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東北のこと(その3)

新郷村を歩き倒し、棒となった足を引きずりつつ何とか八戸駅近くのホテルへチェックイン。ベッドに倒れこんだ。

遠のく意識の中、パトラッシュとルーベンスの絵が見えたその刹那、「いかん!俺は銭湯天国・八戸の湯に入らねばならんのだ!」と息を吹き返した。

いや、別に八戸が銭湯天国であってもなくても、ただ大きなお風呂に入りたかった。ベッドに突っ伏したまま付近の銭湯を検索。

「りんごのゆ」

なるほど。地元の名産品を名に冠したということか。我が札幌にもサーモンを名乗る湯屋がある。

「卵湯」

なるほど。
…いや、なるほどではない。卵は青森の名産品じゃないだろう。卵はエブリウェアだ。なぜ卵なのか。

板東英二が好きな、
フーリガンが選手に投げつける、
ピッコロ大魔王が口から吐き出す、
あの卵だ。
なぜ銭湯の屋号があの卵なのか。否が応でも想像が掻き立てられる。

硫黄泉のように、たまご臭が漂っているのか。
入ると卵肌になれるのか。
湯船に大量の卵が浮かんでいるのか。

気になりすぎてベッドに突っ伏したまま調べたところ、あっさり答えが見つかった。

三代目の中村ノブさんによると、卵湯の名前の由来は、先々代が新井田村(現八戸市新井田)で卵を売る商売をしていたところから。

https://www.marugotoaomori.jp/blog/2014/04/6437.html

卵屋が銭湯を開業したので卵湯。今度こそ、なるほどだ。

しかし、卵屋で本当によかった。
もしラーメン屋だったら濃厚魚介醤油湯になっていただろうし、ピザ屋だったら贅沢4種のチーズ湯になっていただろう。危ないところだった。

名前に惹かれたというのもあるが、単純に宿から一番近かったので、最後の力を振り絞って卵湯を訪ねた。

なんと力強い看板か。「八戸中央温泉 天然温泉 卵湯」とある。そうか、正確には「八戸中央温泉」が冠につくのか。

「だったらシンプルに『八戸中央温泉』だけでよくね?」と思ったが、それは無粋な発想だ。
「笑っていいとも!」が「森田一義アワー」だけだったら、あれだけの番組になっていただろうか。そういうことだ。

銭湯にしては珍しい入浴券システムだったので、まずは券売機に小銭を投入。ボタンを押すと「カコン」という軽やかな音とともにプラスチック製の入浴券が着地。

フロントのレディにプラスチック片を差し出し、暖簾をくぐった。

広々とした脱衣場から浴場を眺める。3連休の真ん中、大賑わいとまではいかないがそこそこの入りだ。

そそくさと素っ裸になり、タオルと石鹸を手に洗い場へ。

恐らくお客さんは近所の方ばかりだろう。そんな中に何食わぬ顔で飛び込む札幌市民。

(まさか北海道から来ている人間がいるとは誰も思うまい…)
とほくそ笑んだ。背広の下にブラジャーとパンティを着用して出勤する変態重役紳士の気持ちがわかった瞬間だった。そんなジャンルの変態、あるいはそんなジャンルの重役がいるのかどうかは知らん。

くだらないことを考えている暇はない。早く湯に浸かりたい。そのためにはまず身体をピカピカにしなくてはならない。

私はわざわざ札幌から石鹸を持参していた。いつも使っているケースに、いつも使っている石鹸。現地調達したほうが何かと楽なのはわかっていたが、持参したのには理由がある。

