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番外編:イタリアのポストモダンにおける「共同体」についての3つのテクスト

 文字数が多いながらも言葉足らずのタイトルになりました。その説明もしますが、3つのテクストとは――ジャン=リュック・ナンシー「無為の共同体」(1983年)をキッカケにして数カ月後に書かれたモーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』、そしてアガンベンの「到来する共同体」(1990年)です。

記事の位置づけ

「哲学者の紹介」における「番外編」

 これらのテクストは、イタリアン・セオリーの前史にあたる「イタリアのポストモダン」の終わりの時期に書かれたものです。あえて原則から外れて書かれた発行年は、そういうきわめて狭い一時期であることを示しています。
 人物としては、ナンシーとブランショが新顔ですが、彼らをつなげているのはジョルジュ・バタイユです。彼らはそれぞれ単独で紹介することはしないつもりですし、この記事でもあくまで特定のテクストを焦点にしてのみ取り上げたいと思います。バタイユもブランショもナンシーもフランス人で、アガンベンのみがイタリア人ですが、このことは、「イタリアのポストモダン」の一つの特徴を示しています。つまり、思想史の一場面として、番外編で取り上げているということです。
 著作についての現代的評価を一括して述べることは、番外編だから許されるでしょう。単純に、どの本もわざわざ買って読むようなものではない……つまり現代的意義は無いです。

「予備考察」におけるテーマとして

 先日「自分」についての(有料)記事を書きましたが、次に予告していたテーマは「共同体」です。もっともさっき書いたように、これらのテクストはあまり役に立ちません。悪い見本としてか、ギリギリ出発点として意味を持たせることができる、そういったものです。
 したがって、テクストの著者、および重要な関係者を紹介しつつ、共同体についての基礎的な情報を片付けておこう……このような主旨の記事になります。

テクストの背景事情

 取り上げる3つのテクストが狭い一時期のものであることは書きました。したがって、「時代」と書きうる世界的な背景ではなく、3つのテクストにとっての事情を整理します。ただ、主に哲学に関係する事情になります。詳しく知りたい方にはロベルト・テッロージ『イタリアン・セオリーの現在』平凡社をおすすめします。「現在」といっても2015年に書かれた本ですが、イタリアの(右翼・左翼含めた)政治的運動についてや、思想の動向――その一部であるサイバーパンクやポストヒューマンについて。さらにそれらと関係する芸術や大学事情について詳しく知ることができます。あとは……ごく最近、イタリアで「極右」といえるような政権が発足した、そのことの背景もこの本を読めばよく分かります。著者のセンスも素晴らしく、哲学におもねることなく、ダメなところはダメと妥当な根拠とともに言いきっているのも気持ちのいい本です。

イタリアのポストモダン

 少し極端な単純化をするとアメリカのポストモダンはデリダの脱構築でした。デリダが強くフッサールにこだわっていたことは別の記事で紹介しましたが、流行っていた当時はそれはあまり知られていませんでした。むしろ当時のアメリカで現象学といえばメルロ=ポンティの研究のことでした。……ポンティについても紹介することは無いでしょうね。『知覚の現象学』など分厚いだけの本です。
 イタリアの状況はまったく違っていて、フランス(思想)の影響は大きいものの、文化としてはイタリアはドイツの思想とつねに強く結びついていました。したがって、現象学といえば断然フッサールでした。ただし、だからこそイタリアで現象学がポストモダンの直接的な契機にはなりません。ポストモダン(とそうでないもの)の基準になったのは、ニーチェとハイデガーおよび彼らに由来する解釈学(ハイデガーの弟子としてのガダマーを思い出してください)です。そこに(この記事では取り上げませんが)ヴィトゲンシュタインの受容が付け加わります。

政治/非政治的背景

 まず、大きな出来事としてフランスの五月危機(Mai 68)があります。そしてイタリアではオペライズモという労働者の運動と理論化がありました。この言葉は私たちにとってあまり馴染みがないものだと思いますが、現代に続くAutonomismオートノミズム(自律主義・自治主義)の最初に位置づけられるものです。
 これが、私たちが思い浮かべる労働者の運動と違うところはいわゆる「権利要求」ではないことです。そういうことから始まりながら極端には「労働の拒否」まで至るような理論になっていくんですが、それは、常に生産的でなくてはならない有産市民ブルジョワジー的――ぶっちゃけ、現代の勤勉な労働者のことです――ような共同体の在り方を乗り越えようとしたものでした。
 一方で経済的背景は、いわゆる自由主義経済が隆盛でした。もちろん新自由主義にもつながっていく流れですが、それへの「抵抗」――これが共通の背景になります。そういう意味では、極左でありながら新自由主義に希望を見出すネグリとは対照的ではありますが、それは今回取り上げている一時期の少し未来の話です。

