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【小説】踏切時代

//2009//

 買い物客が出入りする度に、開いたり閉じたり忙しいスーパーマーケットの自動ドアを、ガードレールにもたれて見つめていた。辺り一面に降り注いでいた西日のオレンジが少しずつ薄闇に呑まれていって、気付いたら濃紺の空に星が一つ光っていた。
 十月も半ばを過ぎて、ジャンパーを羽織っていても肌寒かった。不意打ちのように風が吹き、自動ドアの上に張られた「毎月5のつく日はポイント2倍!」の横断幕が小刻みにはためく。私はスカートで来てしまったことを後悔しながら、右手に提げていたスーパーのレジ袋を、両手で胸の前に抱えた。
 自動ドアの向こうで、見覚えのある赤い髪が合図のように揺れた。すらりとした背格好、間違いない。私は自動ドアの前まで歩いていって、手を高く掲げて振った。
「森本くーん」
 声に反応するように、赤い頭がぴくりと動いた。涼しげな目が私の姿を捉え、きゅっと細められる。膨らんだレジ袋を揺らしながら歩いてきた森本くんが、私が抱えている袋を指差しながら、口を開いた。
「紙皿、あった?」
「うん。教えてもらった通り、二階にあった」
「よかった。俺は、総菜パンと飲み物とスナック、適当に買っといた」
「ありがとう。あとでお金払うね」
 私たちは、森本くんのアパートへと一緒に歩き出した。アパートには、同じサークルの万里ちゃんと圭くんが待っている。今日のお昼に集合して、明日の大学祭で模擬店に出すカレー大鍋二つ分を、この時間までひたすら作っていた。カレーのレシピを決めて調理計画から実際の調理までを全部こなした万里ちゃんと、材料の買い出しや力仕事全般を担当した圭くんは、煮込み時間が終わってコンロの火が消えた瞬間、床にへたり込んだ。軽い夜食でも買ってこようかと森本くんが言った矢先に、別の場所で調理をしていた先輩から、紙皿が足りないから用意しておいてほしいと連絡が来た。万里ちゃんと圭くんの状況を見る限り、私と森本くんが買い出しに行くのが、一番現実的な流れだった。
 集まった四人のうち、森本くんだけはサークルのメンバーではない。家が大学に近いからキッチンを使わせてほしいと友達の圭くんに頼まれ、流れで手伝わされてしまっただけだ。顔は知っていたけど、お互いに自己紹介をしたのも、喋ったのも今日が初めて。友達の友達でしかない人の家に、会ったその日に上がり込んで一緒にカレーを作り、今は二人並んで歩いている。……この関係を、何て説明すればいいんだろう。

 森本くんの存在は、一年生の頃から認識してはいた。キャンパスも学年も同じで、髪を赤く染めているという特徴があれば、授業やサークルが被っていなくても顔を覚えてしまうのは必然だった。大学生らしく弾けたい人なんだろうな。バンドでもやってるのかな。そんな印象を抱いていた。でも一学期が終わる頃、それを覆す出来事があった。
 その日、私は教室でテストを受けていた。「都市文化と現代社会」というクラスのテストで、資料持ち込みOKの記述式。資料を見ながら解けるなら楽勝だと思ってろくに準備をしていなかった私は、想像以上に難しい問題を見て青ざめた。周りの学生がカリカリと答えを書く音に急き立てられ、とりあえず単位がもらえる程度には答案用紙を埋めようと、闇雲にペンを走らせた。
 残り十分を回った時、ガタン、と音がした。顔を上げると、二列前の窓際の席で、赤い髪の男の子が席を立ち、荷物をまとめていた。講義のプリントが入ったクリアファイル、そして色とりどりの付箋が付いた本が数冊、手際よくリュックに仕舞われてゆく。右手に握られた答案用紙には、表にも裏にも、文字がびっしり書かれていた。付箋だらけの本も、字だらけの答案用紙も、彼の髪の毛や、缶バッジがいくつも付いた黒いリュックとは不釣り合いで、私は手を止めて見つめてしまった。
 男の子は教壇まで歩いていって、パイプ椅子に座っていた教授に答案用紙を渡すと、左手首の時計をちらっと見て、小走りで教室を出ていった。
 それ以来、キャンパスで彼を見かけると、反射的に目で追うようになった。図書館のソファー席で、本や雑誌を読んでいるところに何度か遭遇した。いつも一人というわけではなく、数人の男友達と一緒のこともあった。
 遠くから観察しているうちに、男の子に抱いていた印象が、少しずつ変わっていった。見た目とは裏腹に、大人っぽい。つるんでいる友達が、男子大学生にありがちなバカ騒ぎやオーバーリアクションをしても、赤髪の彼は一緒になってふざけたり大声を出したりすることなく、さらっと突っ込みを入れるか静かに笑っているかのどちらかだ。
 一人でいる時の彼の周りには、キャンパスの浮ついた空気とは真逆の、しんとした静けさがあった。目先の楽しさに飛びついたりせず、目指すべき場所を知っているような。

