見出し画像

ハングリーであれ。愚か者であれ。

 今回は、ジョブズのスタンフォード大学の卒業式でのスピーチ(2005年)を題材にしたエッセイです。

はじめに

 このスピーチ、あるいは「Stay Hungry. Stay Foolish.」という言葉は、それなりにビジネスに寄って話題にできるテーマです。実際、ジョブズは人生の大部分を占める「仕事(work)」との向き合い方を語っています。しかし、それは、3つの話(three stories)の中の2つ目です。3つの話の1つ目は、いわば、運命や未来を信じることについて。3つ目は、死を話題にしつつ、自分の直感に従って生きる勇気について、です。そして、これらの話は別々の物語ストーリーとして語られています。
 そういうわけで、ビジネスの記事としては扱えず、かといって3つ目の話が哲学的かというと残念ながらそうでもなく、雑記として取り上げることにしたいと思います。まずは、中身の手前で情報整理をしておきましょう。

日経新聞訳は頼りない(たぶん)

 何度も言っていることですが、私は英語が不得手です。だから、日本語訳で読むわけですが、おそらく多くの方が検索して、開く(目にする)であろう日経新聞の翻訳は、ちょっと変だろうと……不得手故に確信を持てないのですが、思います。例えば、さっき書いた「仕事は人生の大部分を占める」というのを「仕事は人生の一大事です。」と訳している(句点、つまり文を区切っている)のですが……どうなんでしょう。
 もう一つだけ例を挙げておきましょう。

Having lived through it, I can now say this to you with a bit more certainty than when death was a useful but purely intellectual concept:

日経では、「このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。」と、これまた句点で区切っています。
 私なら、I can……以降を「死について、使いやすくはあるものの純粋に知的な概念として考えていたときよりも若干の確実性をもって次のように(私=ジョブズはあなたがたに)語ることができます。それはつまり……」といった感じで訳します。:(コロン)は、次の文章へつなぐ記号ですからね。まぁ、コロンはさておき、そもそも文章の意味がだいぶ違うのが分かっていただけると思います。もちろん、私が間違っているのかもしれない――いや、相手は日経なんですから、おそらく私が間違っているのでしょう。これだけ文句を言っていますが(全部訳したり良い訳を見つけるのが面倒なので)、基本的に日経のテクストを参照元にします。ご了承下さい。

「ハングリーであれ。愚か者であれ。」はジョブズの言葉ではない

 これは、スピーチ全文を読んだことがある人なら知っていることです。ジョブズ自身がスピーチの中でスチュワート・ブランドが筆者である『全地球カタログ』最終版の背表紙に書いてあった(筆者の)別れの挨拶と言っていますから。
 文脈としては3つ目の話の流れで言及されつつ、スピーチの締めの言葉になっています。そういう意味では、3つの話をつなげる言葉ではあります。

愚者とは

 スピーチは、ジョブズの自分(の人生)語りです。自分語りの締めが――ハングリーは便宜上置いておくとして――「愚か者であれ」なのですから、ジョブズ=愚者(THE FOOL)なわけです。
 そして、それはよく当てはまっていると思います。これは私の推測ですが、タロットカードのTHE FOOLに自分の生き方を重ねているのでしょう。タロットの愚者は、「あるべき姿に縛られている自分たちに、真の目的を教えてくれる」者であり、正位置なら「自由・冒険心」逆位置なら「衝動的、わがまま」を象徴します。私たちは、ジョブズが「わがまま」だった(それに周囲の人間は困っていた)ことを知っているわけですが、なにより本人も自覚していたのでしょう。スピーチでは、正位置の方のニュアンスが強調されていますが、「自分が本当は何をしたいのか(についての直感に従うべし)」という部分は、まさにTHE FOOLらしいメッセージです。

3つの話について

 内容については、スピーチを読んでいただくのが一番いいです。ここでは私なりのコメントを書くことにします。

カリグラフの知識がMacの美しいフォントに繋がった

 ジョブズが強調するのは、この事例はあくまで後付けだということです。「将来を見据えて、点と点をつなぎあわせることはできない」ので運命とかを信じてやっていくしかないよね、という話。
 んまぁ、これはわりとどうでもいいストーリーですね。自分が「スタンフォード大学の卒業」みたいな人生じゃなかったんだわ、という紹介程度でしょう。