バタイユ

 背景として一人の人物を取り上げるのはどうなんだとはなりますが――バタイユはフランスの、哲学者といえるんでしょうか……少なくとも(ヤバい)作家ではあります。『眼球譚』を公共の場で読んでいる人がいたら、その人はヤバいと判断していいです(私のことですが、気づいてすぐ本を閉じました)。
 バタイユは多くの思想家に影響を与えます。彼の(時代的に資料が不完全だったにも関わらず)独特な、しかし現代的水準に直結するニーチェ解釈は、その影響力の源の一つでした。バタイユが、同時代人ハイデガーのニーチェ解釈は間違っていると明言したということは、その水準の高さとセンスの良さを感じさせるエピソードです。

ナンシー「無為の共同体」

 日本語訳で一冊の本になっている『無為の共同体』は、多くの註釈と4つの小論文が加わったものです。「哲学を問い直す分有の思考」という副題が付いています。分有という日本語は通常キリスト教的な文脈で使われるものですがナンシーは少なくとも意識的には宗教から遠い人ですから、とりあえず「共有されるもの(コモン)」程度の意味で考えていいと思います。……というより、この「コモン」という一点でしかコミュニティ(共同体)に関わらない本だったりします。
 ナンシーは、マルクス主義と関係のない共産主義の理論として「無為の共同体」を書くのですが、それはバタイユの共産主義に関する分析を含んだ『至高性』という(他のテクストと比べて)あまり知られていなかった、テクストから多くのヒントを得ます。
 さて、キーワードである「無為」、フランス語ではdésœuvréeで、意味は「アクティビティを行使しない」です。ただ、このキーワードはバタイユが由来ではないんです。バタイユも学んだコジェーヴがある書評で使った言葉で、それをブランショが受動的な作家像を表すのに用いることで、実質的に「行動せず、活動的ではない」って意味を持たせたんですね。普通に辞書を引くと「アイドル」(英語でもidol)って出るので戸惑うことになります。
 これらを分かった上で(あるいは知らなくても同じことですが)、この本を読んでもびっくりするぐらい「共同体」については何も分かりません。そのことについて、テッロージに言わせると――ポストモダンの語り口だから複雑になっていることと、ポストモダンがご法度と考えた「統一、全体、アイデンティティ、個人主義、人間主義」という観念なしで組み立てることにこだわりすぎているから、とのことです。ここでの個人主義は人格主義と同じ程度の意味と考えていいでしょう。
 日本語版での註釈や関連論文を踏まえて好意的にコメントするなら――(まさに反人格主義ですが)個人の凡庸化、つまり単に存在するというだけの一人の人を出発点に考えられていることが新鮮に感じられるかもしれない、といったところでしょうか。そういう「存在」はもちろんハイデガーの現存在が下敷きです。
 ちなみに、このテクストを書いた当時のナンシーはデリダの弟子ですぐれたラカンの入門書の著者程度の認知度でした。ところが、ブランショがこの若い哲学者に寄せた好意的な批評を出版することで、ナンシーは一気に名声を得ることになります。

ブランショ『明かしえぬ共同体』

 ブランショはかなり右翼的な文筆活動をしていた過去を持ち(なかば隠しながら)バタイユやレヴィナスと親しんだ人です。ジャーナリストであり、作家であり、哲学者といったところでしょう。
 『明かしえぬ共同体』は、最初から本として出版されたものです。日本語では(ちくま学芸)文庫で読めるので最もアクセスしやすいです。内容についてここでは詳しく述べませんが……手段的性格を一切持たない共同体の「このもの性」といった言葉などにはレヴィナスとの近さがよく感じられます。そういった文脈で述べられる共同体の明かしえない秘密として、共同体の持っている「非」政治的な性格が取り上げられます。
 ブランショは、あくまでバタイユへの友情から「無為の共同体」の中で言及されたバタイユに関する部分をフォローしたのですが、それが結果としてナンシーの名声につながったということのようです。

アガンベン「到来する共同体」

 最初は論文で発表され、加筆されて本として出版されたもの。題名からしてアガンベンの黙示録的特徴が出てしまっていますね。とはいえ、明らかに「無為の共同体」と『明かしえぬ共同体』を意識して書かれたものです。
 注目すべきは、アガンベンのホモ・サケルシリーズの開始前ということです。一方にはイタリアン・セオリーにつながるプロパー(所有)からコモン(共有)へというようなアイデアが見られます。これについて実際、ホモ・サケルシリーズの一冊である『いと高き貧しさ』であらためて共同体の問題が取り上げられます。
 他方に、誰でもない(多数の)声を担う、多様な状況の雲霞うんかとしての共同体というのは、ネグリのマルチチュードとの近さとともに(ネグリがハートと共に〈帝国〉を超える革命論として『コモンウェルス』を書くように)コモンの次元の強調があります。こちらは、アガンベン本人ではなく、イタリアでは「五つ星運動」、北欧では「海賊党」といった直接民主主義への志向につながっていくものです。
 ただ「到来する共同体」においても共同体について、なにか論証があったり、明確な立場が表明されることはありません。あくまでポストモダンの言説に(悪い意味で)とどまっているわけです。とりあえず、「共にいる」ことを喜び合う――全くマルクス主義とは関係のない共産主義――共同体の理念が書いてある感じです。
 本としては、文庫ではないものの小著なので、気軽に手に取ることはできるものです。