 右側を歩く森本くんを、横目で盗み見る。根元の部分が黒くなりかけている赤い髪。細い奥二重の目、すっと伸びた鼻筋、鋭角を描く顎のライン。オーバーサイズ気味な、黒と赤のボーダーのセーター。膝の辺りが破れた黒いデニムに、焦げ茶色のゴツいレザーブーツ。本人の佇まいとパンクな服装だけ見たら、やっぱり近寄りがたい感じがする。
 でも、いざカレー作りが始まると、森本くんは万里ちゃんに頼まれた作業を快く引き受け、てきぱきと片付けていった。面倒なジャガイモの皮むき(芽もくり抜かないといけない)は、ほぼ森本くんがやってくれた。「野菜そんな細かく刻まなくてよくね?」「駄目! 火の通りが悪くなっちゃうから! 食べ歩きサークル『めしざんまい』の出すカレーが他のサークルのやつに負けるなんて許されない!」――ヒートアップする万里ちゃんと圭くんはかなりうるさかったのに、森本くんの顔には呆れの混じった微笑が浮かんでいて、そんなに冷たい人じゃないんだなと安心した。具材の切り方が分からず「無理!」と音を上げる圭くんに「こっち終わったら手伝うから頑張れ」と声を掛けたりもする。器用な手つきでジャガイモの目をくり抜く様子に魅入っていたら、不意に森本くんが顔を上げ、目が合ってしまった。

