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あのときから10年経って、今思うこと

2021年3月から下書きにずっとあってちょこちょこ書き加え続けた文章を、やっと完成させたので投稿します。福島県を訪れた時の出来事です。

東日本大震災が起きて

10年前の2011年3月。東日本大震災が発生した。

当時わたしは大学生で、そのとき付き合っていた彼氏の家にいた。あと少しでバイトが始まる時間で、そろそろ出かけないとなと思っているときに地震が起きた。テレビをつけて、被害の様子を見て怖くなって、そのままバイトに出かけた。バイト先に向かう地下鉄の中で余震が起きて、地下鉄は緊急停止をした。バイト先に着いたら岩手出身の男の先輩が実家に電話をしていたけど、なかなか繋がらないようでバイト中何度も休憩室に行っては電話をかけていた。わたしはいつものようにバイトをして、退勤後に仲良しの女の先輩とカフェでお茶をした。アイスティーを飲みながら地震の被害状況をネットニュースで見て「大変だね」なんて話をした。

これがわたしの2011年3月11日の記憶。
その数日後、福島県の原子力発電所で事故が起きた。

大学一年生のとき、福島のある村でジュニアキャンプのボランティアをしたことがあった。
スタッフで一緒だった東北の大学生とはじめは険悪な感じだったけど最終日にはびっくりするくらい仲良くなって、キャンプで同じ班だった子供が別れるときに泣きながらまた会いたいと言ってくれて、キャンプ後の飲み会で地域の大人がこのイベントをとても大事に思っている話を聞いて感動した。

人と関わることの楽しさを初めてちゃんと感じることができた体験だった。全部が今の自分に大きく影響を与えている。帰り際に村の人からビニール袋いっぱいに桃をもらって、北海道に帰るフェリーの中でみんなで丸かじりしたことも忘れられない。わたしにとって福島は大事な思い出の場所だった。

地震や事故が起きた後、日本中はいわゆる自粛ムードというものに染まっていった。テレビや新聞では毎日被災地の様子が伝えられた。SNSは「がんばれ」「心は一つ」「絆」なんていうポジティブメッセージで溢れかえった。デートをしようとしたら彼氏から「こんなときに遊んでいる気分にならない」と言われた。

わたしはどうしてもその波に乗れなかった。確かに大変なことはわかる。でも、北海道にいるわたしや周りのみんなは普通に生活ができていたから違和感がどうしても拭えなかった。いろんなことにギャップを感じてしまい、わたしは周囲の空気に馴染めなかったし、SNSを見るのも嫌になった。

もちろん、地震や事故はすごくショックだった。ニュースを見ていろんな人たちの顔や景色が浮かんだ。ジュニアキャンプ で出会ったみんなのことがとても心配になった。けれど、北海道にいるわたしには何もできないと思った。
大学の知り合いが次々に被災地支援の活動をし始めた。彼氏も学生団体で被災地支援のイベントを企画しだした。それにモヤモヤした。どこか綺麗事をしているように見えてしまっていた。そう感じてしまう自分が冷たい人間のように感じてさらに嫌になった。でも、感じていたギャップが埋まらないから、わたしの気持ちは整理されなかった。

直接被災地に行って活動をすることも考えたけれど、行く勇気がわかなかった。被災地の様子を見て受け止められるのかわからなかった。
「まだ今は行く時じゃない」なんてそんなことを考えながら、ずるずると月日が流れていった。

福島に行くと決めた

2021年3月。
福島で働いていた自分の恩人とも言える先輩が他県に転勤するという話を耳にした。ずっと自分と近しい教育の仕事をしているのは知っていて、今年こそ会いに行こうと思っていた矢先のニュースだった。
いてもたってもいられなくなって、数年間会っていなかったにもかかわらず、「福島まで会いに行ってもいいですか」と連絡をした。そしたらすぐに返信が届き、とんとん拍子で連絡をした1週間後には福島県に行くことが決まった。

2009年以来、12年ぶりの福島だ。震災が起きてから初めての福島だ。

その人が働いていたのは「ふたば未来学園」という震災後に建てられた学校だ。その学校にはNPOが運営に携わっていて、生徒たちとNPOの職員・ボランティア大学生が関わり合うことのできる「みらいラボ」というサードプレイスや、高校生が運営するカフェが校内にあるというちょっと珍しい学校だった。

先輩からは「伝承館に寄ってからみらいラボにおいで」というアドバイスをもらったので、わたしはその通りの旅程を組んだ。

福島での出会い

当日は、仙台から福島へと向かった。浪江からひたすらに国道6号線を通り、双葉郡を車で走った。道路には線量計があって、その地点の放射線量を伝えていた。双葉は未だ帰宅困難区域で、スクリーニング場が各所にあった。震災当時から手がつけられていないんだろうという家屋やショッピングセンターもあった。そこにはまだ、わたしの思い描く「被災地」の風景があった。
震災が起きてからの10年間、そのままそこに存在し続けているのだということがひしひしと伝わってきた。

