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番外編:コペルニクス級のインパクト

思想の歴史には、それ以前とそれ以後で考え方が変わるようなインパクトが何度かありました。早速、3つ並べてみましょう。

コペルニクス
地球(人間の住む世界)は宇宙の中心ではなく、大きな宇宙系のほんの一小部分にすぎない
ダーウィン
人類は動物界から進化したもの
フロイト
自我(意識)は思考の主人ではなくて無意識的に起こっていることの表れ

 哲学者紹介でニーチェを取り上げました。年齢順でいえばダーウィン、ニーチェ、フロイトとなりますが、同じ時代を生きた人たちです。ニーチェはダーウィンの著作を読んでいましたし、フロイトは、ニーチェが同じようなテーマに言及していることを知っていて、(自分の研究に先入観を与えないように)意図的に直接は読まないようにしていました。
 ダーウィンもフロイトも哲学者ではありません。しかし、思想に与えたインパクトは甚大で、以降の思想、学問は、これらのインパクトを前提にしないと時代錯誤になるほどのものです。

ダーウィン

 ダーウィンは、いかにもイギリス人らしいものの見方をする人です。イギリスといえば経験論として紹介してきましたね。とにかく、観察することから始めるということです。そしてもう一つが今でいう経済学の発想です。
 ダーウィンが『種の起源』を出し、何度も改定版を出していくという経緯は省略しますが、第六版まで「進化」という言葉を使わなかった(というより進化という言葉は、ダーウィンの論争相手が使っていた)ということは、覚えておきましょう。
 なぜなら、ダーウィンが注目するのは結果として生存することだからです。そのプロセスとして進化や退化があることもしっかり観察していました。また、経済における需要と供給のような働きが、生存に影響することも見ていました。だから、実は、進化論とダーウィニズムは別物なんですね。このことは、ネオ・ダーウィニズムでより鮮明になります。
 さて、インパクトとしては、ようするに動物と人間の区別(断裂)は、人間が勝手にそう思っていただけというものですね。アリストテレスだって、人間と動物の違いはそもそも前提で、どういう違いがあるのかを説明していただけです。そういう素朴な前提が崩れたということです。ポイントは、断裂が崩れるということはつながるということです。つまり、動物と人間との関係は連続体なんですね。

フロイト

 フロイトの学説は現代ではほとんど反証されていますが、心理学の祖として有名ですね。フロイトは、自分の進路(専攻)を決める時に、ダーウィンを参考にしています。ダーウィンの本も熟読していました。フロイトにとってダーウィニズムは、わざわざ著作の中で引用する必要のないぐらい当たり前のものだったわけです。
 そして人間と動物との断裂を取っ払うのと同じやり方で、理性的なものと非理性的なものの断裂を取っ払いました。意識と無意識の連続性を、私たちは知識として知っているわけですが、当時の哲学にとっては甚大なインパクトです。
 デカルトでもカントでも「理性的に判断できるなら(=狂人でないならば)」というのを当然の前提にしていましたが、私たちが頭で言語化する意識(あるいは自我)というのは、氷山の一角で、その下に言語化されていない=非合理、非理性的な無意識があり、むしろ無意識の方が意思決定を行っている(主導権がある)ということをフロイトはいうわけです。そして、フロイトの学説が間違っていようが、この部分は事実なわけです。
 これまで紹介してきた哲学者たちの著作の現代的意義が低かったのは、フロイト以前だからというのが大きな理由です。理性と狂気、合理性と感情といったものを分けていたのは、人間の勝手な思い込みだったんですね。だから、プラトンまでさかのぼって、ほとんどの哲学は、真面目に読んだらバカらしいとまでいえてしまうわけです。

第四の境界

 さて、これまでの哲学者が素朴に人間とは別物と考えていたものが、もう一つあります。あー、神様は別にしましょう、面倒ですから。それはなんでしょう? 
 機械です。
 そして、ここにきてデカルトが光ります。デカルトは、人間とは別のものとして動物と機械(どっちも理性がない)を挙げ、動物は機械だと言い切りました。それは乱暴だろうと思いますが……先の2つのインパクトを踏まえるとどうなりますか。人間と動物は連続している。デカルトいわく動物と機械が同じなら、人間と機械は連続している、ということになります。これは、古い意味での人間機械論ではないです。意識/無意識(つまり心)を持ったものとしての人間と機械の連続性なんです。

ここでネタ本を紹介しましょう。

原著は1993年ともう30年ほど前の本ですが、人間は機械(古くは道具)とともに進化してきたし、今後はよりそれが進んでいくだろう、というのはAIや機械学習が現実のものになった現在でこそ読むに値する名著だと思います。

さいごに

 この記事は今後の哲学者紹介のために絶対必要なものでした。
 一方で、哲学に限らず私たちの普段のメッセージやその応答において、いまだに「人間」を特別視していることって、意外とあると思います。理性と感情を分けて考えるのは哲学者であって、普通の生活では分けてはいない、という側面もたしかにあります。しかし、何か理念だったり信念だったりを持ったり伝えたりするとき、哲学の悪影響が言葉に入り込んでいることも、あるだろうということです。
 ダーウィンやフロイトからもう何年もたっているのに、私たちは古い分割を前提にしています。古い知識は不要と言いたいわけではありません。その知識がどういう意味で古いのかを、ある程度は知っていることが大切だ、というのが、この本を取り上げながら感じたことです。


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