 信号を渡って、長いだらだら坂を下る。さっと向かい風が吹いて、私はレジ袋を抱え直した。森本くんの唇が、さみ、と動いて、切れ長の目がさらにきりりと細められる。こんな顔してても、ジャガイモ剥いてくれたんだよね……。私は左を向いて、声を出さずに笑った。
 不意に、鐘を叩くような、カンカンカンカンという音が響き渡った。
「あー。踏切、閉まっちゃうか」
 森本くんが、私に言っているのか独り言なのか分からないボリュームで言葉を発し、苦笑いしながらこちらを見やった。一歩進むごとに音は大きくなり、行きの道に踏切があったことをようやく思い出す。その時は待たずに通れたから意識しなかったけど。
「荷物多いし、ゆっくり行こうか……走れば間に合うかもしれないけど」
 森本くんの声には疲れが滲んでいて、改めて申し訳なくなる。
「うん。無理すんのやめとこ」
 道を曲がると、音と同じリズムで点滅する真っ赤なランプが目に飛び込んできた。黒と黄色の縞模様のバーがあっという間に下がりきり、私たちは遮断機の脇で立ち止まった。甲高い警報の音に被さるように右から電車の音がして、白い車体に青い線の入った鈍行がゆっくり通過していった。通り過ぎた後も、音は止まない。
「ここ、開かずの踏切なんだよね。タイミングによっては十分くらい待たされる」
「そうなんだ」
 私たちはしばらく無言で待った。線路の向こうには街灯がまばらに点った、人通りのない道が伸びていているだけだ。見ていて暇潰しになるようなものはなく、二本目の電車が来る気配もなかった。
 森本くんが、二リットル入りのペットボトルで膨らんだレジ袋を足元にガサッと置き、気怠げに息を吐く。この際、前から気になっていたことを訊いてみよう。私は森本くんの方を向いた。視線が絡む。
「森本くんて、卒業したら院に行くの?」
「いや、院までは行く予定ないなー。何で?」
 細い目が、ちょっと丸くなった。
「本に、めっちゃ付箋貼ってたから」
 森本くんが吹き出す。笑うリズムに合わせて赤い頭が揺れ、左耳に付いた銀のイヤーカフがランプの光を受けて鈍く光った。
「よく見てんね。学者は目指してないけど……それ、いつの話?」
「都市文化と現代社会の授業で。それ見る前は、バンドやってるのかなーって思ってたから、意外だった」
「何それ! 髪赤くても、勉強はするよ……」
 ひとしきり笑ってから、森本くんは呟くように言った。
「この髪は、一つの通過儀礼みたいなものかな」
 突然の四字熟語に、頭がついていかない。それが顔に出てしまったのだろう、森本くんは考えながら言葉を続けた。
「髪染めたり、癖のある格好したりするのは、東京にいるうちにやっとこうと思って」
「それは……東京じゃないとできないの?」
 私の声を遮って、急行がゴーッと通過していった。言葉を探すように上空に目を遣った森本くんは、轟音が遠ざかってからやっと口を開いた。
「俺、群馬出身なんだよね。地元だとさ、いきなりこんな色に髪染めたら、その日のうちに噂が広まって、『アツシは不良になった』とかあることないこと言われるわけ。でも東京は、なんつーか……いい意味でみんな周りに無関心だし、干渉しない。俺より派手な髪色の奴もいっぱいいるし。だから、見た目に関してやってみたいことは、大学生のうちにやろうかと」
「へー……」
 思ってもみなかった答えだった。分かるような、分からないような。
「あ、都築さんって、東京出身?」
「うん」
「そっか。じゃああんまりぴんと来ないかなぁ」
 森本くんが、小さく頷きながら続ける。
「都築さんはきっと、卒業しても東京以外に住む可能性は低いだろうけど、俺みたいな地方から出てきた奴は、状況によっては地元に戻るかもしれないからね。多かれ少なかれ、タイムリミットを意識して焦ってる。東京で大学生でいられるうちにできることはやっとかないと、みたいな」
 タイムリミット? 焦ってる? ずっと東京で暮らしてきた私には、なかなか想像しづらい感情だった。でも、キャンパスや学生街で何かに駆り立てられるように騒いでいる同じ大学の人たちを思い返してみると、確かに「焦ってる」という表現はしっくり来た。そして、タイムリミットに焦って地元ではできない格好をしながらも、周囲や自分自身をドライに俯瞰している森本くんの在り方、何だか面白い。
「森本くんは、地元に戻って就職しようと思ってるの?」
「いや、三年ぐらいは東京で働くつもりだけど……経験積んだら、戻ろうかなとは考えてる」
「もしかして、実家を継ぐ、とか?」
「それはないけど……町づくりとか、文化事業とか、面白そうだなと思ってるから。東京に来て、いい店とか図書館とかを見つける度に、高校生の頃に住んでた町にもこういう場所があったらよかったな、っていう気持ちになるんだよね」
「そうなんだ……。確かに、高校時代にどんな文化に出会うかって、人生左右することかも」
「うん。頭が柔らかいうちに、色んな人間や世界に触れられるって大事だと思って。町の人と、外から来た人との交流が生まれる空間があったら、閉塞感が薄れるんじゃないかなーとかね。ちょっと人と違うことすると噂になる、みたいな空気を変えられたら……」
 ははっと笑いながら森本くんは俯き、自分の頭を指先ですっと撫でた。
「まあ、具体的な目標には落とし込めてないんだけどね。古屋さんみたいにビジョンが固まってなくて……」
「あー、万里ちゃんはすごいよね。将来はカフェを作るって一年生の頃から言ってるし、勉強もしてるし。今日のカレー作りも、もうプロだった……あっでも、人使い荒かったよね、ごめんね」
「いや、あれはあれで楽しかったよ。俺、バイトと学外の活動ばっかりしててサークル入ってないから、ああいう経験なくて。今年は珍しく大学祭の思い出ができた……」
 森本くんの言葉が、竜巻のような轟音に掻き消された。目の前を、ロマンスカーが猛スピードで通過していった。
「何あれ。新幹線?」
「ロマンスカーだよ。小田急線の一番速いやつ」
「えっ、『ロマンス車』ってこと? すげー名前……」
「ロマンス車⁉」
 きりっとした顔としょうもない発言のギャップに、声を上げて笑ってしまった。森本くんもつられて笑い出す。
 踏切の音が止んで、遮断機のバーが上がった。アパートに着くまで、私たちはずっと喋っていた。


