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ぼくらの太陽 ~名取さなの輝きとその反射

私は名取さなを推している。
数年間推していくなかで、彼女に対する想いは移ろいつつも大きくなり、いろんな側面を持つようになった。そんな中の一つが、彼女の輝きについてである。名取さなはその活動の中で、多くのせんせえ(ファン)の人生を照らし、よい方向へ導いていったように思う。
以下は、名取さなのそんな一側面を太陽になぞらえて語る、推しに人生を照らされた一人のオタクの御託です。




1.  お天道様としての推し

「お天道様が見ている」という感覚を持ち続けている人はどれくらいいるだろうか。日本は比較的治安が良いとされているものの、インターネット等により見える世界が広がったためか、こういった感覚は少しずつ失われてきているように感じる。 

自由からの逃走

その一因は、現代の潮流である多様性や個人主義ではないだろうか。これらは伝統的な倫理観や慣習など様々な人間の側面を相対化し、確実でないものとした。そのことはある面では世界をよい方向に導いたと思われるが、一方では「自由」を持て余してしまう個人を増加させることとなったように思う。なんとなく世に蔓延する「生きづらさ」の一端も、この辺りにあるのではないだろうか。
 
このことは、人間の生にとって近代から現代まで続く大きな問題となっている。エーリッヒ・フロムは1941年に出版した『自由からの逃走』において、自由と孤独について論じている。私は本書を通読したことがないため非常に簡単な要約になるが、『近代人は、「~からの自由」(前近代的な身分制度や固定的な家族役割観念等からの解放)を得たものの、「~への自由」(個人の可能性・能力を積極的に表現・実現していくこと)を担う責任感や覚悟が不十分であり、かえって個人に不安や孤独を生んだ』ということが主題として論じられている。

隙あらば自分語り

自分語りとなるが、私自身、親には「好きなように生きろ」と言われ、育った。これは、親に生き方を縛られ人生を悩んでいる人には羨望の環境かもしれない。私もおそらく、(例えば自分が現在全く興味や適性のない)スポーツ選手になれだとか家業を継げなどと強制されていたとしたら、とても嫌だと感じるだろうし、これまでの親の育て方を恨んだりしているわけではない。
 
しかしながら率直に言って、私はそんなに「やりたいこと」がなかった。最近は名取や友人のおかげで少しずつ自分がわかってきた気がするが、これまでは趣味や学業、仕事などについて、そこまで心を燃やせると感じたものがなかった。フロムが論じたように、得た「自由」を持て余し、先を見通せない人生の進路に迷い、闘争を避け、逃走していたように思う。


世界を照らす光

あのね そこら中に
進めちゃうルートが100万通り
走っても見渡しても果てが見えなくて
それが心を弾ませてる

楽しいの先陣を切って
手を取っていざ行こう
あのね さまよってすりむいてもがいたってはちゃめちゃ 

パラレルサーチライト

名取は『パラレルサーチライト』でこう歌ったが、作詞が本人でないにしても、今の彼女は「~への自由」を担うための、不安・迷い・痛みと共に進む覚悟を持っており、それどころか無限大の可能性を前に、ワクワクしているのだと思う。さらには、未来を照らす自らの光で、オタクたちをも連れていってくれる。まさに、目印のない砂漠や大海で方角を教えてくれる太陽ではないだろうか。

人生の拠り所

前述したように、現状の世界は、名取のように積極的自由を求めることができる人は少数派で、自由への不安から逃走したい人が多数派のように思える。
 
だから、その善悪は別として、それでも生きていくために、心の拠り所が重要なのだと思う。それが何になるかは人によって異なるだろう。国、宗教、家族、恋人、友人、会社、創作物、などなど……。その中の一つに「推し」があっても、いいのではないだろうか。 

