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先生と呼ばれていた日々のこと

塾講師のアルバイトを辞めた。大学1年の春から丸々4年間続けたバイトだった。辞めたのはこの春卒業して社会人になるためである。本当は3月まで働いても良かったんだけどもういっか〜と思ったので2月末で辞めた。

塾でバイトを始めたのは、単純にめちゃくちゃ時給が良かったからだ。

私は産まれてこのかたずっと田舎に住んでいる。最低賃金は多分まだ800円台。その上往復4時間のパワー通学をしていた私には時間がまるでなかった。そんな中、塾講師という仕事はまさに夜空に燦然と輝く一等星だったのだ。

くそくそ田舎でも塾講師の時給は1,500円。ヤバすぎる。富豪になれる。しかもシフトは基本的に19時半-22時。2時間半労働。

2時間半労働?!?!


チョロ✌️

そう思った私はコネを駆使して昔通っていた塾でのバイトをスタートさせた。



結論から言うとまあまあ大変な4年間だった。当たり前である。労無くして金銭を得ることはできないのだ。アルバイトは私たちに色々なことを教えてくれるね。

ただ、なんていうか、明光義塾とか代ゼミとかそういう所で働く人とはまた違う大変さだったと思う。私が働いていた塾は、塾というよりニアリーイコール学童だったので。

ニアリーイコール学童、うちの塾を表すのにここまで的確な単語はない。


学童ライクな塾で働くとはどういうことか。

「はい授業中にじゃがりこ食べないでね〜」「モンストは休憩中にね〜」「おいインスタライブをするな」「次また床にお茶をぶち撒けたら退塾!」「だからモンストすんなって!」

これを2時間ちょっとで3回繰り返すということ。地獄。2時間半しか働いてないのに体力がみるみる削られる。嘘じゃないです。


もう少し塾っぽい話だと、正負の計算ができない中学3年生が結構いる。bとdの区別が一生つかない子とか。北の反対が南だということを知らない子に遭遇した時は流石に変な声が出た。

こういう子たちの面倒を見るのは非常に難しい。「説明の説明」が必要なのだ。授業をする際、自分がしている説明はこの子達にも伝わる平易な言い方になっているかをかなり慎重に判断しなければいけない。北の反対を知らない生徒に地形図の解説などしてもそれは時間の無駄でしかない。だから地形図の説明をする際に方角の説明もする必要がある。

どれくらいできないのか。何が分からないのか。基本的に生徒が自分の口から説明することはできない。これは当然で、ある程度の偏差値があって初めて「授業で先生が言ってるコレが理解できない」など言語化ができるのだ。それを把握して先回りするのが私の仕事だった。めちゃくちゃ大変だった。数え切れないくらい「時給3,000円にしろ」って思った。

私が働いていたのは小さな個人塾なので、正社員は経営者である塾長ただ1人だった。常にアルバイトも2人くらいで回していたので裁量はかなり大きかった。個別授業も集団授業も任されたし、授業内容もほとんど自分で考えて進めていた。それで正負の計算ができない奴らをなんとか高校に入れなきゃいけないんだから普通に時給は3,000円でしかるべき。




ただ勿論悪いことばかりではなかった。例えばうちの塾は服装が自由なのに加え、髪色すらもなんでもアリだった。そのため私は2年くらい毎月違う髪色で出勤していた。緑色の髪の毛で変な柄シャツを着て授業しても良かったのはかなり楽だったし、楽しかった。

あとあまりにも髪色を変えすぎて生徒たちに「来月の髪色当てゲーム」をされていた。出勤するとみんなで「あーーオレンジかよ!」「俺絶対ピンクだと思ったのに!」などと盛り上がっていてウケた。右半分を赤、左半分を白にしてくださいと言われたこともある。断った。

子供というのは大人をよく見ている。特に女の子はすごい。新しい服やメイクに本当によく気が付く。アイシャドウ変えましたか?と中学3年生の女の子に聞かれた時は度肝を抜かれた。


そういうことと何処まで関連があるかは分からないけど、やっぱり小綺麗や自分の好きな格好をして先生をやることは大切だったと思う。

私はずっと勉強することが好きだった。学んできたことは確実に自分の教養となっていて、それが判断力や決断力に繋がっている感じる。恋愛、お洒落、その他楽しいことや大事なことは義務教育時代の勉強と地続きだと思う。

だから私はなるべく彼らにも学ぶことを愛してほしかった。彼らがいかに勉強を嫌いだと思っていても、私のことが嫌いでないなら話を聞いてくれる。「先生が言うならやろうかな」と思ってくれる。それは大事なことだった。

