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いちばん古い海

たとえばあのとき、父と母が暮らしていた街から海が見えていれば、私の名前は「海ちゃん」になっていたかもしれない。

そもそもの候補として、現在私に名づけられた世界でいちばん尊い名前以外にもいくつかあったみたいで、その中に「海」もあった。私はその話をずいぶん昔に母からきいたとき、「そっちでもよかったなぁ」と思った。その名前は、ずいぶん昔に会わなくなってしまった父が考えてくれた名前だった。

私の記憶の中でいちばん古い海は、鳥取砂丘だった。当時、小学三年生か四年生くらいだった私は、きっと砂に足をとられながらも懸命に上って下がって、砂浜にたどりついたに違いない。大好きな海まで突っ走る私に、父がついてきてくれていたはずだった。青くて壮大な海は、少しだけ私を恐ろしくさせたことを覚えている。頼りない不安が小さな私を包んでいた。たとえば私のそばにいてくれるはずの父が、何か、得体のしれない何かにさらわれてしまうんじゃないかというような、そんな、漠然とした不安だった。その鳥取旅行は確か日帰り旅行で、私たち家族はラクダにのったり何か美味しいものを食べたりしたあと、祖父母へ梨というお土産を購入したような気がする。しかし、日が暮れたあと父だけが違う家へ帰ったことは、事実だった。

書いているうちに、そういえば、もっと昔、もうどこだったか思い出せない海で、姉がくらげに刺されそうになった気がする……なんてことも思い出してきた。海の近くの旅館に親戚一同で泊まったことも、思い出した。結局どれが私にとっての初めての海であるかどうかはちっとも定かではなく、色あせた記憶にうんざりしてしまう。ため息をつくしかない。

しかし、十八歳になった私が初めて見た海は、よく覚えている。

昔からアジアンカンフージェネレーションが大好きな私は、大学受験で横浜に行ったついでに、(というよりも限りなくこっちが本題だったのだけど)、とうとう鎌倉に行った。新横浜駅から始発で藤沢駅まで向かい、江ノ電に乗り換える。のりおりくんを買って、一駅ずつ降りて街を歩いた。ついてきてくれた姉を振り回す一日になったけれど、だけど、姉と一緒に行けてよかったなと思う。
二月の末だったので、花粉がひどくて天気もどん曇りだった。当時の私は雨女のピークを迎えていて、ここぞという日に雨が降った。ついでに、私が外に出ると雨が降った。しかしその日、太陽は耐え抜いてくれた。おかげで、灰色の雲をかきわけた日の光が差し込む由比ヶ浜海岸、という写真が撮影できた。出来はさておき。
「憧れ」に触れたとき人は、こんなものだったのかとがっかりしたり、あるいは理解した風を装ったりするけれど――私にとっては、鎌倉の海はいつまでも憧れでしかなく、がっかりすることもなかった。私は目の前に広がる灰色の海になら、飛び込んで消えてしまったっていいと思っている。そしていつか、晴れた午後に海に行きたい。それが私の夢である。

今ではすっかり、父とは年に二回しかないお互いの誕生日にしか連絡をとれなくなり、しかしながら私たちがいつ死ぬか分からない日々は続いている。私は記憶を失い続けながら生きているけれど、だけど、きみはどうだろうか。私が思い出せないこと、きみが覚えていてくれたら、それが私たちが一緒に過ごしたことの意味になるのではないだろうか。私たちがいつか消えてしまったとき、本当に過去はなかったことになってしまうのかもしれないけれど、まあそれもいいじゃないか。私たち以外の誰が、私たちの美しい記憶を知る必要があるだろうか。私たちは私たちのために大切に育てた過去を、できるだけ長い間、磨き上げ、慈しみ、抱きしめていこうではないか。

私は、遠い海の波がやって来るのを待ち続けてくれたきみの横顔ばかりを覚えているから、きみはその、美しい瞳に映った海の青さを覚えておいてくれないか。今度会ったとき、お互いの記憶を分け合おう。私にとって海は、それができる場所だった。

#わたしと海

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