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番外編:イタリアン・セオリー(アガンベンとネグリの間)

イタリアン・セオリーとは

 まずは文字通り、イタリアの諸理論のことです。もちろん哲学に限定されないんですが、私の記事では哲学にフォーカスすることになります。その哲学界隈(特に英語圏)で、いわゆるフランス現代思想ですね――「フレンチ・セオリー」に代わって「イタリアン・セオリー」が台頭してきた……といった使われ方をされてきた言葉です。文脈的にポスト構造主義「以後」の思想潮流という意味合いを持っているということをおさえておきましょう。
 じゃあ、人の名前としては誰なんだということですが、アガンベン、ネグリ、エスポジトなどです。そのうち、エスポジトを中心に紹介する――つまり、アガンベンとネグリの間として紹介するつもりです。ただ、一番先輩なのはネグリで、エスポジトは一番若手ですね。そして、みんな存命です。一人ひとりの紹介記事を書くことができない……歴史のなかで位置づけることができないのは、それが主な理由です。

マイナーな理由

 ぶっちゃけ、イタリアン・セオリーってマイナーだと思います。理由は様々ですが、推測を交えて少しだけ整理しておきましょう。

歴史的理由

 まず、伝統的にイタリアの哲学(および人間科学の諸理論)はマイナーでした。そもそも、イタリアという統一国家は19世紀後半まで無かったというのも大きく影響しています。マキャベリ、ジョルダーノ・ブルーノ、そして過去記事でも紹介したヴィーコは、イタリアン・セオリーの偉大な先輩たちですが、彼らがそのような「(統一)国家」という観点から距離をとって=マイナーなところから考えたからこそ、ドイツやフランスの諸理論を吸収しつつも、当時の射程をはるかに超えて、現代的意義を残すような思考を生んだのだということも、後知恵ですが一定の事実として言えます。

日本のアカデミックな状況による理由

 もぅしかすると日本に限らないのかもしれませんが……いずれにせよ、ここは(ある程度の確度を持った)私の推測になります。ようするに、いわゆるイタリアン・セオリーを研究してもアカデミックな成果と見なされない(見なされにくい)という状況があると思われます。まぁ、それでもですよ、翻訳本にアクセスできる環境としてはかなり恵まれています。
 ただし、ドイツやフランスの哲学書と違って、翻訳者や研究者は、きわめて限られます。これは、知っている人ならイメージできますよね。ネグリを日本語で読めるのは、ほとんど杉村さんのおかげでしょ。アガンベンでも、おおよそ三人(上村さん、高桑さん、岡田さん)ですし、エスポジトにいたっては、岡田さんのみです。これらのことは、この記事の前提条件となるものなので、もう少し言及させてください

岡田温司さんについて

 これまで、哲学者紹介の記事では、極力、日本の研究者/翻訳者については触れてきませんでした。逆に言えば、記事にする際には偏らないように複数の訳や解説本を参照するようにしてきました。ところが、イタリアン・セオリーについては、それはほとんど不可能です。一応、訳書に『イタリアン・セオリーの現在』(2019)がありますが、今回敢えて参照しないことを選択しました。
 さて、さすがに岡田さんの詳細な人物紹介はしませんが、現状エスポジトの唯一訳者であり、アガンベンの翻訳も多い方です。そして、その水準ですが、私が言うのもなんなんですが、高いです。もちろん、お一人の力ではないでしょうが、もともとの美術(アート全般)の膨大な素養に加えて哲学だけでなく神学の知識の為せるわざでしょう。残念ながら面識はありません、が……実は間接的にはあって、本にサインをもらっています(デヘヘ)。
 とはいえ、特定の研究者/翻訳者に偏っていること、これは、この記事の前提であり、補完することを諦めています。Wikipediaにしても、エスポジトはページがありませんしね。つまり、岡田さんの解釈というものがあるとして、それに私(や別の人)の解釈を(場合によっては批判として)加えることは「内容については」していないということです。そのことで可読性を優先し、(素人には不可視の)偏りについては補完することを諦めたということです。
 こういう訳で、この記事の中心的な参考文献は『イタリアン・セオリー』中公叢書、2014年です。

イタリア哲学の特徴

哲学の王道からの逸脱

 国に関する事情を背景に、イタリアの哲学は現代に限らず、王道――デカルト〜カント/ヘーゲルから逸れたものでした。そして、ヴィーコでも顕著ですが、いわゆる芸術や神話なども、「歴史」の一部として哲学と別物としてでなく扱う傾向があります。
 そしてもう一つの伝統して、哲学と「政治」が一体のものとして考えられてきたところに特徴があります。それがフーコー(フランスの哲学)との違いとしても表れるのですが、例えば「生政治」という言葉の前から、生きることと政治的なものとの関係に対して非常に感度が高かったということです。結果として、「生政治」という言葉の後において、(他の国の哲学よりも)その問題を的確に捉えた思考を展開することができたといえます。