いくつかの整理

イタリアン・セオリーの入り口

 例えばエスポジトなどは、非政治的なものからスタートさせて共同体を語ります。「免疫」というアイデアからの共同体批判は現代的な意義を失っていません。アガンベンを含め、共同体についての(フランスでの)現実とポストモダン的な言説が――あるいは、その終わりが、イタリアン・セオリーの入口になったと言えます。

現代への影響

 現代は、いわば革命の不可能性が前提になった時代といえるかもしれません。例に挙げた「海賊党」も、その解説本が日本で出たりもしましたが、まぁ、存在感はないです。ネグリがいくら近代民主主義を批判したところで――あるいはもっと直接的に「オルタナティヴは可能だ」と言われたところで、それが不可能であることが強調されるだけのようです。
 しかし、現代の身近なもので関連事項はあるんですよ。Wikipediaは寄付によって運営されていますが、あれはある種のオートノミズムですし、それよりも重要なのはCC(クリエイティブ・コモンズ)です。それについて詳しくは、もちろんウィキペディアを参照していただくのが一番です。ただ、CCって何か……クリエイターの方は、名前は知ってはいるでしょうが、あれはようするに著作権(コピーライト)に対するオルタナティヴです。そして、名前の通り、世界にコモンを増やしていく(著作権の方は所有権でコモンを排除する)運動なんですね。思想的背景は興味深いものです。ざっとだけ言及すると、アガンベンがよく引用するギー(・ドゥボール)と「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」たちの運動があり、更に遡ればルフェーブルに至るものです。
 ただ……どうでしょうか。これは私の感想ですが、現代のクリエイターはCCよりもNFTに興味があるようです。それらは全く相容れないものだろうと、私は思っています。

共同体としての国家

 このテーマはあえて後回しにしたのですが、なぜ「共同体」であって「国家」でないのか。簡単には、取り上げた3つのテクストの経緯から明らかなように、国家へのオルタナティヴがそもそもの前提だからです。
 しかし、それはあの時代のものであって、私が共同体を考えるときに、現に存在して機能もしており、未来がないというより、明らかに未来がある(将来的においても現実的な)国家を考えに入れないというのはありえません。幸い、私は政治的に中立ですから、機能的に国家について言及することができるでしょう。
 ここで一つ片付けておきたいものがあります。国家ってなぜステイトと言われるか、知っていますか? ステイトというのはステータス(状態)のことですが、これだけでは何も説明できていません。この言葉の初出は(イタリア人である)マキャベリですが、本来「ステイト」だけで意味をなす言葉ではありませんでした。それは、レス・プブリカ(公共のもの)の条件や構成の状態ステイトを指す表現です。このことの略語としてステイトという言葉が使われ、今も使われているということです。

 さて、これで沢山のカタカナが片付きました。まとめとしては――3つの有名な「共同体」についてのテクストはどれも論拠として使えない。哲学的なアイデアを道具的に使うことはできてもそれが即ち答えという循環構造にはしない(それはポストモダンの言説である)。(記事の中で扱いませんでしたが)グローバリゼーションという概念自体がもう過去のもの……こんなところです。最後のは重要で、いくら私がキュニコス派にインスパイアされていようが、コスモポリタンみたいな大風呂敷で共同体を語るのは不誠実ということです。

追記

このような記事を書き終わったあと、サーフィンをしていて下の記事を発見。

 いくつかの記事で取り上げた時事ネタから、ポジションとしてのキュニコス主義(フーコー由来)など、私にとっては欠伸の出る記事でした(続きは楽しみです!)が、まさかバタイユでこの記事と被るとはね。
 まず、同じ時代を生きているんだから同じようなもの(木澤佐登志さんとの場合はほとんど完全な一致)に興味を惹かれるというのは珍しいことではありません。しかし、発見できたことは意味があります。少なくともこれで私はバタイユを読む必要はなくなりました。バタイユやら澁澤やらの文章を読むのは不得手なんでね。
 それはさておき、フーコーの講義集成……再版すべきでしょー。出版社の役割だと思いますよ、ちくまさん。あんな本、図書館で借りたってどうしようもないんだから。まぁ、私の読書ノートを画面で眺めたってどうしようもないってところは同じですけどね。
 あ、木澤佐登志さんが著者の一人である本って、note連載読書会「闇の自己啓発会」からのものなんですね。すごいですねー……何がすごいかはちょっと今思い浮かびませんけど。

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