見出し画像

ガタリ:『カオスモーズ』

 久しぶりの定形(に近い)形の「哲学者の紹介」記事です。年代順は既に不可能になっており、今回はネット上では情報に乏しいであろうガタリを紹介します。ただし、引用という手段を使うことをお許しください。

はじめに

 いきなり定形を崩して恐縮ですが、思い出話を導入にしたいと思います。
 みなさん、坊主バーって知っていますか? 長く東京・中野にあったBARで、現在はバラキ坊主バーと名前を変えて、千葉県市川市にあるそうです。私は、学生時代に先生/師匠に連れて行ってもらったことがあります。……つまり、昔の話で、そこのバーテンダー/オーナー(僧侶)さんとの会話内容はほとんど覚えていません。強烈に印象が残っているのは(この坊主バーは)カオスモーズなんだ、と言っておられた、このことです(法人名? は実際「東京カオスモーズ舎」です)。そのとき『カオスモーズ』は一読はしていたはずでしたが、そのように宣言することで何が目指されているのか、仏教とどのように関係するのか、バーで何を注文すればいいのかなど、プチパニックになりました――最後のものについては、今なら「スコッチのシングルモルト、ストレートでチェイサーと」という答えを知っていますが、当時は若かったのです。

フェリックス・ガタリについて

 ということで、ガタリ、そして遺作である『カオスモーズ』を紹介したいと思います。ただ、デリダとかネグリとかガタリとか似たような名前でややこしいですね。デリダは、脱構築の人ネグリは、マルチチュードの人。ガタリは……これを一言にできない、ということなんです。でも、ドゥルーズに親しんでいる人なら共著者として名前は知っているでしょう。『アンチ・オイディプス』とか『千のプラトー』……他にもありますけど、比較的名の知れた本ではないでしょうか。でも、ガタリ一人の著作も何冊もありますし、翻訳されています。
 引きこもりがちのドゥルーズと違って日本にも来てます。その際の関係者は浅田さんとかですか……よく知りませんけど。その他、イタリアン・セオリーの記事の話とちがって訳者がひどく偏っているということはありません。

時代背景

 背景として、小さい規模としては、いわゆるMai 68――フランスの学生を中心にした一斉蜂起、およびその伏線となるような運動の当事者でした。時代といえるような規模でいえば、ヴェトナム反戦運動や、反グローバリゼーション、それからイタリアのアウトノミア運動、こういった規模の大小はあれ、いわゆる解放・変革運動の時代に生き、それらに積極的に介入していったのがガタリです。

どんな人物・なにをした

 まず、アカデミシャンではありません。上に書いた色んな運動への介入(そしてそのときどきの状況と結びつきつつも独特な概念装置による分析結果としての著作)、という点では社会運動家といえます。その影響力は大きいものでした。ざっくりいって、出した本はよく売れたし、色んな国で行った講演も好評だったようです。一方で、仕事としては、精神分析医(お医者さん)ということになります。ラボルド精神病院が仕事場であり生活の場でした。しかし、実際はこのような書き方ではガタリの紹介になっていません。ちょっと、本人の言葉を借りましょう。

(ラカンとの出会いと友情の文脈で)……こうして私は世界の中の片隅に引っ込んでいるわけにはいかなるなるような多くの機会に恵まれた。さもなければ、私はおそらく神経症か精神病の世界に陥っていたであろう。あるいは、多くの知的な人間が陥ってしまったただの心理学や精神分析の専門家の道に甘んじていたかもしれない。あるいはまた、いわゆる活動家の道を歩んでいたかもしれない。

『三つのエコロジー』平凡社ライブラリー、146頁(訳者あとがき)

だから、ガタリは「精神分析の専門家」でも「活動家」でもない。というのが正しい紹介ということなんです。

分裂スキゾ的であること

 ガタリが専門的な知識を有していると言えるのは、ラカン以降を含む精神分析の分野です。逆に、それ以外は「専門的」の手前であると……言ってしまってとりあえずいいと思います。それ以外ってどういうのかというと、科学哲学、論理学、生物学、サイバネティックス、政治、経済、芸術などです。
 ようするに、バラバラなんですが、これがガタリです。そして、この広く、統一感のない関心は子どもの頃からでした。その頃を振り返って「悪ガキ仲間とのつきあいはまわり(家族)からぶちこわされた」などと言っていますが、これは家族との関係がよくなかったというより、健全な家庭で育ったということだと思います。やがて興味は哲学にも移り、また、社会的・政治的活動にも参加していくのですが、ガタリは、いわゆる作風や関心事や役割を「よく変えたりもした」と言っています