アガンベンと生政治

 (文献に頼りつつも)ざっくりいうとアガンベンとしては生政治は死政治に転倒するのが必然、となります。つまり(フーコーの『社会は防衛しなければならない』での問題意識からほぼ直接的に)生に対する権力の過剰な行使と、それには積極的なかたちで対抗することができないという黙示録アポカリプス(激励と警告)が、だいたいアガンベンのどの本でも結論になります。
 話の本筋からは外れますが、上記はいちおう「生政治」に限ったことです。アガンベンがフーコーのその後の関心についても引き継いでいることは(フーコーの)「読書ノート」の記事で適宜触れました。ただ、自己への配慮というテーマについてのアガンベンの結論が積極的なものかどうか……黙示録的なものから福音グッドニュース的なものにかわっただけでテイストは同じと、私は思います。

ネグリと生政治

 フーコー、そしてアガンベンが生政治を悲劇的なものとして捉えるのと対照的に、ネグリは「マルチチュード」がその新たな主体性を構築する場こそ、生政治(という舞台)だと捉えます。マルチチュードとは何かはここではおいておきます(調べていただければ分かるでしょうから)。ポイントは、ざっくりいって、新自由主義的な状況を好機として、なおかつ、その政治的(あるいは統治的)側面である生政治を、むしろ新しい主体性の場と考えているということです。そういう意味でユートピア的と言えるでしょう。
 その内容はともかく、アガンベン(そしてこの後紹介するエスポジト)と比べて、古臭さを感じるのは、先輩として(=時代的に)しょうがないです。私たちにとって、新自由主義って過去のものになりつつありますからね。
 ただし、これも生政治の側面からの特徴づけであることには、注意してください。ネグリは、その後も政治――近代民主主義に対して積極的なオルタナティヴを示しています。その際、マルチチュードは、キータームであり続けていますが、意味合いは変遷しています。

二人のオススメの一冊

 ここで、一冊ずつ私のオススメを書いておきましょう。私のオススメなので、必ずしも生政治との関係ではなく、「今から読むなら」の視点から選んでいます。話が前後しますがご了承ください。

ネグリ:『さらば、“近代民主主義”』

 ネグリって書いてきましたけど、彼はマイケル・ハートとの共著が多いです。その中でも、この本はネグリのみの著。もちろん、それが選定の理由ではないです。この本は、ネグリがいろんな人から批判にさらされて、それにきちんと答えようとしたもので、結果としてネグリの考えやキーワードが整理されているものとなっています。あと、そんなに分厚くない。

アガンベン:『思考の潜性力』

 逆に、アガンベンについては、おそろしく分厚い本を推しておきましょうか。分厚いといっても、中身は論文と講演集です。一つひとつは短いってことですね。……と、もっともらしく書いていますがこの選定は半分冗談です。読んでいて面白いとか、ためになった、と思う人はたぶんほとんどいない、そんな本です。ただ、アガンベンを薦めるときに、私なら(本人によって放棄された)「ホモ・サケル」シリーズは選定から外します。確かに、それらは濃淡はあれ、世界的に流行りました(『例外状態』とか『アウシュヴィッツの残りもの』とかです)。しかし、どれかに手を出したら、シリーズ(計9冊)と付き合うことになります。だったら、論文集の方がいいよね……こんな感じの理由です。
 ただし、いきなり買わないでください(高いし)。もし、文学を経由していいなら『バートルビー』を薦めます。これは親切な本で、メルヴィルの「バートルビー」も付いています。