//2014//

 改札を抜け、一歩前を歩くアツシの隣に並んで、手を繋いだ。見慣れた交差点で、照りつける西日を浴びながら、信号が青になるのを待つ。
 八月が終わろうとしていた。向かいのクリーニング屋の壁沿いに置かれたプランターからは朝顔の弦が絡みついた棒が伸び、しぼんだ花と黄色くなりかけた葉が微風にそよいでいる。アツシの着ている木綿のシャツが、空気を孕んでふわっと膨らんだ。
 生ぬるい風に乗って、青リンゴ味のガムみたいな匂いが流れてくる。アツシのヘアワックスだ。赤かった髪は就職活動の時期から黒くなったけど、このヘアワックスの匂いはずっと同じだ。お互い会社員になって、会う頻度もデートコースも変わったし、アツシの着る服も昔みたいな尖ったデザインではなくなった。それでも、青リンゴの匂いが鼻先を掠めると、帰ってきた、という気持ちになる。
「あー、別世界だったなー」
 アツシが、寝起きのような声で呟いた。
「うん、やっぱり銀座は銀座だったね……」
 さっきまで、私たちは銀座でデートしていた。アツシが群馬に帰ることが決まったので、東京を離れる前に一度くらい贅沢に遊んでみることにしたのだ。クラシカルで重厚感のある建物、歩行者天国で見かけた粋な着物姿の男女、レトロな洋食屋で出てきた端正なオムライス、フルーツパーラーの華やかなパフェ、道端の風鈴市、何もかもが色鮮やかで、一つ一つに驚いているうちに、平日の倍速で夕方になった。でも今、アツシのアパートのあるこの街に戻った途端に、現実が襲ってきた。これが、私たちの最後のデート。

 二ヵ月前、アツシに、東京を離れることを告げられた。
 発端は、春先にアツシの地元で行われた高校の同窓会だった。再会した昔の友達から、地元の廃校舎を人の集まる場所として活用するプロジェクトが始まると聞いたアツシは、自分のやりたいことはこれだと確信したらしい。次の日、アツシは履歴書を持ってプロジェクトリーダーに会いに行き、翌週に行われた正式な面接を経て、チームに加わることが決まった。東京での仕事を辞める手続きやアパートの解約をてきぱき進めていくアツシは生き生きしていた。
「見えないものに導かれてるんじゃないか、って思った」
 普段はあまり感情を表に出さないアツシが、いつになく声を弾ませていた。ずっと目指してきたことが形になる時、人はこんなに輝くんだな。そういう瞬間に立ち会うのは確かに感動的だったから、私は「よかったね」と言ってしまった。

 長く伸びた二人の影を見下ろしながら、だらだら坂を下ってゆく。アツシのアパートまで行って、貸していた本とCDを受け取ったら、泊まらずに帰るつもりだった。うっかり余計なことを口走ってしまわないように。
「小学校の建物、もうリノベーションしてるの?」
「まだ作業は始まってないけど、計画は進んでる。先月、耐震チェックが終わったからね。でも、俺がやることになるのは事務作業かな。自治体への申請に必要な書類作りとか、テナントの募集とか」
「そっか。商業施設を立ち上げるんだもんね」
 アツシの心はもう地元に戻っていて、今この街で私の隣を歩いている華奢な身体も、握っている手も、ただの幻のような気がしてくる。いや、本当は、五年前に初めて喋った時から、ずっとそうだったのかもしれない。東京にあるものがどんなにアツシを魅了しても、心のふるさとにはなれない。街も、キャンパスも、私も。もっと早く気付けばよかった。
「あっちの生活に慣れるまで、しばらくかかると思うけど、落ち着いたら遊びに来てよ」
「うん」

