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「百尺竿頭一歩を進める」「巨人の肩」

 大学の時に、教えを請うた教授が、その著作を著す際に、次のような文言を念頭に、文章を書き進めていると言っていました。

 「百尺竿頭ひゃくしゃくかんとう一歩いっぽを進める」
 ※百尺竿頭…百尺もある長い竿さおの先。
 ※百尺竿頭一歩を進める…すでに達し得た高い境地より更に向上しようとする。また、充分に言い尽くした上に、更に一歩を進めて説明する。
 出所:岩波国語辞典

 というのが、辞書的な意味ですが、先生は次のような意味で使われていました。

 「先人のさまざまな優れた業績を前提に、自分ならではの“オリジナリティー”を一つでも加えて、それを研究とする。自分だけで何でもなしえる研究はないが、自分ならではのものを加えないと自分の研究ではない。」

 つまり、全て自分一人だけでなしえる研究はない、全ては先人の偉大な業績のもとに立っているのだ、ただし、自分ならではの要素を加えていくのだ、というのですね。

 かのアイザック・ニュートンも、その書簡の中で、次のように語っています。

 「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。」

 これは、先の教授と同じことを言っており、「先人の積み重ねた発見にもとづいて何かを発見すること」を意味しています。

 『AI時代を生き抜くための仮説脳』(竹内薫著・リベラル新書刊)にも、2006年に世界最初のiPS細胞の作製に成功して、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の山中伸弥教授の話が出てきていました。

 山中教授の「細胞は、生命のタイムマシンになるかもしれない」という究極の仮説は、共同受賞者のJ・B・ガードン教授の実験や、遺伝子の解析をするコンピュータの開発者など、先人の知恵がうまく重なり合って生まれた発想の賜物だったというのです。

 つまり、「ブレイクスルーに繋がるような究極の仮説は、何もひとりの頭のなかだけで立てるものではないんだな」という前掲書の著者の指摘です。

 このことは、理系に限らず、人文系でも同様のことと感じています。

 このたび、『自分の本を出すためのバイブル-最速で自己プロデュース&作家デビューを実現する-』(中谷彰宏著・講談社刊)という本を読みました。

 大変、読みやすい本で、当日中に、通算4回、読んでしまいました。

 著者は、自己啓発本を中心に、これまで1,100冊以上の出版を重ねてきた、ベストセラー兼ロングセラー作家です。

 私も、自分の本を出すことには興味があるので、著者の過去に読んだ百冊超の本を念頭に、この本も即座に買って読んだ次第です。

 そこで、書かれていることに、大変手厳しいことがありました。

 「類書に書かれていることを1行でも書くと、パクりの人と判断される。 書き手は、本が好きな人です。これまで読んできた本が、知らないうちに、自分の考えになっています。それを商業出版で書くと、パクりになります。1行でも、アウトです。『パクる書き手』という烙印は、未来を閉ざしてしまいます。」

 おっしゃることの意味は理解できますが、全て自分だけの力で、つまり、自分だけの経験で、文章のネタにしていくのは、それは限界があろうというものです。
 ※もちろん、盗作をせよ、という意味ではありませんから、あしからず。

 過去の偉大な学者たちが、その先人の偉大な業績をもとに、「一歩、そして、また一歩」研究成果を進めて行ったように、人文系でも、同様の「漸進」が図られて然るべきと考えるのですが、間違っているでしょうか。

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