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僕にもあなたにも、明日があるとは限らない。

明けましておめでとうございます。2020年もよろしくお願いいたします。

本日2020年1月3日、36歳を迎えました。

いきなり私ごとで甚だ恐縮ではございますが、本日36回目の誕生日を迎えました。3回めの年男ですね。
人生90年時代とも100年時代とも言われる現代においては少し早いかもしれませんが、どこかの統計で死亡者数全体の約20%が69歳以下というのを見たときから、人生70年と捉えたときにちょうど半分にあたる36歳の誕生日には何か記しておこうと以前から決めていたので、何かのきっかけで私のnoteに辿りついてくださった方々に、少しでも何か得られるもの・感じていただけるものを残せすことができればと、このnoteを書いています。

19年前の夏、兄は22歳でこの世を去った。

身近な方を亡くした経験のある方は少なくないかもしれませんが、現在の私を形作るもっとも大きな体験のひとつに、たったひとりの兄の死があります。新年早々に人の死について書くのは不謹慎という見方もあるかもしれませんが、いつかは吐露しておきたかった想いを私の誕生日を節目として書かせていただきます。

2001年8月某日。当時、私は所属する吹奏楽部での最後のコンクールと、文化祭で後夜祭に演奏するバンドの練習に掛ける高校3年生で、兄は22歳。慢性骨髄性白血病を克服するため、兄が自分で決断した骨髄移植を伴う数ヶ月間の入院生活の末、他界しました。
入院期間があったので、突発的な事故や急性疾患による死とは違い、徐々に容態が悪くなり色々な治療法や投薬の選択肢が奪われてく様子を目の当たりにしながら、前向きな捉え方をすれば「心の準備」をする時間は、私や家族にもある程度ありました。
それでもやはりそのショックは大きく、亡くなる前日の予備校に向かう道中に母親から『塾が終わったら今日は泊まるつもりで病院に来てもらったほうがいいかもしれない』という連絡を受けてから、その翌日未明に兄の体から呼吸器が抜かれ、病院から用意された車で兄の遺体と共に帰宅して通夜や葬儀など一連の儀式を済ませ、夏休みが明けて2学期の学校に通い始めてから数日間は、今でも記憶がぼんやりとしています。それくらい、兄の死は私にとって強烈な出来事でした。

『生きる』とは『死に向かう行為』である。

この経験以降、私には一つの葛藤が呪いのように付き纏います。


『なぜ自分は生き残ったのか』



そもそも自分自身が17歳という多感な時期だったことや、大学受験を控えてちょうど自身の進路についても考えるタイミングだったこともあるかとは思いますが、「真面目で堅実な兄」と「テキトーでいい加減な弟」の典型的な二人兄弟のうち、入院前に大学の必要単位を取得し、内定企業(結局、就業することはなかったが)も決めていた兄の命を奪い、高校こそ公立の進学校に進んだもののろくに勉強をせずブルーハーツに心酔していたような自身が遺された運命の意味を考えずにはいられない日々が始まります。些細な兄弟ゲンカで投げつけた「死ね!」という特に意味を持たないはずの衝動的な言葉を悔い続けているのもこの時からです。そしてそれは正直、今でもこれからも続いていくように思います。

しかしながらただひとつ、唯一全人類共通の真理にもたどり着きます。

人間、誰しもいつか死ぬ。
それは30年後、50年後かもしれない。
明日かもしれない。


と。考えても仕方がない。生きること自体が死に向かう行為なのであれば、いつ終わりが来るかもわからない有限の資源=時間をいかに使うかを考える方がよい、と。
そしてそれは私に限った話ではなく、ここまでnoteを読み進めてくださった皆さまやご家族・ご友人にも避けては通れない真理だと思います。

限りある人生をどう生きるか。

いつ終わるかもしれない自分の人生の中で、明日会えなくなるかもしれない隣人とどう向き合うか(こう書くとすごく絶望的かもしれないですが、いつか本当にそうなってからでは取り返せないのです)。
これに関しては、私が一方的に尊敬している、すがけんさんことMoonshot代表・菅原健一さん@xxkenai)が昨年末に公開されたnoteが長年のモヤモヤをうまく言語化してくださっているので、御力をお借りしたいと思います。

「価値とはなにか」これを説明できますか? 
《中略》
僕が定義したのは「価値は相手の変化量」ということです。そして「価格は価値に準ずるもの」です。
つまり価値とは相手、消費者が決めるものですし、その消費者がそれを買うことで得られる変化量が大きければ価格は上がるのです。

ここで、すがけんさんは

「価値」=「相手の変化量」

として定義されています。文脈上、収入や価格の基準としての価値という意味合いで働き方についてを中心に書かれているかと思いますが、「働き方」を「生き方」に置き換えても同じことが言えるかと思います。(というか、仕事上の生き方のみにフォーカスしている人が市場価値の高い仕事が出来ているともあまり思えません)

「誰と繋がり」「相手がどんな変化をしたのか」=「生きた価値」

そんな風に置き換えれば、兄の「死」も、友人や家族、私に大きな価値をもたらすひとつの「生き方」だったとも言えます。

これまで運良く生き延びてきた私とのかかわりの中で私の周囲に起きる変化が起きたとすれば、それは私の生きる価値になります。そのためには
 ・より多くの人と繋がること
 ・少しでも多くの前向きな変化を提供すること
 ・その方々とのつながりや変化に感謝を伝えること
に更にフォーカスして、この有限の人生を生き切っていこうと思うわけです。

そして、出来ることならこれを読んでくださった方には、少なくとも今あるご自身と友人やご家族との間にある関係を、時間を、言葉を、本当に大事にしてもらいたい。極論、明日に自分やその人が亡くなっても後悔しないように。

おわりに

概ね自分語りに近い誕生日エントリーに、限りある時間を割いてここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。

正直、ここまで至極当たり前なことしか書いていないので、何かの役に立つのかはわかりません。
それでも、この「当たり前」に少し自身の経験や思いを乗せることで、それがたったひとりでも、誰かの何かの気づきや少しの心の震えになることもあるのでは?と思ったことが、このnoteを公開するきっかけです。
そしてどこかにそんな誰かがいてくれたのであれば、少しでも繋がりたいとも思いました。

よろしければ、Twitterでもコミュニケーション取らせていただけたら嬉しいです。



それでは、皆さまにとって2020年が出会いと喜び、感謝に溢れた一年になりますよう。

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