創業したAppleから30歳のとき、追い出された

 この出来事はジョブズにとってもしんどかったようで、しばらく呆然としていたと言っています。もちろんその後バリバリ働く(ピクサーとかのくだりです)のですが、ここで唐突に「最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。」と言われても、少なくとも私はピンときません。
 ジョブズの有名なスピーチの中で最もチープなストーリーであり、メッセージだと思います。「好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください」って、悪名高い「自分探し」程度の意味でしょ。探している間に貧困から抜けだけなくなった人がどれだけいることか……。

「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」

 これに続くのが、もし「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せ……というメッセージです。おそらくスピーチで最もスポットが当たったのはここでしょう。
 このストーリーは、ビジネスマン(あるいは経営者)にとって両義的だったろうと思います。そういう意味では、ある程度は興味深い。
 一方で、創造的クリエイティブな生き方の参照になったでしょう。他方、多くのビジネスマンにとっては(たとえ経営者であっても)「違う」が続くことの方が多いのが普通です。みんながジョブズのようには生きられないよね、という感想を持った……あるいは、もっと現実的に(その時々で)ジョブズ(とその事業)を支えた多くの「違うと思いながら働く人たち」がいて、会社なり組織は成り立っているのだ、という感想もあったかもしれません。このことについて、私の意見は非常に単純で「死」は生き方の見直しの参照軸として不適切だというものです。
 もう一つ別の、これは違う意味で現実的(しかしながら私の個人的)な感想なんですが――そのような、ある種、崇高な人物による事業、もしくは製品プロダクツによって、どれだけ社会が良くなったのか? そんなに良くなってないよね、というものです。Pixarだろうが、Macだろうが、iPhoneだろうが、今、人類が直面しているグローバルな課題の役に立っているでしょうか。私は、ジョブズという偉人が(死ぬという認識から)プライドや不安を捨て去り「本当に大切なこと」に取り組んだ結果がこうであること……このことこそ、重要な遺産だと思います。

裸、そして勇気

 「我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。」「何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。」とジョブズが語るとき、それはキュニコス派のキーワードである、裸や勇気からは極めて遠いのです。もしかしたら、スピーチのクライマックスにおいて、ジョブズはスタンフォードの卒業生にある種のパレーシアについて語ったのかもしれない。ところが、それはクリエイティブという意味で、高付加価値化(その対極といわれながらも実際はほぼイコールである)/過剰生産なのであって、ギーの言う「スペクタクル」の構成物なのです。そのようなプロダクツや関連サービスに対してのパレーシア(率直な語り)としては、まさにその(高)価値が、人生(あるいは人類)にとって二の次で構わないものだと言明することです。
 このことは別にジョブズに限りません。例えば……グッチ・グッチョ(GUCCIの創業者)とその息子たちは立派で先進的な事業家ですが、GUCCIのバッグなど無くても私たちは何も困らないのです。つまり、を語れるのは何らかのかたちでキュニコス派的な在り様からなのであって、世俗化した(死についての)実存主義からではない、と私は思います。

もう一人の愚か者のスピーチ

 ジョブズは(本人の自覚としても)愚か者でした。しかし、私たちはもう一人の愚か者を知っています。代々木アニメーション学院の特別CEO(チーフエンターテイメントおじさん)――彼のスピーチを聞いたことがない人は是非、検索してみてください。
 卒業式に対しての入学式。クリエイターに対してのエンターテイナー。自分の内面に対して他者からの評価。興味深いのは、裸「について語る」ジョブズに対して、その人が(すでに)裸「である」ということ――いろんな意味で対照的でありながらも、スピーチとしては実質的には同じことを言っている、私はそう思います。もちろん、こういう紹介の仕方をしているのですから、同じことを言っているとしても、スピーチとしては江頭の方が上だと思っていますよ。彼もまた哲学からは遠い存在ですが、ある種の美学(行動美など)を感じます。そして、その部分こそがジョブズとの違いです。
 ジョブズに美学がないわけではありません。Appleのプロダクツからは、機能美を捨て去ってまでの造形美を感じます。私が強調したいのは、そのような(ブランド品などにも共通する)ものは、現実の「ハングリー」――貧困を無視しているということです。概念的なハングリーつまり、ハングリー精神というものが、現実の死の経験から得られたのだとしたら……(逆に)それはきわめて凡庸な人生経験ということができるかもしれません。


もしサポート頂けましたら、notoのクリエイターの方に還元します