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【コンサートミニレポ#1】オペラこそ竜二なのでは―ヘンツェ《午後の曳航》

まがりなりにも音楽を研究する大学院生として、聴きに行ったコンサートについて書き留めておくのは、自分にとっても社会(?)にとっても大事なことだと思っていたのだけれど、踏み出せないでいました。
ちょうど今日(2023年11月25日)、新幹線でまとまった時間があるので、勢いでひとつ書いてみました。新幹線で帰省するのははじめてです。今回は鴎島に寄る用事(デーヴィッド・チュードアのIEIE)があるので新函館北斗が便利なのです。新幹線というものに馴染みの薄い北海道出身の私にとって、何歳になっても特別な乗り物です。いま盛岡を過ぎたところ。吹雪いてきました。
今日は4時起きだったけど、山崎福也獲得のニュースを見てすっかり目が覚めちゃった。


ヘンツェ《午後の曳航》概要

オペラ全2幕(2005年改訂ドイツ語版 日本初演)
日本語字幕付原語(ドイツ語)上演
原作:三島由紀夫
台本:ハンス=ウルリッヒ・トライヒェル
作曲:ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ

会場:日生劇場
11月24日(金) 14:00

キャスト
黒田房子 北原瑠美
登/3号 新堂由暁
塚崎竜二 小森輝彦
1号 加耒 徹
2号 眞弓創一
4号 髙田智士
5号 水島正樹
航海士 河野大樹

ダンサー
池上たっくん
石山一輝
岩下貴史
後藤裕磨
澤村 亮
高間淳平
巽imustat
中内天摩
中島祐太
パトリック・ アキラ
丸山岳人
山本紫遠

指揮:アレホ・ペレス
演出:宮本亞門
舞台美術:クリストフ・ヘッツァー
照明:喜多村 貴
映像:バルテック・マシス
振付:avecoo
演出助手:澤田康子
舞台監督:幸泉浩司
公演監督:大島幾雄
公演監督補:佐々木典子

0.はじめに

 結論から言えば、作品としても、プロダクションとしても、ところどころ面白い点はあるのだが、「傑作」とまで呼べるものには思えなかった。

1.高校生だらけのオペラハウス

 はじめての日生劇場。近年観劇したオペラを思い出してみても、こんにゃく座や《浜辺のアインシュタイン》しか浮かんでこないような私にとっては、ちょっとオペラ的すぎる建物で、しかもフォーマルな男性たちがロビーに並んでかしこまった挨拶をしていたりするものだから、嫌気がさしてくる。オペラの権威性が身に沁みる。
 とはいえ平日とあって、客層はたいへん不思議なものであった。目につくのは制服を着た大量の高校生。男子高生もいるにはいるが、8割くらいが女子高生とみえる。学校の芸術鑑賞授業か何かなのだろう。高校生に《午後の曳航》は刺激が強すぎるのでは……という気もするけれど、毒にも薬にもならないオペラを見せられるよりはましかも。
 平日の昼間なので社会人世代が少なく、高校生以外には高齢者と私のような20代やティーンエイジャーが主。空席も比較的多かった。
 気になったのは、プログラムノートを1000円で販売していたこと。これがオペラのやり方なのかもしれないが、やや不親切な感じがしないでもない。魔笛や椿姫ならべつに1000円でも構わないとは思うが、上演機会のさほど多くないこういう作品の場合プログラムノートの有無は、とりわけオペラ初心者の心象に大きく影響を与えるだろう。せめて高校生にはプログラムノート(かそれに類するもの)が配られていればいいな、と思うのだが。

2.演出についてのいくつか

 演出という点から見れば、目を引くのはダンサーの存在だ。ダンサーを役者の分身として機能させる方法は、宮本亜門演出の面白いポイントといえよう。ただし、そうしてひとりの人格を何人もで演じると舞台上がややカオスになることは避けられず、それが効果的にはたらいている場面もあれば、役者とダンサーが打ち消し合ってよく分からないシーンになっているように感じられる部分もあった。
 さて今回は2005年の改訂ドイツ語版で上演されたのだが、その意図もいまいち理解できない。すぐれた日本語版があるので、それでよかったのではという気がする。が、おそらくはこれをドイツに持っていくのだろう。三島原作のオペラを日本人がやっている、というだけでも喜ばれるだろうし。というのも問題含みではあるのだが。
 途中休憩でのこと。高校生たちが三々五々たむろしていて、オペラの話をしているという嬉しくなる光景が見られた。女子高生たちはベッドシーンがくるくる回っていたのがツボだったようで何よりである。このシーンについては、過激さをコミカルさでオブラートに包んだな、人によっては逃げたなと思われただろうが、まあオペラにとって滑稽さは本質的なので(だいたいあんな変な歌い方をしてコミュニケーションをとるのがまともに見れば滑稽すぎるのだから)私はいい演出だと思った。

3.作品について、オペラについて

 ヘンツェは私の大学院での研究にも関わってきそうなところで、現段階では勉強不足なので下手なことは言えない。ただ、作品として見たときに、竜二に対する登の心理が作り出すこの物語が、このオペラに対して、あるいはこのオペラを作る者に対して、さらにこのオペラを観るものに対して、図らずもブーメランのように問いかけ返してくるものがあるような気がしてならない。
 竜二のマスキュリンな「海の男」像に憧れを抱き、しかしやがて自分の母である房子を選び海を捨てる「不甲斐ない」竜二に失望するという登の心理は、小説の読解としてはしばしば三島の天皇に対する心理と重ねられるものだ。しかし、音楽という文脈で考えてみれば、オペラこそ竜二ではないか。未だに抜群の権威を誇り、作曲家はステータスとしてそれを書き、演奏者はステータスとしてそれを演じ、企業や財団もステータスとしてそれを支援し、観客だってステータスとして張り切って着飾りそれを観に行く。大人たちは高尚な芸術に触れる教育的機会を、といって高校生にそれを見せたがる。
 ブーレーズが「オペラハウスを爆破せよ」と言ったのは、金閣寺に放火するのと、竜二を処刑するのと、同じことだ(そもそもこのブーレーズの発言の対する先はいちばんにヘンツェなわけだ)。20世紀の作曲家たちはまさにそれをしようとしてきたのだ、ある人はオペラの外で、ある人はオペラの中で。いま《午後の曳航》をやるからには、登の心理をオペラの権威に対する批判的視座にまで投射するくらいでなくてはならないように思える。そうでなければ、1990年までずっと(オペラ不人気の時代も含めて)オペラを書きつづけていたヘンツェも、三島の小説をヘンツェがオペラにしたと喜んでいる日本人も、着飾って日生劇場に足を運んだ観客も、《午後の曳航》に高校生たちを連れてきた大人たちも滑稽に見えるだけだ(ああ、オペラは本質的に滑稽であったか!)。今回のプロダクションが、それを乗り越えるだけの強度を持った作品であるかといえばこころもとない。

(文責:西垣龍一)

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