みんな何かに 酔っ払ってねぇと やってらんなかったんだな…
みんな…何かの奴隷だった…

進撃の巨人第69話/ケニー・アッカーマン

だから私は、自分の人生の指針の一つ、「お天道様」として名取さなを選びたい。
例えば、「この行為を名取が見ていたらどう思うか」、「自分の行動が推しの風評の一部になる」といった意識。私の中では、これらは自由を制限するものであるが、よりよく生きる方向に作用してくれる。ふとやってしまうようなあまりよくないこと(呪詛吐いたり)を押しとどめてくれるからだ。
 

また、彼女はさなちゃんねる王国の「王」としての側面もあり、王国法(実際はただのちゃんねるの慣習)の中には、
・YES TEINEI  ・NO NAREAI ・DEKKAI LOVE
などがある。王国への帰属意識や王国法の遵守は、ひとつ前の例よりも直接的に自由を縛るものである。しかし私は、それが自分に足りなかった丁寧さや感謝の心を意識させてくれ、人生を豊かにしてくれたと感じている。特に、感謝とLOVEを意識することは、人との関わりを避けてきた自分にとって、大きいものだった。

 さなちゃんねる王国ラゲッジタグ
NATORI IS WATCHING YOU.


自戒と誓い

以上述べてきたように、私は「名取さな」及び「さなちゃんねる王国」に帰属意識を持っているが、これは妄信や服従ではない。「お天道様」というと、時に神格化された太陽を指すし、「王」も基本的には支配関係となる。これらの言葉には大きな権力性が付随しがちだ。 

 こちらの切り抜きで話しているように、名取は定期的にリボ払いや悪キー(悪徳キーホルダー)などのボロ商(ボロい商売)をリスナーにネタとして仕掛けてくるが、同時にマジでそうなった場合は介錯するようにも言ってくる。ガチ恋に対する言葉もそうだが、彼女はリスナーとの適当な距離感をよく意識しているように思う。
 
依存することと依拠することは、近いが差がある。VTuberとファンの関係には色々あるが、名取さなは、ファンたちを必要以上に依存させることなく、その活動を通して、「ちゃんとして!」と激励してくれているように思う。 


 また、「せんせえ」たちはよく「民度が良い」と評価されていて、私もこのコミュニティが気に入っている(馴れ合いはNG)。しかし、悪目立ちというものがあり、素行の悪い人間の数が少なくても、「〇〇厨は~」(もしかしてこれって死語・・・?)などと、界隈全体の印象として語られてしまうことが多い。それこそ自治厨にはなりたくはないが、お天道様と自分を見つめて、自戒する機会は時に必要だと感じる。
(※ 一部のせんせえは、ダーツバー語録オタクの話を覚えているかもしれない。気を付けよう。)
  

以上のように私は、名取の輝きに目をくらませ妄信し絶対視するのではなく、そのあたたかい光に目を向けて信頼し見習うことで、きっとよく推し、よく生きることができると信じ、歩んでいきたい。 


2.太陽系の片隅で

惑星は自ら光を発さない。最初から自分語りになるが、私は基本的に欲望や衝動が薄い人間だと自覚している。最近は少しずつ前を向くことはできているが、前述のように「やりたいこと」についてずっとピンときていなかった。私はずっと人生に惑いながら、流されて生きて、光り方を知らなかった。


心に灯をともす――創作と救い

ずっと創作物に救われてきたはずなのに、どこかその作者たちについては、理解できていなかった。どうしてそんなに表現したいことがあるんだろう。葛藤し、苦悩してまで。何がその心を燃やしているんだろう……。今でも真のところは理解できていないように思う。
 
そんな時、名取さながその光で、新たな地平を見せてくれた。この2~3年間、私のアーティストや芸術家に対する認識は大きく変わったと思う。他にも色々自分を見つめなおす大事な出会いはあったが、名取はその最初のきっかけになってくれたと感じている。特に、音楽や美術については、幼少期の学校で植え付けられた苦手意識がずっと抜けていなかったが、その意識がかなり変わってきているように思う。
 