石鹸に、違う景色を見せたかったのだ。

ケースの蓋を開く。
「えっ、ここどこっすか?あ、青森! マジで!?1回来たかったんすよ!自分、王林ちゃんとか結構好きなんっす!」と石鹸。

「そうかそうか」と破顔しつつ、いつものように石鹸を泡立てて軽やかに洗身を始めた。

するとどうだ。ブチ上がっていた石鹸はもう冷静になっていた。

「…いや、なんつーか、青森感?ってのがないじゃないっすか」

確かに。返す言葉がない。なにが違う景色だ。王林ちゃんがいるわけでも、ねぶたが突っ込んでくるわけでも、太宰が湯船に入水しているわけでもない。

石鹸をいつも連れていっている地元の銭湯と、そう大きくは変わらない。

もちろん、卵湯が凡庸だといいたいのではない。むしろ卵湯には特筆すべき点がいくつもあった。

中でも一番の衝撃は湯船の数だった。決して広いわけではないのだが、レイアウトの妙で8、9個(湯船の単位が個なのかどうかは知らん)だろうか、たくさんの湯が楽しめた。スーパー銭湯ならともかく、街の銭湯でこれはなかなかのことだ。

他にも、いわゆる温泉銭湯であることとか、やたら朝早くからやっていること (八戸の銭湯は概ね早朝から営業しているらしい。さすが天国)とか色々ある。

しかし、とはいえ、やっぱり銭湯なのだ。その景色、雰囲気は札幌の銭湯とそう大きくは変わらない。天は銭湯の上に銭湯を作らず、銭湯の下に銭湯を作らずだ。

石鹸には申し訳ないが、八戸だろうが札幌だろうが銭湯は銭湯なので、その景色はどこも似たり寄ったりだ。でもだから、銭湯はよい。

札幌からの珍客が密かに存在していることを除けば、卵湯はただの銭湯だった。
誰もが淡々と、慣れた手つきで身体や頭を洗い、穏やかに湯へと身体を沈めていた。

「ただの銭湯」というのは、もちろん褒め言葉だ。銭湯が銭湯であり続けるには相当の努力や愛や何かが必要なはずで、それらによってあの普遍性、日常性が保たれている。これは、とんでもなく尊い。

日常性?

旅行という非日常のど真ん中にいる私にとっては、卵湯もまた非日常だった。

なのに日常性?

むこうで身体を洗っているジイさんに目を向けると、普遍と日常の日本代表みたいな雰囲気を漂わせていた。

俺の非日常がアイツの日常で、アイツの日常が俺の非日常ということか?

ああ、あれか、アイツがオレでオレがアイツでってやつか?

入れ替わっちゃってんのか?転校生?尾道三部作?

あれ?大林監督?あそこで身体洗ってんの、大林監督!?

旅先の銭湯が少々キマり過ぎた。

北海道からの珍客や大林監督がいたとて、どの銭湯も、いや銭湯だけでなく、どんな場所も誰かにとっては日常だ。

私が上司から小言をいわれているときも、FANZAでサンプル動画を漁っているときも、卵湯には卵湯の普遍と日常が満ちているに違いない。もちろん、りんごのゆでも、湯屋サーモンでも。

それって実は、結構すごいことなんじゃないかと思う。

「街中でつづいてく暮らし」と高らかに唄った人がいる。
暮らしが街中で続いていく。当たり前だ。「走ると疲れる」と同じくらい当たり前だ。

同じ曲の中で彼は「そして毎日はつづいてく」とも唄っている。
これも当たり前だ。「陰口はよくない」と同じくらい当たり前だ。

「暮らし」も「毎日」も要するに「日常」だ(と私は思う)。

日常が日常であることは結構すごいことだ。奇跡といってもよい。だから彼は高らかに唄ったのだろう。「当たり前のこと唄ってんじゃねえよ」なんて少しでも思った自分がバカだった。

旅先の銭湯なのに、いや、旅先の銭湯だから、しょうもない考えが頭を巡った。
こんなことが起きるのも、僕らが旅に出る理由だ。

…てな感じでカッコつけて締めたかったんですが、次の日には乗る予定だったフェリーが欠航となり、振り替えた便もバカ遅延をやらかしてくれた結果、苫小牧フェリーターミナルで知らない人に「タクシー相乗りさせてください!終電なくなっちゃう!」と半泣きで懇願することになったのでした。卵湯でノホホンとしていたときには想像だにしなかった展開でしたが、それもまた旅の醍醐味ってものです。相乗りはさせてもらえました。

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