アガンベンとネグリの間

 (本の紹介の手前の)話の流れでエスポジトを位置づけるなら、アガンベンの黙示録とネグリのユートピアにも偏らない道を探った、と言えます。

ロベルト・エスポジトについて

 もともとはマキャベリやヴィーコの研究から出発した政治哲学者。文章は良い意味で事実確認的コンスタティヴな学術論文的なもので、問題にしていることやその分析、結論などが分かりやすい。かといって、哲学的な水準が(アガンベンなどと比較して)低いということはなく、むしろ問題にしていることや分析的概念の共通点は非常に多い。また、イタリアン・セオリーの特徴も良い意味で引き継いでおり、(しばしば狭くなる伝統的哲学と違って)思考の射程の広さ、(他の国の諸学の)吸収力の大きさは傑出しており、思考のスタイルは(体系的に完結させるタイプではなく)外部に開かれたものである。
 主要な著作は『コムニタス:共同体の起源と運命』『イムニタス:生の保護と否定』『ビオス:生政治と哲学』の三連画。および、それらと並行する論文集である『政治のターム』(翻訳『近代政治の脱構築:共同体・免疫・生政治』)。そしてこれの最終章「非人称の哲学に向けて」と直接関係する『三人称の哲学:生の政治と非人称の思想』。翻訳として入手できるのは『近代政治の脱構築』と『三人称の哲学』のみ。
 私は、ネグリの本もアガンベンの本も複数冊読んでいますが、上述の(岡田さんの)エスポジト評価に同意するところです(もちろん、エスポジトの二冊も持っていて何度も読んでいますよ)。すると、端的に次の疑問がわきます。なんで極端にネグリやアガンベンより訳書が少ないのか≒マイナーオブマイナーなのか。これは結局は、経済的事情でしょう。ネグリやアガンベンは世界的に、いってみれば「流行り」ました。本を出せば売れます。一方でエスポジトは相対的に流行らなかった。
 また話の本筋から外れますが、おかしなもので、エスポジトの本は定価2000円程度。アガンベンの本は例えば6000円。この「コスト」差で、「パフォーマンス」は同等か、もしくは勝っている(と少なくとも私は思う)のに、売られ続けているのはコスパの悪い方。……もちろん、私がバカでアガンベンを生産的に読めていない可能性はおおいにあります。でも、それを別にしても、こう……市場の歪みを感じるところです。

エスポジトを読む三つの鍵

 ここは引用します。

1.生政治の思考をさらに深化させ徹底させた点
2.免疫イムニタスという概念を導入した点
3.近代の政治哲学が暗黙の前提としてきたような諸概念――主権、法、国家、自由、所有、民主主義、人格など――を、根本から徹底的に問い直そうとする点

48頁

 現代的意義という観点からはもちろん「3」がもっとも重要ですが、これはそれぞれアプローチは違えど、ネグリもアガンベンも行ったことです。そういう意味で、まさにイタリアン・セオリーの現代的意義そのものといえるでしょう。

人格ペルソナという装置

 「3」について、エスポジトの場合、『三人称の哲学』で主に取り上げられます。例えば、上に挙がっているもので言えば、「人格」――みんな大好き「ペルソナ」です――という装置……人間の分割と選別、包摂と排除のための装置の分析と、それゆえナチズムとリベラリズムは(ペルソナという)同じものを共有している。言い換えると自由主義の人権思想とナチズムの連続性についてなどは、今読んでも意義がある……という言い方では表現が控え目過ぎます。つまり、現代はよりその問題に接近している、現在進行系……もっと正確に言うと、私たち自身も参加/参画している、ある種の虐殺器官が問題になっているのです。
 そして、内容の説明まではしませんが、「三人称/非人称」これがオルタナティヴとして示されるわけですね。生(と政治)における、人称と非人称、主体化と脱主体化という二重の運動を背景として、正義あるいは倫理に関する事柄は非人称的なものに結びついているというものです。
 これは、シモーヌ・ヴェイユ(トロツキーと同時代人で一時彼をかくまったりしていた)の影響が色濃くでている部分でもあります。影響と言いましたが、エスポジトはこのフランスの女性思想家への準拠を公言していて、ブランショやドゥルーズとのつながりの起点と位置づけています。
 一方で、明らかにヴェイユに準拠しているのにアガンベンは彼女の名前を出しません。でも、『バートルビー』における「脱創造」はヴェイユの脱創造(ヴェイユの邦訳では「遡創造」)だし、それが「非の潜性力」が体現されたものとなってくると、エスポジトと同じことを(邪推すれば、小難しく)言っていると考えて、ほぼ問題ないと思います。

さいごに

 イタリアン・セオリーについて、哲学に絞った紹介でしたが、有用性は伝わったかと思います。記事中で言及できなかったこととして、エスポジトがフーコーの限界をどう考えていたかということに触れて、締めたいと思います。
 エスポジトによれば、フーコーは、生と政治とを異なる項としてまず別々に前提しておいて、その後でそれらを外在的に結びつけている。それが、二者択一を招く原因です。そうでなくって、生そのものが成り立ちからすでにして政治を内包している……こういう視点で考えてみよう、というものです。
 私は、現代の(とりあえず日本の)政治に関する言説に、ものすごく古臭さを感じます。いったいいつまで政治の歴史(過去の政治的実践の歴史)の勉強をして、その古い言葉で政治を語らないといけないのでしょうか。政治というのは直近の生活と近い将来を掛け金にしたものです。政治について議論するときこそ、現在にこだわるべきです。それなのに、ルソーがどうとか……ありえないでしょ。
 政治については、一つの例です。哲学的思考というものが、遠回りなようで、(ちょっとオーバーに表現しますが)圧倒的に近道であるということを、イタリアン・セオリーは示しています。
 ただし、例によってエスポジトの本の入手性は悪いです。古本屋などでエスポジトの本を手頃な値段で見かけたら、騙されたと思って確保することをおすすめします。あとは、図書館頼りになるでしょうか。
 ……まてよ、「入手性が悪い」というくだりに既視感があり……いや、ないですね。気のせいでした。

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