ドゥルーズとの出会い

 先に書いたMai 68の年。アラフォーになって「私は私のあらゆる関心領域をカヴァーする能力をそなえた友人をえて、彼といっしょに本格的なやり直しの仕事を始めることになった」……ということで、それがドゥルーズです。まぁこの、ドゥルーズ=ガタリのカップリングは、アカデミシャンで哲学史家のドゥルーズ(の周りの人)側からみれば、ガタリに会ってからおかしくなった、ともいえたでしょうし、精神分析医のガタリ(の周りの人)側からみれば、ドゥルーズに会ってから訳の分からない言葉を使うようになったともいえたでしょう。いずれにせよそこから、先に挙げた(何が書いてあるかよくわからない)有名な二冊に代表されるアウトプットが世に出ることになります。

ラボルド精神病院での実践

 ただし、ガタリは抽象的だったり独創的な……いずれにせよ書かれた言葉エクリチュールを操るだけの人ではありません。むしろ、彼の独創的な概念装置(横断性、機械、脱領土化などなど)は、例えば、精神病院における(当たり前な)医師−看護人−患者という、制度的な枠組みから離れて、新しい集団的主体を確立していくためのものです。だから、それらの(一見変な)言葉/概念は、ほとんど直接的に実際の人間関係や内在的関係とつながっているということを忘れてはいけません。

精神分析批判とエコロジー運動

 そういうわけですから、(従来の)精神分析というものが体制秩序を変えていくのではなくてむしろ守り、強め、再生産するものだという精神分析に対する厳しい批判がガタリにはあります。一方に精神分析(特にラカン派)の大流行があり、他方に新しい大衆運動(その一つがアウトノミア)の盛り上がりがあった。ガタリは、後者に入れ込むわけですが、そういった運動は時間経過で下火になり、こんどは世界的に新自由主義的グローバリゼーションの時代が幕を開けます。
 ガタリは、グローバリゼーションに対して(当然の帰結としてのネグリとの共通性以外に)、エコロジーの観点で問題にします。しかも、いわゆる環境問題というものが自然環境を中心としたものであることに対して、それじゃダメだということを明確に言ってまして、本としては『三つのエコロジー』が該当します。ようするに、温暖化ガス(といいつつ二酸化炭素特化)がどうとか、そういう狭くてトロくさいことやっていると手遅れになっちゃうよってことなんですが、ガタリのエコロジーについての整理はそのまま、現代的な意義を維持していると思います。現代の西欧の環境活動家たちは、ガタリに目を通しているのでしょうか……。

読むならこれ!『カオスモーズ』

 オススメする本は……『カオスモーズ』です。なんか、新装版が出たみたいで表紙がだいぶん変わったようです。前のも良かったですけどね。そんなことより、薦める理由ですが、遺作=それまでの問題系を含んでいるからです。また単純に時間軸で現代に近いということでもあります。

カオスモーズとは

 問題は、本の題名であり、ガタリの最新の(そして最期の)概念装置であるカオスモーズとは何かですね。……これを説明することを避けて記事を仕上げることは可能ですが、お伝えすべき情報もあるので、向き合うことにします。
 まず、手近なところから。言葉としては、カオス(混沌)とコスモス(秩序)の相互浸透オズモーズを一つの単語にしたものです。これについて、ネット上では必ずしも正確ではない表現や、それ以下のものがあるので少し整理します。まず、「カオス+コスモス+オズモーズ」というもの――そういう並列で単純な足し算の言葉ではないです。繰り返しですが、カオス/コスモスが、互いに他方に浸透していくことやしている状態がカオスモーズです。次に、ウィキペディアのガタリの頁に、カオスモーズはジェイムズ・ジョイスの造語だと書いてありますが、私の間違いでなければ、ジョイスは「カオスモス」という言葉だったはずです。もちろん、私が追えていないだけかもしれない可能性はありますが、もし間違っていなければ、(浸透というニュアンスのない)カオスモスとカオスモーズは違う言葉である――これは単純なことです。
 さて、ここからが大事なところですが、そういうカオスモーズとは何なのかですね。これについて非常に腹立たしいことに、ガタリは『カオスモーズ』という本の中で、ほとんど何の説明もなしに唐突にこの概念を使います。本の後半になってやっと「カオスモーズとは、」という一節を発見できるのですが引用しましょう。

カオスモーズとは、複雑性の異質な諸状態をつき合わせることを通じて実施される、相対的なカオス化です。

第一版、179頁

(゚Д゚)ハァ? と思いましたか。それが普通です。一応、文脈を補います。

カオスモーズは機械的に、ゼロと無限、存在と無、秩序と無秩序のあいだを振動するのではありません。それはもろもろの事物の状態、諸身体、脱領土化のための基体として使用するオートポイエーシスのためのもろもろの焦点上に、芽吹き躍り出るのです。