 二ヵ月前にも、同じことを言われた。「離れていても月に一度くらいは会う時間を作ろう」でも、「一緒に来てくれないか」でもなく、「落ち着いたら遊びに来てよ」だった。
 低い声、静かに笑った顔、すっと目を伏せる仕草、全てが私の知っているアツシのそれではなくて、ついさっきまでの二人が過去になってゆくのが分かった。君はこれから、彼女じゃなくて、時々会うだけの友達になってね。アツシが伝えたかったのは、多分そういうことだ。
 大学二年の終わりに付き合い始めてから四年近く一緒にいて、カップルがやることは一通りやった。食べ物の好き嫌いも、ワックスを付けていない時の頭の匂いも知ってるし、本人すら知らない寝言や歯ぎしりも聴いた。私がアツシの一つ一つの断片を大事に集めてきたように、アツシも自分の中に積み重なった私の断片を愛おしんでいるはずだと、何の根拠もなく信じていたことに愕然とする。一緒にいた時間が長かったというだけで、相手にとって価値のある人間になれるなんて、冷静に考えれば勘違いでしかないのに。

 帰省の話をされてから、アツシを思うことは、自分を責めることと同じになった。
 まだ学生の頃、飲み歩きをしようと言ったらアルコールが苦手だと返されて、「えー! 飲めないのー⁉」と反射的に言ってしまった。持って生まれた体質にケチをつけるべきじゃなかったと後で反省したけど、アツシは苦笑しただけで怒らなかったから、別にいいやと流してしまった。ちゃんと謝ればよかったのに。
 アツシの部屋に行く時、いつも吸っているマルボロメンソールを買ってきてと言われていたのに、間違えてただのマルボロを持っていってしまった。部屋にあったコップを割ってしまった。就職したばかりの頃、会社の先輩に「この仕事をやるのに必要なボキャブラリーが少なすぎる」「やる気と意気込みだけで何とかなると思わないように」と言われたのがショックで、泣きながら電話してしまった。それ以外にもきっと、無意識のうちに、アツシを嫌な気持ちにさせてきた。アツシがしてくれたことに見合うものを、私は返せていなかったんだ。
 そもそも、目的意識を持って毎日を生きているアツシのような人が、「美味しいものを食べるのが好き」くらいしか生きる指針がない私と、どうして付き合ってくれたんだろう。最初から釣り合っていなかったのに、私はそんなことにも気付けなくて、どこまでも一緒に生きていくつもりでいた。馬鹿だな。情けないな。今日までの二ヵ月間、不意に涙が溢れてくることが何度もあった。
 ずっと隣にいる相手になれなかった私にできるのは、アツシの記憶の中で、東京で暮らしていた頃の綺麗な思い出として生き続けることだけだ。祈るような気持ちで、最後のデートプランを練った。

 カンカンカンカン、と警報の音が鳴り始めた。角を曲がると、ちょうど遮断機のバーが下がりきったところで、真っ赤なランプが暮れがかる薄紫の空をバックに点滅していた。あの大学祭の前日と同じように、私たちは虎の尻尾みたいなバーの前で立ち止まった。
「今日、ありがとう。真歩が誘ってくれなかったら、銀座に行く機会なかったと思う。食べ物もハズレなしだったし……やっぱグルメ雑誌で編集者やってるだけあるよな」
「よかったー。私もこういうタイミングじゃないと贅沢しようって思えないし、楽しかった。ていうかアツシ、実はパフェ好きでしょ」
「えっ、ああ……確かに美味かったけどさ……」
 右手で口元を覆うのは、照れている時の仕草だ。パフェが好きって認めてしまえばいいのに、何で恥ずかしがるんだろう。
「何笑ってんの?」
「だって――」
 言いかけた瞬間、轟音を響かせながら、白い電車が線路を疾走してくるのが見えた。ロマンスカーだった。頭が真っ白になった。

