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ポストモダンの逆襲(リチャード・ローティ補遺):『連帯と自由の哲学』

ローティの「哲学でない」部分について、ポストモダンという言葉について、およびローティの現代的意義と、私なりの整理をします。その際には、若干の哲学的側面に触れることはご了承ください。

フライング記事です

 えー、ローティ本人の紹介の前に補遺を出すことになりました。今、哲学者紹介の記事のために、フーコーやローティ辺りの著作を読んでいるのですが、過去を含め、私の読書量という点では圧倒的にフーコーの文献の方が多いです。ところが、改めて整理していると、私のnoto記事の文章、あるいは評価の表現(○○の哲学のこの部分は無駄、とかです)が、かなりローティに影響されていることが分かりました。この点、無自覚でした。
 私のことはさておき、ローティは哲学と政治(民主主義)を明確に分けます。分けるといっても、テキストの中では互いに混じり合うのですが、とりあえず、「哲学者紹介」では当然ながら哲学(批判)の方に焦点をあてた整理になります。ところが、ローティの現代的意義については哲学批判よりもむしろ、政治的側面の方が重要です。したがって記事を分けることにしました。ついでに、関連事項や言葉も(簡単にですが)こちらで解説します。

ポストモダンについて

リオタールが流行語にした

 リオタールのちょっと前に、建築用語としてポストモダン建築という使われ方をしてました。リオタールは、哲学分野におけるキーワードにした人ってことですね。
 「ポスト構造主義」という言葉が分類としては意味をなしていないということは別の記事でも触れました。単に、構造主義の後、と言っているだけで、構造主義の批判という点で線引きができなくはないのですが、現代から見ると構造主義とポスト構造主義ってそんなに違いません。むしろ同時代に併存した思想と捉える方が無難です。
 それに対して、ポストモダンは違います。その前に、モダン。戸建てのチラシなどで「モダンな」と形容されることがありますね。モノトーンだったりガラス面が多かったり、合理的(曲面が少ない)デザインだったりするわけですが、総じて「今風の」というニュアンスで使われますね。しかし、言葉としては明確に違います。モダンというのは近代のことで、産業革命以後とか、啓蒙主義辺りが、モダンの中心と思ってください。そして、ポストモダンは、いわゆる近代思想の悪い部分を乗り越えていることを前提にした思想、ぐらいに思っておいて問題ないと思います。さらにざっくりいうと、デカルトを筆頭にカントやヘーゲルの神様(とか絶対者)に関するくだらない説明に関わらない思想ってことです。
 ただ、乗り越え方として、構造主義のアプローチと、本質主義批判(ポスト構造主義)のアプローチが併存しました。だから、ポストモダンということでは、これらは両方含まれます。
 肝心のリオタールは、マルクス主義の立場からモダンを切るので、若干、構造主義より手前にいたのですが、その後、どちらかというと(デリダなどの)ポスト構造主義にかぶれます。そしてあまりの成果のなさにガックリして希望を失うのですが、それを(後で説明する)「コスモポリタニズムがあるじゃない」と励ましたのが、ローティだったりします。

ローティの政治的スタンス:ポストモダン・ブルジョワ・リベラル

私などが、詳しく説明できるはずもありません。ポイントと、言葉の説明をしたいと思います。一言でいうなら、リベラル左翼(ローティの自認)です。

2つのリベラル

 ローティが自身をリベラルというとき、アメリカ建国直後の、自主・自立のリベラリズム(自由主義)のことです。基本的には19世紀初頭のイギリスのリベラリズム(=権威主義への反対)と同じ部分も多くて、ほぼ「個人主義」と重なります。ただし、アメリカはイギリスのような伝統的貴族などいなくて、(先住民族を抹殺したので)もともとフラットな文化であった点が違います。だから、権威への反対というより、階級のない、カーストのないアメリカを目指すというものです。その具体的な一例としては、社会的に弱い立場の人の救済に重点がおかれるなどがあります。したがって、ローティの自認は、アメリカの伝統的左翼となります。
 ポイントは、大陸(ヨーロッパ)の当時のリベラルとは、ラディカル(根本的・急進的)なものでした。ラフな整理になりますが、ようは「本来の人間性」に即した……であったり、「真の平等」を実現するために……といった感じです。これって、本質とか本性というものが先にあって(それを「発見」するというプロセスを経て)、それを目指したり、あるいはそれを邪魔しているものを攻撃するというものです。ローティは「事実の政治」と言っています。
 大陸のリベラルのダメなところはなにか分かりますか? そんなに難しくありません。答えは抽象的なことです。だって、人間の本性とか、ないでしょ。つまり、目的にしているものが抽象的。それだけだったらいいのですが、必然的に手段が抽象的になります。例えば、イデオロギー批判とか差異の政治とかですね。イデオロギーなんて、ないです。いや、あるのかもしれませんが、あまりに抽象的です。それゆえ、事実の政治は、目の前にある、しばしば物理的な社会課題(教育制度が整ってないとか、貧困とか)に無頓着になります。
 ローティのリベラルは、「希望の政治」です。本質とか本性はどうでもよくて、生活上の苦しさを減らし、よりよい社会にしていくこと(改良主義)を目指します。

