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ずくなしの記【2】

すごい。前に「ずくなしの記」をポストしてからすでに三週間である。それっぽい通し番号をつけておいてこの体たらくであることが、ずくのないことを証明しており、いっそ清々しい。30代の私であれば、謎の責任感から、睡眠時間を削ってでも3日に一度は記事を書こうとしたはず。

謎の責任感、という話でいうと、思い出すのは子どもが幼かった頃の読み聞かせだ。シングルマザーで子育てをしていた私は、子どもがちゃんと喋り始める前の一才ぐらいから、毎晩絵本の読み聞かせをしていた。思うに当時は職場以外に大人と喋る機会がなく、ひたすら子どもに話しかけていたので、「声を出したい」という欲求が根っこにあったかもしれない。

読み聞かせはフルタイムのワーキングウーマンであった私の母が、唯一の子育てっぽいこととしてやってくれていたことなのだが(食事など家の中のことはほぼ祖母がやってくれていた)、母は毎日遅い時間に疲れて帰ってくるので(私は歳の離れた末っ子なので、私が幼稚園の頃には母はすでに45歳くらいになっていた)、「読み聞かせ」と言いつつしばしば話の途中で爆睡してしまい、私は自分で続きを朗読して、適当なところで自分で電気消して寝ていたので、たぶん小学一年生ぐらいで読み聞かせの習慣は終わった。

これに対する逆張りのつもりはなかったけど、私の読み聞かせはめちゃくちゃ長く続いた。最初は好きな絵本を3冊、息子に選ばせていたのだが、せなけいこ3冊と、言葉の多い絵本3冊の読み聞かせにかかる時間はまるで違うので、そのうち冊数ではなく「だいたい30分」で区切るようになった。途中からは絵本だけじゃなく、「王さまシリーズ」や「くまのこウーフ」「モモちゃんシリーズ」「コロボックル物語」「くまのプーさん」みたいな幼年童話や物語も増えた。

読み聞かせの威力だと思うけど、子どもが自力で本を読めるようになるのは早かった。図鑑や歴史もののマンガや伝記、ゾロリみたいな本は、早くから1人でどんどん読み進めていた。ので「もういいんじゃないか」と思うことは何度もあったのだけど、本人は「自分で読む本とかぁかに読んでもらう本は別枠」と決めていて、当たり前のように今夜の本をせがんでくるので、結局なんと六年生まで読み聞かせは続けた。

最後に読んだのはエンデの「果てしない物語」だ。その前の「モモ」も息子のお気に入りだった。私自身は、子ども時代に「モモ」を読んだ時あまりピンと来なかったので(大人になって再読してから良さがわかった感じ)、へぇ、と思いながら読んだ。「果てしない物語」も名前通りの長編ファンタジーで、何ヶ月かかったかなぁ…忘れたけど、かなりの時間をかけて最後まで読み上げた。

この戦績は誰に話しても「それはすごい」と言われる内容で(読んだ人は知ってると思うけど、とにかく長い)、読み終えた時はめちゃくちゃ達成感があったし、「さ、これでかぁかが寝る前に読んであげる本はおしまいだよー」と宣言した時も、喪失感というよりは「今日までよくやったぞ、自分!」感のほうが強かった気がする。息子がその「卒業」をどう感じでいたのかは知らない。

その数年後に、不登校を経た息子が寮のある高校に入学することになった前夜に、彼のiPodに私が入れてあげたColdplayの「Every Teardrop Is a Waterfall」を繰り返し聴いていた後ろ頭は10年近くたった今でも思いだすことが出来るのだけど、「果てしない物語」のラストを読み終えた時、息子が満足そうにしていたのか、寂しそうにしていたのかは、さっぱり思い出せない。たぶん映画を見終わったみたいに満足してたと思う。と、思いたい。

子育て中のいろんなことは「これが最後になる」と思わないうちに最後になってしまうもので、それに比べたら「この本を読み終えたら最後」ということがわかっていたのだから、もう少し何か記念になりそうなことをしても良かったような気がするが、悲しいかなそういう発想は当時の私にはなかったので、記念写真も何もないし、こうやって、記憶もぼんやり薄れていくままだ。

歳とったからとかあまり関係なく、私の子育て期の記憶はどれもかなり断片的だ。デティールまで何度でも思い出せるシーンがある反面、ここ行ったのいつだっけ、どの出来事が先だっけ、みたいなことはかなり怪しい。もっと歳をとると、記憶はもっとあやしくなって行くんだろうな。

そういえば、今年の目標のひとつであった、子供部屋のベッドや机を始末する、というミッションを、先週ようやく片付けた。

ベッドは死んだ父が使っていた枠をお下がりでもらったもので、学習机は私自身が子どもの頃使っていたものを息子に譲った。いずれも木製の質のいい家具だったけど、ここ数年リウマチやらなんやらで体力も落ち、自力で動かせない家具を減らしていかなきゃな…と思いつつ、なかなか業者選定などできずにいたのだ。

年の終わりが見えてきたところで、やっとえいやで業者を決めて、家具引き取りを申し込むことができた(この「えいや」というのはビジネス死語なので20代には通じない、という話を、先日ネットニュースで読んだ)。

頼んでしまえばなんということもなく、当日は3人がかりで重たい家具を6点ばかり、30分足らずでサクッと運びだしてくれて、何ヶ月も気にしながら先に進められなかったのなんだったんだ…という感じだった。

おかげで部屋の隅っこに、1人がけソファとサイドテーブルを置いて本が読めるスペースができた。トップの写真のキャンドルは、そのサイドテーブルに置いてみたもの。押入れ化していた子ども部屋活用への第一歩である。なお、第一歩から本日までほとんど前進はないのだが、そこはずくなしなので仕方ない。いつかは岸に辿り着くだろう、ぐらいのスタンスでいいやと思っている。

ちなみに業者に予約を入れた時は「やっと一歩前進だ!」みたいな気持ちで、ただただホッとしていたんだけど、前の日に邪魔になりそうなものを片づけていたら、急に「この家具とは一生お別れなんだな」と思ってしまい、遅ればせながら泣けてきたので写真だけは撮っておいた。何年か後には、その気持ちも忘れてしまうだろう。

鍵のある引き出しには昔流行ってた交換日記とか入れてた
引き出しから野球カード山ほど出てきた

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