「真歩?」
 返事の代わりに、喉から嗚咽が漏れた。涙がどっと溢れてくる。
 一緒にロマンスカーを見送ったあの日から重ねてきたものが、崩れてしまうんだ。気付いたら口から言葉がこぼれていた。
「別れたいなら、別れたいって、言って」
 アツシと繋いでいた手を離し、頬を拭った。流れたマスカラが付いた指を見てはっとする。もう、顔は上げられない。
「何言ってんだよ」
「このまま、一生、会わなくていいって思ってるでしょ……」
 続きは声にならなくて、私は泣き崩れた。あと少しだったのに。こんな踏切に捕まらなければ、最後まで笑顔でいられたのに。唇を噛んだ瞬間、口紅の、クレヨンのような味がした。全部、台無しだ。両手で顔を覆った。
背中に、アツシの手の感触がした。骨ばった手が背中を撫でるリズムを感じているうちに、少しずつ呼吸が整ってきた。
「落ち着いたら、ちゃんと連絡するから」
「いつ?」
「まだ分かんないないけど……」
 そうやって、少しずつ自然消滅していけばいいと思ってるんでしょ。胸の奥で、再び悔しさが膨れ上がる。
「会う日が、決まってない約束なんて、ないのと同じだよ……」
 言ってしまって、もう駄目だと思った。空気を読まずに、自分の気持ちばかり押し付けて。最低だ。
「じゃあさ……九月の、最初の連休に来て」
 鼻先に、ふわっと青リンゴの匂いが漂った。ゆっくり視線を上げた。眉間に皺を寄せて、細い目をさらに細めたアツシの顔があった。泣きながら電話した日、仕事の後に私の会社の最寄り駅まで様子を見に来てくれた時と、同じ顔だった。
「そのタイミングで見せられるもの、多分何もないけど」
 私は頷いた。二人の真横を、鈍行がゆっくり通過していった。
 警報の音が止んだ。静寂の中、遮断機のバーがすっと上がった。

 私たちはしばらく無言で歩いた。日は完全に落ち、道の街灯が瞬き始めていた。
 アパートが見えてきた時、不意にアツシが私に向き直った。
「なんか、ごめんな」
 意味が分からなくて、私はただアツシの顔を凝視した。街灯を受けて光る真っ直ぐな鼻筋が綺麗で、思わず見惚れる。
「俺の地元のことなんて、真歩は興味ないと思ってたからさ」
 アツシの表情がくしゃっと崩れ、口元から白い歯が小さく覗いた。目元は前髪の影になってしまって、アツシが呆れているのか喜んでいるのか、私には分からなかった。


//2019//

 小さな店が立ち並ぶ細い道を進む。角を曲がると、見覚えのあるスーパーマーケットの前に出た。
「ここには何年も世話になったな」
 アツシが建物を見上げながら呟く。出入口の上に掲げられた「毎月5のつく日はポイント3倍!」の横断幕が、風に煽られて小刻みにはためいていた。空全体にうっすら雲がかかっていて、地上に届く太陽の光は弱々しかった。
 まだ人がまばらな午後の商店街を抜け、信号のある十字路に出た。クリーニング屋の壁沿いに置かれたプランターに、白い水仙が一本だけ、ぽつんと咲いている。
「万里ちゃんのカレー食堂、味も内装も本格的ですごかったね。バターチキンカレーも最高だった……人生でトップクラスの美味しさだよ」
「うん、古屋さん、まじ尊敬するわ。カレー屋の店主、ぴったりだよね」
「ほんとそう! 様になってたねー」
 昔と変わらず豪快な万里ちゃんの様子を思い出すと、自然と笑いがこみ上げてくる。
「それにしても、まさか古屋さんが、俺が昔住んでた街に店を作るとは思わなかった」
「ね、すごい偶然。路地裏で木造の物件を探してたら、たまたまあそこを紹介されたんだって」
 白い息を吐きながら喋っていると、自然と頬が紅潮してくる。万里ちゃんと再会できた喜び、こだわり抜かれた店への感動、そして至高のバターチキンカレーが、私の内部で熱を発しているようだった。一歩踏み出す度にごわごわ鳴る厚手のダウンジャケットが鬱陶しいほどに。
「戻るの遅くなったら、お義母さんに悪いかな」
「大丈夫でしょ。久しぶりに孫と会えるって喜んでたし。歩美もそんなに騒ぐ子じゃないから」
「そうかな。じゃあ、俺が住んでたアパート、ちらっと見に行ってもいい? 一瞬外から確認するだけでいいんだけど」
「うん、寄ってこ」

