見出し画像

ige

くしゃみが止まらなくなった。

 もう雪は解けたことだし、いよいよ花粉症デビューかと思い診療所へ行ったがそうではなかった。
 どうやら私は、人間アレルギーになったらしい。症状は今のところ、鼻水とくしゃみ、あとはちょっぴり肌が荒れるくらいなものだ。花粉症の友人を見習って箱ティッシュを持ち歩かなければならないなと思っていたのだが、その必要はなかった。
 研究のために捕らえられ、何やら大袈裟なガラスケースの中に放り込まれたからだ。
だが、研究しようにも研究者達はみな人間で、彼等が近づくたびに私の症状は悪化した。ガラスを隔てても変わらない。鼻水とくしゃみは止まらず、涙が溢れて、強く擦るから肌は赤く荒れた。このままでは全身の水分が無くなって死んでしまうのではないかと思った頃、突然解放された。あぁ、やはり飽きてしまったのかもしれないな。ウサギにはなれなかったようだ。

 冷蔵庫に残してきたトマトやお豆腐は無事だろうかと考えながら、扉の鍵を開ける。この音がこの世界で最も好きな音かもしれない。
久しぶりに帰ってきた部屋はひどく手狭になった気がしたが、寧ろ、それが心地良かった。もう人間に会わなくても良くなったのだなと頬が緩む。好きな本やお菓子を買い漁り引きこもってみたのだが、それもそれで寂しくなるもので、その辺にいる人間と変わらないんだなと、左手に爪を立てた。

 本とお菓子と惰眠を貪ったあと、私は、知らない人に会いにいくことにした。今までを知らない、これからを知る必要もない、そういう距離感が楽なのだ。とはいえ、やはり症状は辛かったし、2人目とバイバイしたところで、諦めることにした。

 もういいや、辞めてしまおう。どうせ辛いのなら、せめて最後は好きな人に会いにいこうと決意する。

 随分昔に髪を切ってしまったので、あの頃の記憶は朧げだが、そういえば好きだったように思う。深く考えもせず、飛び出してきてしまったけれど、あの人はまだあの場所にいるだろうか。
 鍵のかかっていなかった窓からお邪魔したところで、これは不法侵入になるのかもしれないな、などと、ぼんやり思った。見つかった時、許してもらえるような可愛らしい言い訳を考えながら、靴を忘れてきてしまったのでペタペタと裸足で廊下を歩く。
 三階の一番奥の部屋に明かりが灯っていた。扉を開けると、おばあちゃん家の戸棚のような香りがして、自然と口角が上がる。

 そして、本棚の先に、見つけた。

 どうやら私は間違っていなかったようだ。靄が晴れていくように気持ちが鮮明になる。
 あぁ、そうだった。その瞳に映りたくて、何度本を取りこぼしてみせただろう。その声が聴きたくて、何度眠ったフリをしただろう。
 懐かしい背中に、目を細め、思わず触れようとしたその時、おかしなことに気がついた。そうだ。おかしい。
 手が届きそうな距離にいて…苦しくないのは、症状が出ないのはどうしてか。

 それは、つまり、もしかして、

「人間じゃなかったんですか」

 突然の声に驚いた様子もなく、緩やかに振り返った先生は、私の手首を捕まえて「…バレてしまったね」と囁いた。
 「いつからですか?」と問えば、先生は照れたように笑って「それは、自分で考えてごらん」と言った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?