自分も成功できるわけでない。大半の無力な者たちにとって、現実はより残酷になった。いつか自分も成功できるはずだ、という根拠のない夢や希望を抱きづらくなった。新宿区の高校に入ったからといってバンド活動が上手いく保証はないことくらい、誰だってわかる。
だから、自分の人生と地続きのようでいて、実はそうではない華々しい成功を描く「物語」に疲れているのかもしれない。そして「物語」疲れはサブカルチャーではなくメインカルチャーにまで浸透した。だから「夜行性」が流行って、YOASOBIやADOのようなアーティストが紅白に出るのだ。

経済やファッションにはトレンドの繰り返しが存在し、過去を踏まえて現在を語ることがよく行われる。プロセカの登場も単なるオタクトレンドの推移であり、20~30年前のセカイ系の流行が、形を変えて再度流行っているのかもしれない。だが、単なる繰り返しではなく、自分の無力さをより感じるようになったという2020年代特有の苦悩が丁寧に掬い取られ、今の時代においてリアリティを感じられるコンテンツになっている。

かつてセカイ系と呼ばれていたサブカルチャー、「今」を苦しみながら生きる若者の「小さな物語」、は時を経て最先端のメインカルチャーになったのだ。



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