 私が群馬に移住してから、もう四年目になる。
 五年前の九月、私は新幹線に乗って、それまで何の縁もなかった駅に降り立った。改札で出迎えてくれたアツシは、東京にいた時より表情が穏やかだった。校舎のリノベーションは終わっていなかったが、ちょうど校庭でマルシェが開催される日だったので、車で連れていってもらった。
 校庭には、野菜や物産を売るテントや移動式のカフェなどが十店舗くらい出ていて、思いのほか賑わっていた。出店者はアツシの地元の仲間ばかりだろうと思って緊張していたら、実際は年齢もばらばらだし、男女比も半々ぐらいで、程よい距離感で接してくれる人がほとんどだった。地元民だけではなく、移住してきた人、隣の県から参加している人もいると分かって、疎外感が薄れた。
 秋晴れの空の下、移動式カフェのテーブル席で山を眺めながら飲むコーヒーは、全身に染みわたった。帰り際、「ありがとうございました」と言って見送ってくれた店主のお姉さんに、何も考えず「また来ます」と返していた。帰りの車の中で、アツシと次に会う日を決めた。
 行く度に校舎のリノベーションは進んだ。コミュニティができてゆく過程は、見ていてわくわくした。移動式カフェが一階の教室に入ることになったと聞いて、せっかくなので店ができるプロセスを取材させてもらい、記事にした。雑誌が出て店主や運営の人から感謝された時は、自分も仲間になれた気がして嬉しかった。
 意外なほど楽しい遠距離恋愛が一年続いた後、アツシから結婚しようと言われた。断る理由はなかった。東京にいなくても、今の会社を辞めても、美味しいものへの感動を誰かとシェアする仕事ができれば、そしてアツシがいれば、私は幸せなのだ。両親は寂しがったけど。
 結婚後、ひとまず市街地の賃貸で二人暮らしを始めた。私は地元の新聞社の契約社員として働きながら、空いた時間に単発のライターの仕事を受けるようになった。一年経つか経たないかで、娘の歩美が生まれた。この子が大きくなる前に、広い家に移ることを考えたほうがいいのかもしれない。

 一緒に住み始めてから、東京を離れる時に私と別れようと思っていたかどうか、アツシに尋ねてみたことがあった。
「思ってないよ。でも、真歩の反応によっては、自然消滅する流れがいいのかな、っていう気持ちはあったけど」
別れても構わないって思ってたの、と詰め寄ると、こんな返事をされた。
「だって、地域興しプロジェクトが上手くいくかも分からないし、真歩が仕事頑張ってるのも知ってたから、気軽に『一緒に来て』とは言えないだろ」
アツシは一呼吸置いて、こう続けた。
「でも、銀座に行った時、帰りに真歩が泣いたの見て、まだ付き合える気がした」
「え、そうなの?」
 面倒臭い女と思われるような態度を取ってしまった、もう駄目だと思っていたのに。
「だって、俺が知る限り、真歩が泣いたのって二回しかないじゃん。会社の先輩にきついこと言われた時と、あの日と。仕事と、俺といる時間と、同レベルに思ってくれてんのかなーって」
 言葉を失った。
 私は、泣いてよかったんだ。