コミュニティ:我々・仲間・市民

 ローティがよりよい社会といったとき、そのメンバーはだれでしょう。端的には市民(citizen)です。つまり、我々のコミュニティの構成員、のことです。ただし、近代(モダン)以前の閉じたコミュニティではありませんよ。開かれたコミュニティで、また、メンバーになりたいと思う人には「寛容」です。「多様性の拡張」という言葉も使っています。この点、ローティは(正義論で有名な)ロールズの直系の政治思想家だと言えます……というか本人が言ってます。
 (私のように慣れない人には)ちょっと込み入った話になりますが……大事なことなので。多文化主義ってちょっと流行りましたよね。あれは、ポスト構造主義の人文学バージョンです。(文化が)違っていることを良しとして、逆に同じ文化を強制することへの抵抗なんですけど、しばしばマイノリティの権利主張の形をとりました。当時でもポリティカル・コレクトネスという言葉が使われていたんですが、最近はポリコレと略されて、再び脚光を浴びています。このような多文化主義と、ローティの多様性とは、全く意味が違う、あるいは状況次第で対立するものなんですよ。ロールズ=ローティのそれは、多元主義と表現されます。
 とはいえ、ローティは、多文化主義の諸理論や成果には一定の評価をしています。(今でいうLGBTQへの認知度向上や取り組みによって)「アメリカはより文明化された」と言っています。ここのニュアンス……どうでしょう、お分かりいただけるでしょうか。一つは、モダンが啓蒙だったように、良い意味でよりモダンになったというニュアンスではあるんですが、文明化という日本語によって単純なことが見えなくなっているんです。日本語で見ると、文化と文明ってかなり重なって見えますが、英語では別物です。文明化とはcivilizationです。見てわかるように、市民になる/させる、ことです。ようするに、マイノリティを市民として包摂できた、ってのがストレートなニュアンスなんです。文明と市民という言葉のつながりは、覚えておきましょう。
 他方で、厳しい評価もしています。多文化主義(あるいは「差異の政治」)によって、みんなの生活は楽になりましたか? むしろ逆に、経済的な不平等が拡大したり、結果として生活不安が高まった時期と重なっていませんか、ということです。つまり、抽象的な問題は前に進んだかもしれないけど、社会的弱者の経済的救済をしているわけではないから、貧困とかは拡大してるよねってことです。これはねぇ……ぶっちゃけローティが正しいと思いますよ。多文化主義について最近の言葉(LGBTQ)を当てはめたので、ローティの立場にも最近の言葉を当てはめるとSDGsがそれでしょうね。実際に官民協働で貧困をなくそうねってのがそれですから。
 そういえば、ブルジョワという言葉の説明がまだでしたね。これは、マルクス主義が糾弾する、そういう階級のことではなくて、単純に、市民である、市民によるってことです。

2つの普遍性(グローバリゼーションに抗する国家)

 ユニバーサルという言葉もカタカナとして身近になってきましたね。USJもそうですが、ユニバーサルデザイン(誰にとっても使いやすいデザイン)とかです。universalとは、uni- 一つの、世界(場)であること書いてあります。ユニフォームとかユニセックスのユニと同じ言葉です。一つの世界ですから、国境を超えるイメージなので、まさに「フラット化する世界」という角度ではグローバリゼーションと相性のいい言葉でもあります。ここが一つ、大事なポイントですが、そういう意味での普遍性を、ポスト構造主義やお家元であるフランスの左翼運動は、応援し、力を貸しました。その一つの特徴が「非愛国的」であることですが、これは別に自分の国が嫌いということではなく、国という区切りよりも、ユニバーサルであることを好んだということです。その結果、どうなりましたか? さっきの話よりももっと酷く、経済的格差は広がり、世界が貧困化しましたね。
 デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』では、地理学/地政学の観点から、グローバリゼーションとは、富裕層が国家に巻き上げられ(再分配の資源になっ)た資産を取り返すムーブメントであると分析されます。結果論だから、こういう評価の仕方はズルいのですが、しかし事実として大陸のラディカル左翼は、それに手を貸しましたし、よくよく考えれば、彼ら(の思想)にとって生活に困窮する個々人は考慮されてませんでした。行動する/しない、が問題ではありません。行動することで、貧困が解決しているかどうかが問題なのです。
 ローティがすごいのは、このような結果論ではなくて、現在進行形のなかで「ラディカルであることは、現実の問題を先送りにするための策略だ」と見破ったことです。この記事では、政治的側面を強調していますが、連動していた哲学的側面にも、ガッツリ言及して、デリダやフーコーやラカンのせいだと言っています。なぜ、ローティが当時、そのような正解を導けたのかは、プラグマティズムという哲学からの視点によるのですが、その点は、ローティの本記事を待ってください。
 そして、ローティの言うユニバーサルとは、どこでもだれでもではなくて、我々のメンバーならだれでもという意味です。このことの条件もふまえて話を進めましょう。