だからいつもきちんとしていた。好きな服を着て、好きな化粧をして、いつもご機嫌でいた。そうすることで少しでも「大人って楽しそうだな」と思ってほしかった。君たちの目に映る楽しそうな大人の手前に勉強があることに気付いてほしい。ずっとそう思っていた。


思えば4年間ずっと彼らは私を先生と呼んでくれた。私は教員志望でないため、先生と呼ばれるのは恐らく後にも先にもこの4年間だけだ。

私を先生と呼んでくれたのは生徒たちだけではない。

絶望的に勉強ができない生徒がいた。それはもう破茶滅茶にできなかった。馬鹿だった。白目を剥きそうなくらい何も知らなかった。そんな子が中3の9月に「なんとかしてください」と塾に来た。なんともなりません。

なんともなりません。


とはいえ何とかするのが仕事である。

私は力の限りを尽くした。どうにか正負の計算と筆算をできるようにして、歴史の基礎を頭にぶち込んだ。英語は捨てた。生徒とは喧嘩ぎりぎりまで戦って、宿題をやらせ、結果として彼はどうにか県立高校に潜り込むことに成功した。めーーーちゃくちゃホッとした。

そしたら親が来た。

しかも塾長ではなく私に用があるとのこと。何事かと戦々恐々としつつ対応すると、デカい紙袋を渡された。

「先生のお陰でうちの馬鹿息子が高校に受かりました、ありがとうございます」

デカ袋の中はお菓子やハンカチだった。くだんの馬鹿息子は興味なさげにぺこりと頭を下げただけだった。こうしたことが春に何件かあった。


親御さんに「先生」と呼ばれるのはむず痒い。みなさん私を早稲田かどこかの偉い学生さんだと思っている。自分の息子や娘を的確な指導で合格に導いてくれたのだと。

実際は勿論そうではない。「パズドラをするな!」「京都は四国じゃなくて関西でしょうが!」などと大きな声を出していただけである。大学も落ちに落ちてたまたま引っかかったところに通っているに過ぎない。怠惰でお金が欲しいだけの平々凡々な大学生なのに。

でも親御さんが感激した様子で私を呼ぶ「先生」も生徒がいたずらをする直前の「先生」も、どちらも同じくらい私をむず痒く幸せにさせた。

そんな訳で、人生で一度だけの先生としての生活は悪くなかったと思う。


私の先生最後の日。私はいつもの通り授業をしていた。受験を1週間前に控えても尚いろいろ怪しい子達に「詰め込め!!!」と脳筋指導をしながら普通に2時間半過ごしていた。授業が終わりさっさと帰ろうと思っていたら、でっけ〜花束などを貰ってしまった。


にやにやした顔の塾長がアホのようにデカい花束をくれた。その後とっくに卒業したはずの3年前の生徒たちが来てにやにやした顔で寄せ書きをくれた。私はずっとあわあわしていた。

寄せ書きにはたくさん「先生」と書かれていた。彼らにとって私は15歳から18歳までずっとずっと先生なんだなと思った。

たくさんの生徒に囲まれて、先生!と数えきれないほど呼ばれた。まだ世の中を何も知らない中学生から「先生は辞めて何するんですか?」と聞かれた。労働だよ。


立派な志も学歴もなかった。クソガキが!と喉元まで出かかった日もある。塾長にマジで時給3,000円にしてくれやと言った日も。そもそもたかだかアルバイトである。人生において大きな意味もなければ意味を持たす必要すらない。

それでも愛しい日々だった。

「女の子にバレンタインもらった!」と見せびらかして来た男の子のことも、「先生にだけ話したかったの」と秘密を打ち明けてくれた女の子のこともみんな好きだった。

とっておきの解き方を教えてあげる、と言った時のにやりとした顔も、大人になればなるほど自由で楽しいよ、と言った時のきらきらと光った瞳も全部。

私の短い「先生」としての日々は終わった。きっともう二度と来ない。

私は社会人になる。週休2日で社会の歯車としてせこせこ働くのである。狭い部屋に住み、たまに酒を飲み、泣いたり怒ったり笑ったりすると思う。


忘れずにいたい。先生と呼ばれていた短い日々をなるべく覚えていたい。いつかに地元に帰った時に「先生おばさんになったじゃん!」と声を掛けられて笑い飛ばす日を想像して、また生活を続けていこうと思う。

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