摂食障がいの克服110【who controls myself】
おはようございます。
今朝は朝から1万歩以上歩き、大事な人のお墓参りに行ってきました。
私の家からそのお墓までは、川沿いを歩くので、川の流れをみたり、咲いているお花をみたり。『ゆく川の流れは絶えずして・・・(しかももとの水にはあらず)』そんなフレーズが浮かびました。
方丈記もそうだし、平家物語の冒頭も似た意味合いだと聞いたことがあります。
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ』
少し前にちゃんと読んでみたいと思いましたが、仕事をしていた際にわりと頭を使い果たして、今新しいことがなかなかすっと入りません。
自分なりに勝手に川をみながら感じたことは、本当に時が流れていって、どれだけ悔やんだり、どれだけもとに戻りたかったり、やり直したかったとしても、もう同じところに立ち止まることはできず、気づけばこんなに遠いところ(時間軸的に)来てしまったということ。
けれど、悔やむ過去があったとしても、その当時、めちゃくちゃ闘っていたということも、また事実。闘ってたんですよね。言うこと聞かないからだと、心も。
・・・大事な人は、もうお墓にいて。もう1度会いに行けたと悔やむチャンスがあったけど、仕事で営業成績で追い詰められて、会えなかった。でも、その少し前に、摂食障がいの悩みを聞いてくれた彼女と会うことができていた。これ、摂食障がいの混乱上一番、よかった出来事かもしれない。
山本文緒さんが、先日まで、30代だったと思ったのに、もうこの世にはいなくて、加納弥生さんもこの間まで解説されていたのに、もういなくて、夢にでてくる祖父母も確かにいたのに、もういない。記憶力(だけ)はいいので、たくさんの会話を覚えてるんですよね。
悲しいことだけじゃなくて、つまり現時点でつらい気持ちも、いつかそうじゃなくなる日が来るということ。
心理学用語で、FORGETではなく、LET GOってあるのですが、
忘れるのではなくて、そっと流してあげる。
苦しみなんかはLET GOさせる。
例えば、摂食障がいで一番苦しい時期はやっぱり、この症状を経験すると、避けようがなくて、ひとつずつ紐解くしかないんですよね。
*なぜ、食べることが止まらないのか。なぜ、食べ物を探してまで欲するのか。
*なぜ、体重に異様に固執してしまうのか。
*なぜ、一番細く『なければ』ならないのか。
*Mサイズでもいいのに、XSでなければいけないのは、なぜ。
過食というと、過食嘔吐がやはりお医者様の中でも研究対象というか、なかなか理解されないのが、非嘔吐過食症だと思うのですが・・・なぜ、自分のからだが嬉しくないのに詰め込んで、翌朝まで苦しくて、もうそれで仕事に向かうとか地獄なのに、その地獄を与えているのが、自分の手だということ。手で口に食べ物運んでるんだから、自分がしてる。もう裏にあるのは、絶対に傷ついた心なんですよね・・・傷ついた心が、自分を醜くさせていく、この更なる地獄への沼。周りはみんな幸せそうなのに。みんな幸せそうなのに、という感覚もおかしいけれど、この間まで自分の周りにいた世界が、ひとりずつ、ひとりずつ違う世界、それも器用に将来に向かっていく、その姿。その波に自分だけは乗れない。だって、乗る方法を知らないから。知らないんです、何にも。
それでも、そうやって、川が流れていて、不思議と前に時間が進んでいるから、いつか闘いにも終わりがきて、まあいっか、この体型でも、これぐらいの生活でも、そういう折り合いを見つけていく作業なのかもしれないな、と。体型は目を逸らして見出してる『ま、いいか。』本来の妥協点は、心の中の『ま、いいか』
私は私以外には結局なれないから、何も達成なんてできないけれど、それでも生きていく。ただ、命がある間生きていく。ってことなんだろうなと思います。
もういつからでしょうね、初詣では、必ず、自分で努力できることはなんでもするから、健康をください。
そう祈っていたなあ。自分のからだをコントロールしているのは自分のはず、でも精神が様々な不調を来すからややこしいですね。
お墓の近くに桜が咲いていて、撮りました。
お墓にはあったかいものを届けました。
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