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ありふれた絶望、に対する410円の救い

未露光のフィルムのために2時間待ち、750円を払った。
750円を払ったことに対しては何の不満もないのだが、2時間待ったことに対する不満――といえば「待たせやがってこの野郎」とお店の人に怒っているように読めそうなのだけどそっちではなく、2時間を有意義に過ごせなかった自分に対する苛立ちと2時間家に帰ることが遅くなった苛立ちであって、特定の誰かに対する怒りではない。

最近、私が絶望したことといえば、それは今日あったばかりだった。帰り道、海浜公園のある駅で降り、カメラを首からぶら下げて改札をくぐったのだけど、季節はもうすっかり夏になっていて、ということは海が開いていたわけで、ということは、私がこの間まで降り立っていた、寂しさと自由の風が交互に吹き付けてくる静かで穏やかな青い海はなく、人が泳いでいた。夏、水着を着たいからといって痩せる女の子がいるけれど、海は泳ぐ場所じゃなくて見る場所だぜ。みんな、遠くから眺めていようぜ。海水浴場には2度と行かないと決めた。

海に行きたくなる、海の写真を撮りたくなるわけは、私が海が大好きだといえばそれでおしまいなのだけど、きっと、どこへ行っても思い出してしまうあの子と、たった一つ、海にだけは行ったことがなかったからかもしれない。幻を追いかけ続け、未だ会えずにいる。

海の青になりたい、と願った男の子を、頭の中で生み出したことがあって、その男の子が友だちに宛てて書いた言葉たちを、私は、そして友だちは遺書だと思っていたのだけど(章タイトルも遺書、にしちゃったくらい)、それを、「ラブレター」だと言ってくれた人がいて、そう伝えてくれたときの私の感動と、救われるような思いを忘れたくない。机の引き出しにたまり続ける封筒と、いつの日か書き殴った日記が、誰にも知られないままでもいいと思えた。

私は、どうしようもなく、頭の中で生み出した男の子と同じだ、と思っていたのだけど、信じて疑わなかったのだけど、でも、案外、その友だちだったのかもしれない。見たくないものから目を逸らすことはできても、逃げ切る勇気がない。全てを終わらせることを、逃げ切る、というのなら。


7月6日、乗り換えの駅に到着したのは20時前だった。18時20分には着いている予定だった。降りる前、車内で、「本日約135分の遅れが発生しましたこと、」というアナウンスが流れた。


人が死ぬということは、死んだ人が生きている人間に会えなくなることではなく、生きている人間が死んだ人間に会えなくなる、ということだと、私は思っている。人が死ぬ、ということはそれはもう終わりで、そこからはもう何も始まらない。全てのはじまりがこの世に生まれたことだとするなら、全てのおわりが死ぬことだと考えている。私は、自分で自分の理想とする死に方をいくつか決めているけれど、ただそれを、今すぐに実行したいわけではない。希死念慮があるわけでも、死にたくなるほど大きな何かがあるわけでもない。ただ、不特定多数で、たとえば大地震が起きて「多大な犠牲者が」と後々語られるうちのひとりにはなりたくないな、と思っているから、「じゃあこうしたい」というのを考えている、というだけ。だから、本当に、本当に死んでしまいたいと思いよし死のうと行動する人の気持ちがわからない。わからないし、興味もないから、135分+α、帰るのが遅くなったという事実に絶望するだけ。どちらかといえば、いや言わずとも、「迷惑だ」と呟く側の人間。

死は救いとなるのだろうか? 泣きながら母親に電話するくらいなら、母親のためにだけ生きればいい。大抵の親はきっと、子どもが自分より先に死ぬのは辛いと言って止めるはずだ。なら、そう言ってくれる人のためだけに生きる人生でよくないのか? と私は考えてしまう。なぜなら私にとって死は救いではないから。私にとって救いというのは、光だ。光とは、他者の存在であり、ヘッドフォンから流れる音楽であり、夏に観るクソ映画であり、1日の終わりに読む小説であったりする。救いとは、生活を送る間でしか得られないものだった。そうやって誰かのために生きている間に、救いとなるものに巡り合えないだろうか。ただじっと、座り込んで待っている生活はいけなかったのだろうか。そしていつか、光が差し込んでこないだろうか。あるいは、それまでの人生の中に救いはなかったのだろうか。たった一つでいい、その瞬間さえあればこれからずっと生きていけるような、そんな時間が。

こういう風に書いていると、まるで、私が、生きることを強要しているように、自殺を悪として捉えているように思われそうだけど、決してそういうわけではなく、もちろん、自分の人生なのだから、自分が終わらせてしまって問題はないと思う。辛いことからなんて逃げてしまえばいいのだから。私も逃げて、目を逸らし続けてきているから、他人のことをとやかく言えない。

私が今想っているのは、いなくなった人ではなくて、その、周りの人のことだった。電話の向こうにいた母親は何を思っていたのだろう。昨日まで声をかけるタイミングを見計らっていた同級生がいたかもしれない。様子がおかしいな、と思って声をかけようとしてくれた赤の他人がいたかもしれない。そういう、手を伸ばしていた人のことを、想っている。その手はどうなるのだろう。どこへ行ったのだろう。いつまでも伸ばし続けるのか、下げてしまうのか、あるいはちょん切ってしまうのだろうか。こんな風に、ばかみたいなことを考えている人、私の外にいるのだろうか。言葉を探しすぎて、薄っぺらい私の辞書には伝えられる言葉が見当たらなくて上手く文字にできない。

ただ、少し書いてしまうと、「自殺に追い込んでしまう世の中を改善するべき」「駅員さんを労わろう」「他人の迷惑とかを考える暇もなく足を踏み出してしまっているんじゃないか」「迷惑、って言える頭おかしい」といった類の言葉全てが嘘くさい。何もかもが受け付けられない。他人が好き勝手に言っているな、と嫌悪感、だけどこれを書いている私自身もまた赤の他人。

ホームで一時間以上たちっぱなしの間も、電車に揺られている間も、ずっとこんなことを考えていた。今も考えている。「あーあ、所詮こんな世の中だ」と、また、ありふれた絶望が私に襲い掛かるけれど、だけどそんなものは、410円の生クリームがたっぷり入ったクレープで、吹き飛ばすことができる。安くていい。節約中の身には高いけど、いなくなってしまうよりはずっと安い。

というのを、今年の7月6日に書いていた。少し経って思い出してみると、どうしようもなく辛くて、だけど、どうにかしてでも保っていたいときだった。

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