宣告(僕が失明するまでの記憶 27)

 印象的な出来事があったとき、日付や天気、風景、におい、そのときの空気のようなものをまとめて記憶に留めておくのが得意だった。でも、「その日」がいつだったか、どうしても思い出すことができない。なんとなく火曜日だった気はするが、それも定かではない。
 看護婦さんを通して、ドクターから話があるので家族に集まってほしいと招集がかかったのは、手術後、巨人がリーグ優勝してしばらくのことだった。

 約束の日の夜、夕食を終えて呼び出しがかかるまでの間、両親は一言も口を利かず、静かにパイプ椅子に腰かけていた。誰も何も言おうとしなかった。周辺の空気が重力で歪み、時間の流れがせき止められているのではないかというほど重苦しい沈黙だった。
 7時前に主治医のM先生が病室に現れ、僕を含め家族を面会室に通した。部屋にはもう一人の主治医であるT先生のほか、直接の主治医ではなかったが手術を担当したA先生、5月まで主治医だったS先生の姿もあった。僕と両親は、先生方と向き合うように並んでソファに座った。
 最初に口を切ったのはM先生だった。テーブルの上に置かれた眼球の模型を使い、目が見えるとはどのような仕組みなのかを概説した後、話題を僕の病気に移した。強度の近視の場合、眼球が横倒しにした卵のように歪み網膜が引っ張られること、一たび損傷した網膜は再生しないこと、治療は剥離を最小限に食い止め、残存する網膜を使って裂傷をカバーすること、治療を重ねるほど網膜の強度が落ちること、それでも可能な限り視力が残るよう努力を続けたが、剥離に加え網膜症を併発し治療は困難を極めたこと。
 「非常に残念ではあるのですが」とM先生は少し息を整え、「これ以上治療を続けても、見えるようになることは難しいと言わざるを得ない状況です」と言って話を終えた。
 しばしの沈黙の後、「親の目を子供に移植するとか、そういうことはできないんですか」と母が聞いた。M先生は角膜の移植について簡単に説明した後、改めて網膜の性質について解説し、それができないことを告げた。先ほどまでとは違うはっきりとした断定区長だった。
 それ以上質問がでなかったので、話は終わった。T先生もA先生もS先生も、僕も、一言も言葉を発しなかった。僕は下を向いたままずっと黙っていた。

 病室に戻ってしばらくの間、両親は帰ろうとせず、呼び出される前と同様パイプ椅子に座って動かなかった。相変わらず誰一人口を利かなかった。沈黙の重みはさらに力を増し、息をするのさえ苦しくなった。
 長い時間が流れた。あるいはそれほど長い時間ではなかったのかも知れない。やがて両親は、沈黙に耐えかねるように、立ち上がり、そろそろ帰ると母が言った。消え入りそうなほどか細く小さな声だった。
 「うん」
 僕はベッドに寝転んだまま曖昧に頷く。
 パイプ椅子を畳み、いざ帰ろうと踵を返した母が、崩れるように嗚咽し始めた。鳴き声は静かな病室に反響した。悲しくつらい響きだった。底なしの深い谷で吹きすさぶ風のように、行き場を失った魂のように。
 父がかばうようにして母を連れ、足早に病室を出た後、一人残された僕には、なんの感情も沸いてはこなかった。3月に突然視力が失われ、この病院、この病棟に転院してきたときの感覚に似ていると思った。でも決定的に違うところがある。それは、もう可能性がない、ということだった。これ以上、いくら頑張ったところで視力を取り戻すことはない。永遠にない。そしてその現実とともに、これからの人生を生きていかねばならないことが宣告されたのだ。
 でも、僕はそのことで悲しいわけではなかった。子供の前で泣かなければならない母を見るのがたまらなく悲しかったのだ。
 悲しいという感情が心にあることに気付いたとたん、体中が震えだし、僕の涙腺は制御を失った。
 「今は泣いた方がいい。無理してでも泣くんだ」
 微かに残る理性が涙を後押しし、その後は感情のまま泣き続けた。泣き疲れ、文字通り涙が枯れるまで。
 その夜のことはこれ以上覚えていない。きっとそのまま深い眠りに落ちてしまったのだろう。太陽が昇り、街が光に洗われて徐々に白みだす朝が来るまで。