長らく気にかけていたこと

① 世の中に存在するさまざまな宗教、あるいは価値観というものは、全て「ある特定の人たちに向けて発せられた教え」であって、「すべての人に向けて発せられた教え」ではないだろうと思えること

② 例えば初期仏教について考えると、適切な表現ではないかもしれないが、ある種の精神的エリート、あるいは心のエリートとでも言えるような人たちに向けられた教えであるように思えること。子供じみた空想ではあるが、世の中の全ての人が生産活動の放棄をしてしまったら、出家した僧侶は食べるものがなく皆飢え死にしてしまうではないか、と考えたりする。つまり、世の中には出家者には決してならない(なれない)ような人々が必ずいるのであって、別にそれでもまったくかまわないのであって、数少ない出家者たちは、そうではない人々から尊敬を受けつつ、喜捨を受けて身体的生命を維持していてよいのであって、それがいつの世でもたいていは定常状態なのだ、という考え。生殖の放棄にしても、それも人類全てに向かって述べている教えではないだろう、と考える(これも空想だが、仮に人類全てがその教えを実践したら、子供が生まれなくなって人類は滅びてしまうだろう、というような)。

③ また、臨床医をしていれば日常的に接する人々、例えば先天的に知的障害を持つ人、器質的精神病を患う人、後天的にアルツハイマー病などに罹患する人などは、いつの世でも必ず一定数存在し、そういう人々が存在する世の中こそ(もちろん病的状態はないに越したことはないにせよ)、定常状態であると思える。そして、それらの人々自身が自ら選択する価値観として、例えば初期仏教の教えが適切に採用されるとは思えない(そもそも理解できない)。その一方で、医療者側からの立場として考えた場合、これらの自立や尊厳を保つことに困難を抱える人々をもすべて包摂し尊重し、できる限り平等に標準的医療を施せる医師となることは望ましいことであると考えるが、そうすると、医療者自身の成長や悟りのみを求めて研鑽するような考え方だけでは済まず、大乗仏教的な(仏教に詳しくないので記述が正確でないかもしれないが)他者への幅広い慈悲の心が必要になると考える。つまり、医療者には医療者なりの、もちろん医療者だけではなく世の中の全ての人もそうだが、他者から教えられた、あるいは書物に書いてある教えに留まるのではなく、価値観をより発展させ、広範囲にしてゆき、自らの生き方に沿った望ましい価値観を見出し、実践していくことが必要になってくると思える。

④ それでは、世の中に数ある教えや価値観の中からどれを選択し、そして自分で考えてどのように発展させ、最終的にどのような価値を自分に相応しいものとして採択して生きていくのか、ということ。それについて述べるには、まず最初に今まで自分が抱えてきたある種の葛藤について、少しばかり説明しなければならないだろう。それは他者にはおそらく取るに足らない迷いと見られるとも思うが、成長不十分な自分が決して短くない時間、自己の生き方そのものに影響を与える程度には悩んできたことであるので、多少の恥を覚悟で書く。私は長らくいままで、他者から投げかけられたか、あるいはそれを自分の心の中で繰り返し繰り返し反芻して、自己嫌悪に近い感じにとらわれてしまうようなある種の思いがあった。曰く「医師のくせに、なぜ数学を勉強している」、「医師としての勉強や修行に最大限努力を傾けないものに、果たして患者はかかりたいだろうか?」、「本業以外の学問に精を出すものに碌なものはいない」、などなど。

⑤ たしかに、医師という仕事は、一般の世の中の人には崇高な仕事であるとか、立派な仕事であるとか(最近はそうでもないかもしれないが)と見られやすいと思うし、実際そうであると思う。究極的にはアフリカの無医村などに生涯を捧げるような生き方はその典型であろう。しかし、今の日本で医師として周囲から尊敬を得たいとか、高収入を得たいとか、名誉ある地位につきたいとか(教授や院長、学会のボス等)、開業医の親の跡を継いで、周りから立派な後継だと見られたいとか、親に子供自慢をさせてやりたいとか、親に楽をさせてやりたいとか(儒教的には正しいとされるかもしれないが)、これらは全て世俗的な価値観であると思う。無論、悪い価値観だとは言っていない。無条件に選択すべき正しい価値であろうか?そうではないかもしれない、と問うのである。

⑥ 上記のように、初期仏教にしてもキリスト教にしても、そもそも本来的には世俗の繋がりや欲を断ち切る教えであろう。「生産や生殖の放棄」とか、「友のために命を捧げる、これ以上の愛はない」とか、まさにそれであって、普通の意味の自己の保存欲を否定する教えであろう。一方で、自分にとって数学を勉強することが、単純に面白いとか楽しいとかいうだけのことであれば、確かにそれは知的好奇心を満たしたり、暇をつぶす手段のひとつとして、単に自分の知識欲を満たすだけの傾向性の一種であると言えるのかもしれないが、それだけではなくて、物理学などと共に「世界の秘密、仕組み、深淵な法則を知る、解き明かす」ことにつながっているのであり、知的好奇心はそのまま自然法則に対する素直な憧れと畏敬の気持ちに繋がる。それ無くして、単にアミューズメントとしてだけで数学を勉強できるものではない。そして、そのような純粋に自然の仕組みを知りたい、神秘に触れたい、という気持ちは、ある種の出家者の気持ちに通ずるところがあるのではないかと思うのである。

⑦ つまり、例えば研究のみ行い、学生を教育する義務も何もない一流の数学者に対し、研究所を作ってそこの所長になってもらい、論文を書く事を支援するというのは、いわば社会全体で僧侶(=数学者)にお布施をしていることに例えることができると思う。何の役に立つのかは本当は良く理解できないけれど、きっと尊いのだろうと思われる営為を社会全体で支えましょう、と言ったような。自分自身はそのようなお布施を受けることのできる立場にはないので、自分で自分にお布施しているようなものと思える。つまり、医師として収入を得、それで数学書を沢山買い、余暇に数学を勉強する、というような。

⑧ 結論として、現時点で今の自分に一番適する考え方・価値観として心に留めたいのは、今までのように「医者が数学など勉強して物好きな奴だ」とか「倫理的に劣った医者だ」いうように自己卑下をする必要はまったくなくて、純粋科学に対する興味や勉学はそのまま尊重すべきものとして許し、自分自身に生活の糧としてお布施(笑)しつつ、求める学問を追求していってよいのだ、という考えである。他者があれこれいうことは、適当に聞き流しておいてよい。世の中の多数の人と違って、自分はどちらかというと出家者寄りの生き方(どう稼ぐかとかより、純粋に学問的なことを追求する生き方というくらいの意味)を望ましいと思う者であって、世俗的な出世欲や金銭欲からはわりと遠い者である。それ故、世の中の多くの医師のような考えやモチベーションで医師の仕事をすることは、自己の心の問題としては比較的困難である。ただし、純粋に医学的な勉強であるとか、開業医としての収益は度外視して、患者に対し最適な医療はどのようになるか(なるべきか)考えたりすることなどであれば、そのような姿勢は好ましいと思っている。一方、間違っても開業医としての経営とか利益とかにエネルギーを割かない。そのようなことは、まっとうな医療活動を日々行っていれば、ほどほどには自動的に満たされると思っているし(日本の医療制度をほどほどには信頼している、つまり医療者が妥当な医療を行ってさえいれば、少なくとも食うには困らないという意味)、周囲の協力者(顧問税理士さんなど)を信頼して任せるということで充分と思っている。

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