アイデンティティとコスモポリタン

 ローティにとって、我々とは市民のことだと書きました。ローティにとって、その集団の効果的な単位は、端的に「国家」です。新自由主義やグローバリゼーション(さらにポスト構造主義)が無視しようとした国家は、依然として協働の利益の分配主体であり、その恩恵に浴するのは、社会的弱者だと、ロールズとともにローティは考えます。
 この点は、きれいに対称的で分かりやすいですね。フラットな社会は金持ちのコスモポリタン。国家による再分配は、弱者の救済。ちょっと話題のベーシックインカム(universal Basic income)だって、分配するのは、国でしょ。国連とかがしてくれるわけではないですし、そういうふうに考えるのは現実的ではないです。
 さて、そのようなローティにとって国へのアイデンティティ(national identity)を持つことは、議会制民主主義の常識です。なぜなら、人は、自分がアイデンティファイ(自分のものと思う)しないものを、より良くしていこうとは思わないし、責任感とかも持たないから、と言います。ようするに、道徳的責任を感じるためにはそれにアイデンティファイ(自己同一化/アイデンティティの共有)することが必要条件だ、ということです。
 現代において、高水準の福祉国家を運営している北欧諸国については、別の記事で取り上げました。それらの国の国民(市民)は、喜んで高い税金を払うわけですが、それは、その税金が自分(たち)を助けてくれるものだと信じることができるからです。結果として、信じたことは実現し、他国との比較で、高い幸福度を叩き出しています。
 ローティにとって、地に足のついた左翼主義的なコスモポリタンの目下の課題は、我々の国家をどうすべきかであり、その後に、その幸福、あるいは安心がユニバーサルに広がっていけばいいな、というものです。
 ちなみに、名前を出した都合、触れざるをえないのですがハーヴェイは『コスモポリタニズム』という、うんざりするような大著で、彼なりの整理をしています。明確な結論はないと思いますが、少なくとも(おそらくローティも含まれるであろう)「コミュニタリアニズムは、地理学理論を欠いたままでは無意味だ」とはコメントしていて、一部、アナーキズムを評価しているんですが……ローティならそれはアナクロニズム(時代錯誤)だと言うでしょうし、私もそう思います。地理学理論のくだりは、その通りですけどね。

現代の私たちの哲学の偏りについて

あくまで、上記の政治的側面から気付かされることを整理しましょう。
というのは、こういう政治的な事柄は、私の関心の外なので……。

現代思想は大陸左翼

 一般に現代思想といわれているものは、構造主義+ポスト構造主義です。あれだけ構造主義の批判をしたポスト構造主義がでまとめられる理由は、本記事で扱うとして、ようするに、ラディカル左翼だということです。つまり、現代思想にかぶれるとは、左翼にかぶれることです。哲学好きの人は、どの程度このことに自覚的でしょうね。でも、その目で見れば、日本でも、哲学って左翼系のメディアがホームでしょ。そういうことです。

国家主義は右翼だけじゃない

 国家を大事にすること=右翼というのは、誤解というより、根本的な思い違いです。ローティのように、左翼の国家主義があり得るし、国家主義のコスモポリタニズムもあり得るのです。それは理論的にあり得るということではないですよ、現実に、社会課題(という言い方もすでに抽象化されつつある言葉になってきました)――現実的な問題を改良的に解決していっているのは、リベラル左翼です。さぁ、まとめとして、タイトルを回収しましょう。

ローティは、逆シャアのアムロ・レイ

 アムロが、かつて反地球連邦組織に参加していたのに、独立部隊とはいえ、なぜ連邦の大尉をしているか知っていますか。私は知りません(そういうことに詳しくないのです)、だれか教えてください! ……さて、ローティは、あくまで体制側で、シャアのように理想主義ではありません。そして(以下うろ覚えですが)、「インテリが勝手に絶望して」世界を潰そうとする。「自分はそこまで絶望していない」から、改良主義で現実的な努力をする。シャアは、「だったら(そんな理想的な議会制民主主義が成立する条件である)愚民どもに叡智を授けてみろ」と言ってくるのですが、アムロはとにかく目の前の「石ころ」を押し返す必要があります。
 これは、ローティが倫理的アイデンティティ(個人的自律や卓越の追求)が道徳的アイデンティティ(政治的責任と連帯の意識)を押し潰すと表現したもの――現代思想のインテリの抽象的理念が、現実の政治を押し潰そうとする――それを押し返すことです。ローティはそれに成功したと思いますが、その後の(光を見たのに)変わらないか、あるいは悪化した世界を見ることなく、逝きました。
 そして、いまだにラディカル左翼は健在……マフティーなら、そういうと思います。

 最後になりましたが、おすすめは『連帯と自由の哲学』という日本語訳オリジナルの論集です。当然、紹介前の哲学の話題も多いのですが「哲学に対する民主主義の優位」などが(分厚い本ではなくて)手軽に読めるのはいいですね。

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