最初に私を救ってくれた創作物は小説だ。幼少期から、文章を読むことは不思議と得意だったし、考えることも嫌いじゃなかった。それでも、それをこの宇宙に向けて電波にのせ発信しようとまでは中々思わなかった。どうにも心が燃えにくく、しかも燃え続けるのも困難な私ではあるが、名取に照らされてやっと今、その反射としてこの文章を書いている。
 
前回のnoteにも書いたが、私は、自分を開示し、他人を理解することを恐れていたし、自身や自身の生み出したものの価値にかなり懐疑的であった。やっと3本目の文章ではあるけど、それでも気が向いた時に書いていきたいと思えるようになったのは、個人的に前向きに歓迎すべき変化だと思っている。 

【雑談】この時期になると様々なランキングがでる https://www.youtube.com/watch?v=dJy5v7HfBT0 よりスクショ


光と影

これまで、名取さなの活動によって救われた自分を、自ら光り輝く太陽とその光を反射する惑星になぞらえて語ってきた。実際、名取はその輝きで、私たちの宇宙の真ん中に存在し、私のみならず多くのせんせえたちの人生を照らし、救ってきたように思う。
 
私が観測しているせんせえは一部であるし、馴れ合い禁止なのでほんとのところはわからないが、生きづらさが軽減され、積極的に推し活をしたり、ヌォンタートをつくったりといった経験をしている方が多いように思う。
 
ここまで書いて振り返った時、私は一つ見落としていたことがあると気が付いた。名取さなの光はまるで太陽のように強いものであるが、それでもただ一人の力で輝き続けてきたわけではないということである。
 
 
ここから語ることは、私自身が観測していないところも多いため、かなり妄想になる。バーチャルナースである名取さなには、「患者服」が存在している。今年の「さなのばくたん。」で改めて向き合った「患者服」であるが、多くのせんせえは、彼女が単なる衣装ではなく、もう一人の(本当の?)「名取さな」であることを知っている。 

 病める時も 健やかなる時も
「ありがとうね」って私は言える
踊るように扉を開いて  

ゆびきりをつたえて

ばくたん2023で、私は「名取さな」との新たな約束を交わし、現在に至る。しかし、結局私は「患者服」について、あまり深く考えたことがなかったように思う。私が名取に出会った頃にはいわゆる「考察要素」として存在はしていたものの、あまり前面に出されていなかった気がする。
 
光と影。あれほど輝き私を救ってくれた名取にも「影」(悪い意味ではない、念のため。)の部分があるということについて、無視してしまっていた。彼女にとってとても重要なことだったろうに。だから今、遅まきながら、少しでも彼女のことについて、考えたいと思う。


救うもの、救われるもの

私たちは「せんせえ」である。名取さなは「(バーチャル)ナース」である。「せんせえ」とは何か。名取さなのファンネームとして設定された名称だ。「名取さな非公式Wiki」によると、『ナースなので親愛と尊敬の念を込めて「せんせえ」と呼んでいるとのこと(Vティーク Vol.1より)』ということらしい。名取さながナースである以上、それは「医者」としての「先生」を指すのだろう。
 
ナースと医者は、協力して対象を癒す。その対象は?一見して存在しない。見え隠れする「患者服」の存在意外には。つまり、これまでの5年間は、「せんせえ」と「名取さな」が協力し、「名取さな」を癒してきたという構造に読み取れる。
 
ばくたん2021において、名取は、せんせえたちへの感謝の手紙を読んでくれた。ばくたん2023では、せんせえたちと正面から向き合って、影をさらけ出してくれた。「自分は救われている」ということを伝えてくれた。これまで長々と書いたように、せんせえたちもたくさん救われているのに。 

人は一人で勝手に助かるだけ

化物語/忍野メメ

結局のところ、自分しか自分を救うことはできない。誰かが親切に適切に手を伸ばしてくれたとしても、救われるとは限らない。その結果を決めるのは、自分の認識だ。自分の問題なんて、真のところは自分にしかわからないし、なんなら自分だってわかっていないかもしれない。誰かが何の気もなくやってくれたことや話してくれたことで、いつの間にか救われているかもしれない。