1時間ほど車を走らせると伝承館に到着した。伝承館はぴかぴかの建物で、震災前から震災直後、そして現在の復興に向けての出来事がとてもわかりやすく綺麗にまとまっていた。奥の方に行くと、被災した方のインタビュー映像がプロジェクションマッピングで流れていた。
だけど、本音を言えば温度感を感じることはあまりできなかった。むしろ建物の外のどこまでも広がるような風景を眺めている方が、いろいろなことを感じさせられた。

そうこうしているうちに校内のカフェが閉まる時間が近づいていたので急いで車を運転し、ようやく広野町のふたば未来学園に到着した。
先輩と数年ぶりの再会を果たしたのも束の間、退職直前の先輩はとても忙しく、少し話をして校舎を案内してもらったあとに別件の用事があると言っていなくなってしまった。

しかたがないのでみらいラボの中をぶらぶらとしていたところ、ある高校生の男の子が「こんにちは」と挨拶をしてくれた。何しているのかを尋ねたら「探求です」「地域の人たちが集まる居場所を作りたいと思っているんです」「でも、ぼっちなんです」と教えてくれた。

声をかけてもらえて嬉しくなったから、ついわたしも勢いで話した。自分も地域で居場所作りをしたいずっと思ってきたこと、だけどまだ仲間はいないこと、今日は北海道からみらいラボを見たくて来たことを伝えた。彼は「まじっすか、似てますね!」と喜んでくれて、出会ってたった10分たらずで盛り上がり、仲良くなった。

地域の人に色々とヒアリングしたはいいが、この先どう進めていけばいいのかわからず行き詰まっていると彼は言うので、たまたまみらいラボにいた、普段はコミュニティ作りの活動をしているAさんをその場に呼んだ。Aさんは快く混ざってくれた。そして、「同じ関心を持っている人が3人集まったら、それはもう仲間だよ」という言葉をさらりと言ってくれた。かっこよくて頼もしかった。

そこからは3人で一緒に話をした。広野には集まれる場所がイオンしかないという話とか、コミュニティスペースがあったとしてもコミュニケーションってとりづらいですよねっていう話とか。いろんな話をするうちに、気づけば震災についての話題になっていた。違和感なく、とても自然に話が移っていったので正直戸惑ってしまったけれど、彼らの話をじっくりと聞くと納得することばかりだった。

「震災を伝承するとかってよく言うけれど、伝承館があればいいわけじゃなくて。結局はコミュニケーションがないと伝承はされないと思うんですよね。そういうのもあって、人が集まる場所を作りたいんです」と男の子が言うと、Aさんは頷きながら「福島は被災地の中でも原発の事故のせいでコミュニケーションが分断がされてしまった特殊な町だ」と教えてくれた。だからそれを埋めたいと思っている、と最後に付け加えて。初めてわたしは、福島の中にいる人たちの言葉を聞いた。

また、みらいラボには、福島県外からきているスタッフもいた。東京からやってきたというスタッフの女の子は、「自分は被災していない。だからこそできることを考えたいんです。この立場だからやれることがあると思うから」とまっすぐ話してくれて、震災後10周年のイベントにも「当事者じゃないけれど」と、積極的に関わったことを教えてくれた。

震災との向き合い方

福島を訪れて初めて、ここで暮らす人たちにとって震災という出来事や景色はもはや日常であって、その中で何ができるのか、何がしたいのかをみんな考えているということに気づいた。

一方で自分は、10年間もずっと福島や被災地、震災に対して距離をとって生きていた。自分は被災していないから何もできない。被災地の人の気持ちはわからない。わかろうとすることもおこがましい。そんなふうに理由を並べて。福島に行くと決めた後も、被災地になった福島を見たらどう感じるのかなとか、現状を受け入れられるのかなとか、覚悟して行かなきゃだめだよなとか、いろんなことをぐるぐると考え込んでしまっていた。

だけど、それってすごく勝手な考え方で。そんな考え方が線を引いてしまうことになるんじゃないかって、わたしもある意味で分断している側の人間になってしまっていたんじゃないかって、そう思った。

福島の中で日常を生きている人がいる。そういうのを見ずに、知らずに、被災地だから大変だ、かわいそう、胸が苦しくなる、つらい、なんてそんな薄っぺらい尺度や感情で思考を止めてしまうのは、なんか、絶対違う。そんな人間になることはすごく嫌だ。

わたしもちゃんと、ただそこに”ある”ものとして見つめたい。別にわからなくったっていい。共感しあえなくたっていい。だけど、わからないことに素直に向き合って、震災に対して「こんなふうに思っている」という人たちの気持ちをちゃんと真正面から受け止めて、一緒に考えてみたいと今回の福島での出会いを通して思ったんだ。

そういう形で、わたしは10年ごしに東日本大震災という出来事にちゃんと向き合えたように思う。今回の旅の感想をひっくるめていうとすれば、来てみないとわからないことだらけだけど、来てみてわかることもちゃんとある。だからこの目で見て、心で感じることを、これからも大事にしたい。

今回、福島と出会い直しができたから、また近い未来に必ず訪れようと思う。

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