 長いだらだら坂を、二人並んで下る。五年前には想像すらできなかった未来を、当たり前のように歩いていた。未来では、わざわざ手を繋ぐのも気恥ずかしくなるほどに、一緒にいることが日常になっていた。新しくできたコンビニや駐車場に気付いても、昔そこに何があったのか、もう思い出せない。
「来ないうちに、けっこう変わったね」
「うん、駅も新しくなってたしね。この坂も舗装が綺麗になってる。前はもっとでこぼこだったのに」
 喋りながら、見覚えのある曲がり角を左に折れた。
「えっ」
 目の前の光景に、思わず立ち止まった。
 踏切が、なくなっていた。
 地面に敷かれたレールは消え、代わりにコンクリートの陸橋が、静かに私たちを見下ろしていた。黒と黄色の縞模様のバーも、真っ赤なランプも、レールの下に敷かれた砂利も、全てが姿を消していた。遮るもののなくなった車道を、銀色の小型車が走り抜けていった。
「そうか。この沿線、立体交差の工事してるんだったな」
 アツシがぽつりと言った。
 昔は線路越しに見えた細い道が、今は陸橋と地面が作る無機質な四角形の中に、窮屈そうに収まっていた。目の前に広がるどこかよそよそしい光景を眺めていたら、この場所で待っていた時のことが、グラスに注がれだソーダの泡のように、少しずつ脳裏に浮かんできた。

 二人で遮断機のバーが上がるのを待ちながら、沢山の言葉を交わした。とりとめのない話。しょうもない質問。意外と真面目な答え。言うつもりのなかったこと。期待していなかった返事。
 一人で待っていた時の記憶も蘇ってくる。線路の向こうにあるアパートを思いながら、時には差し入れに買ったお菓子や出張のお土産を持って、右に左に通り過ぎる電車を見送った。炎天下でも、雨の中でも、待たされる時は待つしかなくて。

 今、このがらんとした景色の前で振り返ってみると、あの足止めを食らっていただけの時間が、たまらなく愛おしく思えた。警報の甲高い音、繋いだ手の温度と感触、電車の轟音、静寂。一瞬一瞬が、私たちのささやかな歴史だ。
 五年前の夏の終わりに私たちを繋ぎ止めた踏切は、何も言わずに行ってしまった。せっかく、二人で戻ってきたのに。
 昔それが立っていた辺りに目を凝らしても、陸橋の足元にまばらに生えた雑草が、静かに風にそよいでいるだけだった。

「開かずの踏切も、時代には勝てなかったか」
「そうだね」
 私たちはゆっくりと、陸橋の下の日陰に足を踏み入れた。太陽にかかっていた雲が途切れた瞬間、地面に伸びた陸橋の影が、ぐっと濃くなった。
 道の向こうから、二台の自転車がこちらに向かってくる。制服の上に紺色のコートを着た男の子と女の子が、耳元で鳴る風に負けないように大声で喋りながら、私たちの脇を走り抜けていった。
 私は思わず振り返って、二人が陸橋をくぐり、光の中へと走り去るのを目で追った。立体交差の時代になって、ゆっくり話す時間を踏切が作ってくれることはもうない。
「そういえばさ」
 アツシが顔をこちらに向けた。視線が絡む。
「真歩と最初にここで喋った時、ロマンスカーの話したよね」
「したねぇ。アツシが『ロマンス車』って言ったのがツボにはまっちゃって……」
 アツシが、ばつが悪そうな表情で笑う。右手がゆっくり口元に伸びていく。
「一回ぐらい、乗ってみたいよな。ロマンスカー」
「いいね、それ」
 鼻先に、青リンゴの匂いがふわっと香る。毎日嗅いでいて、もう意識することもなくなってしまったと気付く。九年以上、一緒に生きてきたんだ。言葉や、視線や、沢山の方法で、気持ちを確かめ合いながら。時々、小さな偶然に助けられながら。
 後ろから、ガタンガタンと電車の通り過ぎる音が流れてくる。まさか、このタイミングでロマンスカー? 振り向いて、陸橋を見上げた。車体は陸橋の壁に隠れてしまって、見えたのは遠ざかってゆく菱形のパンタグラフの列だけだった。
 日の光を受けて銀色に光りながら流れてゆくパンタグラフの残像は、音が止んでからもずっと瞬いていた。眩しくて目を閉じた拍子に、少しだけ涙が出た。

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