 
ばくたん2023は、なぜあんなに感動できたのか。それはきっと、多くのせんせえたちの中にはそれぞれの「患者服」がいて、多かれ少なかれ名取と同じように悩み、勝手に助かってきたからだというのが一因にあるのではないか。そして自分たちが関わったその過程で、「名取さな」が救われたということ。みんなが一緒に過ごしてきたその時間が、彼女がここまで内心を吐露することを可能にする信頼を培ってきたこと。
 
自身を、そして多くのせんせえを癒すことのできた名取さなは、私にとっては、立派な「ナース」だ。だからこそ、近くて遠いあなたに届くかはわからないけど、ここにメッセージを残したい。
 
この世界にあなたを発信してくれてありがとう。普段は言わないけど、やっぱりいろんな姿を見せてくれる名取さなのことが大好きです。


惑いながらも

こうしてみると、今まで散々比喩的に彼女を「太陽」としてきたが、実際のところは、私たちと同じ一つの「惑星」なのだと思う。宇宙のすみっこで、同じようなところをグルグル回り、惑いながらも、どこからか受けた光を反射して輝き、更なる他を照らす。
 
VTuberとファンの関係は、個々人によって異なってくるが、幸いにも、せんせえたちは良好な距離感を保てている方が多いように思う。だがこの構造はともすれば依存・搾取関係になってしまう危険性がある。
 
だからこそ、私は時々思い返すことにしたい。彼女は神でも太陽でも王でも偶像でもなく、ひとりの人間であること。私は救われるだけじゃなく、誰かを救うことができる可能性があること。彼女からもらった返しきれないほどのLOVEを、彼女自身や森羅万象に還元していくことを。


結び

心があなたで鳴っている それだけが確かだ

それだけでいいよ 

惑星ループ


余談

名取さなの持つ二面性の一つ、「生と死」への想いも、ここ一年で気になるようになった点だ。

(↑なぜか普通のYoutube画面にならないタイムスタンプ付きリンク)
上で貼った画像もこの配信もそうだが、彼女は視聴者に、「よく生きること」を望み、言葉にしてくれるようになった。 


「死の恐怖を克服するには死を楽しいものとし、迎え入れねばならぬ」 

10分でわかる名取さなの終活 概要欄コメント

一方で、明らかに彼女は、「死」に対して並々ならぬ感情がある。上記切り抜き動画の概要欄の文章は、Carpe diem(一日を摘め、今を楽しめ)ともMemento mori(必ず訪れる死を想え)ともまた少し違った、彼女なりの死への向き合い方なのだろう。
 
この終活切り抜き動画の最初の配信は、2020年8月である(それ以前の発言については、私は把握していない)。彼女が活動を開始して約2年半。活動を通して少しずつ前向きになり、死と向き合えるようになったのだろうか。
 
私は、未来にやってくること、死に対して、あまり真剣に考えることができないタイプの人間だ。今を流されながら生きる中で、死にかけたこともなく、生の実感も死の実感も、なんとなく自分事じゃない気がしてならない。(生の実感については、名取のおかげで改善されてきてます感謝。)
 
逆に考えると、普段丁寧で配慮を欠かさない姿勢を持つ彼女が、一歩間違えれば不謹慎と非難されるようなテーマである「死」について、これほど生き生きと話す(他の雑談も当然楽しそうに話すが、このテーマの時はかなり興が乗っている感が強い)のは、彼女がバーチャルサナトリウムにいることも考えると、きっとなにかしら大きな死の実感があったからなのだろう。
 
彼女の人生や心を真に理解できることはこの先もないだろう。それでも私は、いつかくる別れの日まで、彼女の想いを酌み、Chant推し、Chant生きていきたいと思う。

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