 これの直後の文章が、さっきの引用ですからね。説明になっていませんもん。おわってます。
 ただ、分かることはあります。例えば、「秩序コスモス無秩序カオスのあいだ」で機械的に振動するものじゃないということです。もっとも、ガタリにおいて、機械的というのは多くの場合、肯定的な形容なので、正直コレわかんねぇな、なんですが、図式的に「カオス+コスモス」じゃない、ぐらいまではクリアとしましょう。
 では、二つ目のセンテンスですが、オートポイエーシスとかの言葉は無視しましょう。ガタリ自身が「ヴァレラが与えた定義から若干ずれた意味で使っています」と書いているので。すごくざっくり言うと、新しく構成される主体の材料がある/それぞれ結びつく場所。そういうのが構成されるなので、「潜勢的な実体」とも書かれるわけですが、ここまではいいとして、最後に「(焦点)上に、芽吹き躍り出る」ものもカオスモーズなんですね。そうですか……。長くなるので記事としてはこれぐらいにしましょう。本では、様々な観点(他者性、メタモデル、多声的など)から多彩に記述されているのでお楽しみください。

現代的評価:★★★★

 前提として、上記のような概念の乱舞や、もしくはソーカル事件などによる外在的な評判は横に置いておきましょう。

私たちの目前にせまっているのは、冷戦の対立構造がぼやけていくにつれ、生産性至上主義の現代社会から生まれ、人類の存亡にかかわるまでになった由々しい脅威が従来よりもくっきりと見えるようになった時代です。地球という惑星を舞台にした私たち人類の生き残りを危うくうする脅威には環境の悪化だけでなく、社会的連帯と心的生活のあり方を支えてきた折り目のほころびも含まれているので、これらを根底から作り直さなければなりません。

37頁

 もちろんこれは過去に書かれているのですから、私たちは「見えるようになった時代」ではなく、「由々しい脅威」の真上にいるわけです。ところが、ガタリの危機感の手前にあるような哲学や思想が大事にされている。そういうのをノーテンキと言うんだと思いますよ。
 ガタリの欠点については、挙げればキリがありません。社会を変えると言ったところで、ようは革命のイメージでそれは時代錯誤だろ、とか、お前の言ってたノマドなんかインボイスで全滅だぜ、とかです。
 しかし、私は次の2つの点で、ガタリは相対的に優れていると思います。1つ目は、引用部で平易に表されている危機について介入するという姿勢です。目の前、あるいは目下のこのような危機から離れたところにある思想(それはそれ、思想は思想)など、それこそペンキを投げつけられればいいんです。
 2つ目は、生産性、効率性、創造性、DX、(自発性という意味での)主体性……こういったものでの解決とは、別の次元で解決が試みられている点です。「解決」には違いないので、さらっと読めば、ガタリも生産性とか創造性を大事と言っていると思うかもしれませんが、基底に(わざわざ説明した)カオスモーズがあることを忘れないでください。ガタリが能動的と書くとき、それは自発的という意味ではありません。
 つまり、まとめとして次のように言えます。ネグリとアガンベンの間――エスポジトの非人称とは違ったアプローチだが、いずれにせよ、現代に生きる私たちが目を向けていないもの=カオスモーズから出発しないと、古臭くて役に立たないだけでなく、むしろ現代の問題を覆い隠すような過去のパラダイムで語ることになる、来ることのない(生きて辿り着けない)未来のパラダイムで語ることになる、と。
 そういう意味で、現実的、現代的なガタリですが、★5でないのは、破壊的というより建設的だからです。

さいごに


 私の汚いメモは無視していただくとして、現勢態−潜勢態/可能態−現実態、このマトリックスを理解するのには、ガタリも本の中で名前を挙げて参照しているピエール・レヴィの整理(本としては『ヴァーチャルとは何か?』昭和堂、2006)が前提知識になります。正直、ここまで踏み込まなくても十分なんですが、ご案内しないのも不親切だなと思うので、書いておきます。出版された直後はちょっと話題になったものですから、これについては、ネットで拾える情報でポイントは補えるかもしれません。とりあえず、私は定価以上の値で本を買わざるを得ないような状況をよく思っていないということはご理解ください。
 他には……あー、導入の坊主バーとの関係ですか。それは私じゃなくて是非、児玉さんに聞いてください。

もしサポート頂けましたら、notoのクリエイターの方に還元します